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仮称:粟田堀之内
所在:かすみがうら市粟田字堀之内
赤線枠・・・・・字堀之内
緑点・・・・・・・粟田の石塔(かすみがうら市指定文化財・安土桃山時代)
粟田集落から恋瀬川流域に向かった低湿地に「堀之内」「広丁」「広町」などの小字を残す。
1947年の航空写真を見ると、小字「堂前」に方形館のような痕跡がうかがえるが事実は不明。
粟田の石塔(かすみがうら市指定文化財)は、安土桃山時代の六面地蔵石幢で、茨城県内では完形のまま残された貴重な事例とのこと。
粟田の石塔がある墓地は、粟田集落に隣接し、屋敷地と地続きの微高地である。
現在は廃寺となり墓地のみだが、石塔の所在により、中世にまで起源をさかのぼる寺院が存在したことがうかがえる。(小字「堂地」)
墓地から川流域に向かって、小字
「堂地」 → 「堂前」 → 「堀之内」
と続く。
右 1974年航空写真
耕地整理前の写真。
現在は耕地整理により、これらの痕跡は見ることはできない。
写真右は、石岡市染谷地区
写真左は、かすみがうら市高倉地区
写真下は、恋瀬川を挟んで、
かすみがうら市中志筑地区
(志築城跡)
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城館推測:かすみがうら市の堀之内
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上志筑堀の内跡(かすみがうら市上志筑)
所在:かすみがうら市上志筑
現状:森林総合研究所千代田試験場地内
字堀の内である事から、
下河辺氏(益戸氏)が当初本拠地とした可能性が考えられている。
願成寺跡(堀ノ内館跡)(かすみがうら市指定文化財)
志筑山惣持院願成寺跡と言われるこの場所は
権現山城跡からも近い南西の閑居山裾に位置し、上志筑地区の集落とも近い。
従来、下河辺氏(益戸氏)については志筑城跡を中心とした動向が注視されていたが、
・下河辺氏が南郡地頭となった際の本拠地
・府中を取り巻く地域(志筑や小川、高原等)に所領を保持しえた理由
・堀の内から志筑城へ本拠地を移した可能性
などを模索できるのではないか。
![]() ■関連情報
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笠松城跡(佐谷氏居城跡)
所在:かすみがうら市中佐谷字笠松
大掾朝幹の子、佐谷次郎左衛門尉実幹が築いたといわれる。
■系図(新編常陸国誌より)
常陸大掾 常陸大掾
馬場小次郎資幹 - 馬場太郎朝幹 - 佐谷次郎左衛門尉実幹 - 佐谷左衛門次郎胤幹 佐谷氏は大掾氏系図には現れず、伝承においても佐谷実幹以下2代以降の系図が不明瞭である。
常陸国総社神社文書にて総社敷地内の所有者に「馬場左衛門次郎」の記載があり、地元伝承と合わせて、中山本名が考察した結果が新編常陸国誌の記述になったと思われる。
戦国期の常陸日月牌過去帳記載の供養名や秋田藩に随従した佐谷氏の存在からも、複数系統の佐谷氏の存在が明らかになっている。
笠松城跡(佐谷氏居城跡)航空写真:
赤枠: 笠松城跡
ピンク線:鎌倉街道および中世期主要街道推測路
黄色帯:普門寺跡
紺色枠:天文5年石造五輪塔
地元では、本丸に当たるであろう小字「笠松」地内よりも、鎌倉街道沿いで現在宅地化している小字「殿内」地内が「殿様がいたところ」との認識があるそうだ。
ここまで。
■関連情報
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所在:かすみがうら市下土田
地元に残る伝承によると、
天正19年頃、佐竹氏から中根長者に軍用金の徴用を申しつけられたが、中根長者は拒絶したため滅ぼされた。
との言い伝えが語り継がれている。
赤枠:伝中根長者屋敷跡(現:往西寺)
緑枠:伝野寺孫三郎館跡
拡大図:伝中根長者屋敷跡(現:往西寺)
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