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名称: 石川堀ノ内跡
所在: 石岡市石川字堀ノ内
谷津を挟んだ対面には、仲丸地区集落があり、
その付近には、「石川土塁」が所在する。
石川堀ノ内跡および石川土塁(石岡市石川字堀ノ内)2017
赤色枠線・・・・・・・字堀ノ内
黄色枠線・・・・・・・石川土塁
いばらきデジタルマップ(埋蔵文化財包蔵地)では、
「石川土塁」(年代未詳) と登録されている。 石川地区の南側:かすみがうら市の旧出島村地区には、
多数のしし土手が残されている。
そのため、江戸期以降に作られたしし土手の可能性も否定できないが、
集落の歴史、堀ノ内の存在、寺院・街道の配置を考慮して、
ここでは関連して取り上げる。
小字および現地情報:
・「石岡市の地名」(石岡市教育委員会)
・いばらきデジタルマップ (指定文化財・埋蔵文化財包蔵地)
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城館推測:石岡市内の堀ノ内・古館
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名称:小井戸堀ノ内
所在:石岡市小井戸字堀ノ内
文保三年常陸国総社造営役所地頭等請文目録(常陸総社宮文書第21号文書)にあるように、 「 一通 小井戸郷地頭等請文連署
」とあるように、鎌倉末期の小井戸郷地頭権益は複数者で分割支配されていたと思われる。 であるから、「堀ノ内」の呼称ないし実体が早くとも鎌倉末期以前にはさかのぼらないことを考慮すると、 先日石岡市教育委員会から発表のあった「弥陀ノ台遺跡」の「城館跡をうかがわせる複数の堀と区画」との関係性が非常に興味深い。 想像豊かにすれば、「弥陀ノ台遺跡」の「城館跡をうかがわせる複数の堀と区画」は、複数いた小井戸郷の地頭ないし後年の支配層の屋敷などと推測されるのだ。 青色線・・・・・・・字「堀ノ内」
赤枠線・・・・・・・字「要害山」
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仮称:村上堀ノ内
所在:石岡市村上字堀内
地元では「村上千軒」の言い伝えがあり、「その昔、大変栄えた」地域と言い伝えられる。
現在の村上地区では、その言い伝えを証明する物は「竜神山」と「(村上)佐志保神社」ぐらいかと考えていたが、 小字として「堀内」が残っていた。 村上集落と隣接する大砂集落の境を知らなかったこともあり、 小字「堀内」の場所は若干あやふやである。 大砂地区は、近世に府中平村から大砂新田として開発され、のち大砂村として分村した経緯があり、 現在の村上地区と大砂地区の境界は、近世期の村上村と府中平村の境界でもあるわけだ。 赤線枠・・・・小字「堀内」
江戸期の染谷村から延びる旧道が、小字「堀内」の西がを通り山崎方面へ北上する「宍戸道」。
岩間を経由する岩間街道への合流経路を辿らない点は、近世より以前の経路の名残とも予想できるか。
また、大掾氏の嫡流として、村上権兵衛家などが近世の地誌類や系図に村上氏などが登場するが、
史実としては、検証されていない。
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名称:中津川古舘
所在:石岡市中津川字古舘
中津川村全体が小田東禅寺領ではなく、富有人である性祐入道が所属した、または庇護を受けていたのが、小田東禅寺であったと考える。 つまり、中津川村の住人である性祐入道が「富有人」であり、小田東禅寺の庇護を受けていると解釈する。 この点は通説と異なる考えであろう。 小田東禅寺領であったから性祐入道が派遣され富有人になった、とは考えにくいからだ。 「古舘」という小字から推測すると、あるタイミングで「舘」から「古舘」に変わったと予想できる。
予想1: 村内に、別の新しい「舘」ないし城館ができたから。 予想2: 他の村とともに支配する領主が、別の新しい「舘」ないし城館ができたから。 予想3: 近世に入り、「舘」(城館)が使われなくなり、昔の「舘」との表現に変わったから。
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【弥陀ノ台遺跡について】 |











