常陸国中世史備忘録(常陸大掾氏と常陸府中)

常陸大掾氏や常陸平氏を中心に取り上げています。文献屋なので論文を書く資料として、特に面白くも無い古文書や史料を掲載していきます。

城館推測 :明治迅速測図

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林城(林内城)、林外城(鹿嶋市指定文化財):茨城県鹿嶋市




林城(林中城)、林外城の位置


鹿島林氏略系図(常陸大掾系図・群書系図部集3)

吉田清幹 - 盛幹 - 清幹 - 
       行方忠幹 - 
       佐竹義業妻
       鹿島成幹 - 徳宿親幹 -
               神谷戸次郎保幹 -
               鹿島三郎政幹 - 出羽権守胤幹 - 
               用次四郎資幹 -
               立原五郎久幹 -
               林六郎左衛門尉頼幹 - 貞政 - 幹貞 - 知幹 - 国幹 - 幹顕 - 


吾妻鏡の中の(鹿島)林氏
建久元年(1190) 十一月七日の源頼朝の京都上洛の際、「後陣隨兵」として鹿島(林)六郎頼幹が鹿島三郎政幹とともに隨兵している。


鹿島成幹の子とされる系図の矛盾
1109年3月6日、河内源氏の棟梁、源義忠が暗殺された。
『尊卑分脈』では、河内源氏の内紛とし、
源義光が、鹿島冠者(鹿島成幹)に暗殺させ、その口を封じたと記述する。

参照:『源義忠の暗殺と源義光』(佐々木 紀一): 山形県立米沢女子短期大学紀要 第45号 

鹿島三郎政幹・林六郎頼幹らが、鹿島成幹の子とすると、
1190年の頼朝上洛の隋兵時点で実年齢80歳以上の高齢となる。

実際は、一世代以上の世代が欠けていることが考慮できる。


林城(林中城)
イメージ 1

林城(林中城)と林宿
イメージ 4


林外城
イメージ 2

イメージ 5

林城(林中城)と林外城の位置関係
イメージ 3

林城(林中城)と林外城の位置関係(南面からのビュー)
イメージ 6


    
改訂版 図説 茨城の城郭      全国国衆ガイド             続 図説 茨城の城郭 
                 (星海社新書) 大石 泰史 (編集) 


林城、林外城

  

  
かんぽの宿 潮来                     ホテルルートイン鹿嶋




名称:中居城跡
所在地:鉾田市中居字城の内)

城郭研究家の方々のHPでも取り上げらrている、「念仏堀」が特筆される「中居城跡」。


中居城跡・・・・黄色帯枠
イメージ 1
鹿行地域の城跡の中では、
湖岸より少し奥まった舌状台地に構築されている。

中居氏分立初期からこの地域が利用されているかは、不明である。











大字中居(鉾田市中居地区)の範囲
イメージ 2

天正19年2月まで存続したことを考慮すると、鹿島衆の一人としてある程度の勢力を保持したものと考える。

鹿島衆の中では、筆頭勢力として、鹿島氏があげられるが、
中居氏と鹿島氏が実際どのような支配・友好関係にあったかも不明である。

文書で鹿島氏との関係が明瞭な氏として、烟田氏がある。
烟田氏の本拠地である鹿島郡鉾田と同郡鹿島は比較的遠隔であるが、烟田氏にとり、近隣氏族との対立に対し、後ろ盾として鹿島氏を頼っている。





名称:阿玉館跡・阿玉城跡
所在地:鉾田市阿玉字館後山ほか

両遺跡とも近隣にあり、観閲する限り館跡の形態をしている様子。
阿玉城跡について、広範囲な城域があるかは現状では不明。

応永23年上杉禅秀の乱に伴い、阿玉氏は領地を失ったとされている。

阿玉館跡・・・・水色線
阿玉城跡・・・・青線
イメージ 1

他の鹿行地域のように、
湖岸に接する小規模な舌状台地先端に、城館が構築される傾向がある。

阿玉地区内に城館をもとめるのであれば。阿玉氏以後の阿玉地区でも、その可能性はないだろうか。









大字阿玉(鉾田市阿玉地区)の範囲
イメージ 2

応永期に、阿玉氏が膝痛いしたのであれば、のちに他の領主が入植したことは予想しえるが、伝承など特に無いようだ。

地域的に、武田氏や烟田氏、鹿島氏などが想定されるが、不明である。
















名称:(仮)二重作武田城跡
所在地:鉾田市二重作字古屋山

「茨城県デジタルマップ」では、単に「武田城跡」とされているが、
北浦を挟んだ対岸の行方武田氏の本拠地(木崎城・神明城)などとの関係をわかりやすくするため、
所在地である地名「二重作」をつけている。


行方武田氏において、対烟田氏ひいては、鹿島氏領域への進出基地となりえたと考えている。

1949年米軍航空写真
イメージ 1


















米軍航空写真では、おぼろげに単館状の堀ないし土塁らしきものが見える。
規模などを勘案すると、北浦に向かう舌状台地にある、二重作地区の集落などに、
別の場所に本拠地があったことを考慮している。



2016年googlemapより:
イメージ 2



















城主として、武田氏の名が伝わっているというが、
北浦を挟んだ対岸の行方武田氏の分派と考えると、
北部は行方郡青柳(現:行方市青柳地区)に青柳氏を派生させ、
東部は北浦を超えて鹿島郡二重作(現:鉾田市二重作地区)に進出し、
二重作武田氏を分出させていたと捉えてよいだろう。


鉾田市二重作地区
イメージ 3























室町時代初期に入植し、北面の烟田氏や鹿島郡南部の鹿島氏の領土を脅かす存在にまで成長した、
行方武田氏はそれ単体でなしえるほどの実力とは思えず、背景には何らかの権力構造が控えていたと考えている。

事実、ほぼ同時期に常陸国以外から入植したであろう山田氏とは、領域が接するにもかかわらず、
対立したとの伝承が聞かれない。文書や伝承を検討すると、共同歩調をとっていたのでは想像すらしている。

行方武田氏、行方山田氏、行方下河辺氏の三氏について、この点は別途論じたいと考えている。

行方武田氏2016(鉾田市両宿地区および_鉾田市二重作地区の位置関係)
イメージ 4

















■ 関連情報


名称:鹿島原山館跡
所在地:茨城県鉾田市梶山字原山


茨城県遺跡デジタルマップでは、「原山城跡」であるが、
1. 原山の名称が旧鹿島郡以外にも複数所在。 
2. 館形状である。

であることから、「鹿島原山館跡」とした。
実際に、館主などの伝承はないらしいが、

四面の土塁がほぼ東西南北を指していることからも、
時代はさかのぼるのかもしれない。

イメージ 3























1949年の航空写真
イメージ 1























梶山城跡がある、
北浦に対して伸びる舌状台地が鹿島台地に接続する途中に、
鹿島原山館跡が所在する。




2016年:鹿島原山館跡の現況
イメージ 2





















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