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行方手賀氏
本拠地:行方市(旧玉造町)手賀
城館跡:手賀城跡
手賀氏自身の古文書や家譜などは無く、周辺の国人領主らの動向や伝承から考慮して、行方四頭の一つ:玉造氏の領域に隣接することからも玉造氏から分立したと考えられている。
茨城県指定文化財:鳥名木家文書を伝承した鳥名木氏は、古文書の内容および手賀郷内の鳥名木村に分立した手貸氏の庶子家と考えられる。
天正19年2月の、いわゆる南方33館の仕置の際には、
天正十九年二月九日 と傳燈山和光院過去帳に記されているように、手賀氏総領家の兄弟(手賀景幹兄弟とも)が殺され、国人としての手賀氏はここで歴史を閉じた。
だが、近世期になると、いくつかの手賀氏の動向が判明する。
一つは、佐竹氏の出羽国移封に従い秋田藩士なった手賀氏、
もう一つは、新たに行方郡麻生藩に入封した新庄氏に仕えた手賀氏、
の2流が確認できる。
秋田藩士 手賀氏一族の系図
手賀 某 (式部少輔)一 某 (駿河守)※☆―重時一時品一時政
※☆手賀 某(駿河守)が出羽国へ臣従
⇒ 秋田藩士手賀氏
行方地方に残留した手賀氏一族
「麻生町史」によると、天正19年2月の南方三十三館仕置きののち一族離散。
手賀 某が行方地方に帰参し、佐竹氏北家に仕えたらしい。
その後、手賀 某は病死するが、後継ぎの手賀駿河守(某)は佐竹氏北家に従って秋田移住した。
次子与一四郎が現地に残り、やがて麻生に立藩した新庄氏に仕えた。
これが、麻生藩郡奉行をになった手賀氏ということだ。
「麻生町史」と「秋田藩諸士系図」から作成
手賀 某 (式部少輔)一 某 (駿河守)―(出羽国・秋田藩士) ・・・・・
一 与一四郎 ―(行方残留・麻生藩仕官) ・・・・・
なお、手賀 某 (式部少輔)と天正19年2月に佐竹氏に殺害された手賀景幹兄弟との関係は、いまのところ不明。
喜連川文書に残る、戦国末期の手賀氏
手賀刑部太輔 謹言 と、手賀氏2名への書札礼が残されていることから察すると、
手賀刑部太輔、手賀民部太輔が、伝承で言われている手賀景幹兄弟を示す可能性がある。
推測だが、生き残った手賀 某 (式部少輔)は、総領家兄弟と同等の官途を持つ人物として手賀氏総領家に近い庶子とも考えられる。
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常陸行方郡の諸氏
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青柳武田氏位牌
(鉾田市青柳 曹洞宗清流山常圓寺所蔵)
出典:玉造史叢
武田七郎五郎信親
- 武田大膳大夫信治
-青柳弥七郎信維
-青柳大膳信利
-青柳藤左衛門信家
-青柳善右衛門信正
■ 関連情報
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旧麻生町には、足利 持氏の乱(1439)で追われた関宿の城主下河辺義親が、
小高地頭を頼って当地に来て船子城を築いたという伝説が地元にあるという。
「享禄2年(1529年)8月、地頭下河辺治親他郷士・・・」とあるという。
(出典:行方市HP・井上神社の紹介)
最後の当主は、下河辺氏親(佐竹文書・2月日下河辺氏親書状)であり、下河辺義親の子であり、下河辺治親の弟といわれる。 氏親の「氏」は足利義氏などからの一字をもらっている可能性が考慮できる。 この下河辺氏は、「親」の字を通字としており、他の下河辺氏と一線を画している。
なお、行方下河辺氏の一族は、のちに麻生藩に郷士として仕えたとされる。
一部伝承では、佐竹氏に仕えたと言われるが、資料的には不確かである。
これらの情報から推測すると、15世紀中葉頃に、小高氏と麻生氏の領域の間に、
鎌倉府勢力下として下河辺氏が入植していたのではないかと推測する。
下河辺一族の岡部忠則の居館であったとの伝承があるとのこと。
船子城(行方市(旧麻生町)船子字要害)
船子城跡に所在する浅間神社に立つ解説版によると、
足利持氏の乱(1439)で追われた関宿城主下河辺義親が、
小高地頭を頼って当地に来て船子城を築いたという。
あくまで、伝承の域を脱しない地元伝承であるが、
幾つか推測が可能である。
行方城は、中城とも呼ばれ、平安時代末期ごろの行方氏居城と云われている。
その後、行方氏は小高氏、麻生氏、玉造氏、嶋崎氏のいわゆる行方四頭に分かれた。
行方氏惣領としての小高氏は小高城に移った。
15世紀後半〜16世紀前半ごろ、下河辺氏は近隣の船子城から中城に移し、2代のちの天正末期ごろ廃城となる。
古屋城(行方市行方字古屋)
曹源寺にある下河辺義親一族の供養塔と伝承がある宝篋印塔が残されている。
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