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名称: 若宮堀ノ内跡
所在: 茨城町若宮字本郷(堀ノ内、二廓)
若宮堀ノ内跡(茨城町若宮字本郷)194712
なお、小字および現地情報は「茨城町史 地誌編」(平成 5 年 3 月、茨城町史編さん委員会)に依った。
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城館推測:茨城町の堀ノ内・城ノ内
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名称: 上石崎城跡
所在: 茨城町上石崎親沢4189
1947年の航空写真ではっきりわかるように、
舌状大地突端部を区切る土塁、および「館の山古墳」が見て取れる。
これは、現状でも変わりない代わりに、そのほかの土塁などは見受けられない。
「館の山古墳」の名称から、館があったと認識・呼称されていたのだろう。
谷津の入り方や田畑の様子から、外郭部の堀らしきものも見受けられる。
赤枠線・・・・・・・本郭跡
蛍光黄色線・・・推定・堀跡
上石崎城跡(茨城町上石崎字親沢)194712_A
上石崎城跡(茨城町上石崎字親沢)2017_y
常陸平氏・石川氏系馬場氏庶子である石崎氏の館と紹介されることが多いが、
その実は不明。
館跡の眼下には、
涸沼中間の北岸の親沢鼻、
対岸には、南岸の弁天鼻と宮ケ崎城跡が位置する。
なお、小字および現地情報は「茨城町史 地誌編」(平成 5 年 3 月、茨城町史編さん委員会)に依った。
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名称: 宮ケ崎城跡
所在: 茨城町宮ケ崎字天王
宮ケ崎城跡_宮ケ崎館跡(茨城町宮ケ崎字天王)
主要地方道大洗友部線道路のバイパス化に伴い、
宮ケ崎城跡外郭および外堀が計画路線にかかり、
平成8年10月から翌年3月まで 茨城県教育財団により発掘調査が行われた。
『主要地方道大洗友部線道路改良工事地内埋蔵文化財調査報告書 : 宮ヶ崎城跡』
茨城県道16号大洗友部線
なお、小字および現地情報は「茨城町史 地誌編」(平成 5 年 3 月、茨城町史編さん委員会)に依った。
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名称: 南栗崎城ノ内跡
所在: 茨城町南栗崎字城ノ内
「茨城町史 地誌編」に語られているように、城館跡を示す痕跡は不明であり、
字の読みが「じょうのうち」、江戸期の文書では「上ノ内」とあるので、判断しにくいとする。
「茨城町史 地誌編」は道理のある解釈であることを尊重しつつも、
茨城町内では、特に「城の内」が多用され、かつ「堀の内」と併存する地域であるため、
後学のため、記す。
赤枠線・・・・・字城ノ内
南栗崎城ノ内跡(茨城町南栗崎字城ノ内)1948
南栗崎城ノ内跡(茨城町南栗崎字城ノ内)2017
なお、小字および現地情報は「茨城町史 地誌編」(平成 5 年 3 月、茨城町史編さん委員会)に依った。
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所在: 茨城町谷田部字鳩内
現状、小字などで積極的に城館跡の場所を特定する情報が少なく、
城郭愛好家さんなどのHPを参考にした。
平姓谷田部氏について、以下にも述べた:
苗字の本願地から、江戸氏配下へ、そして、秋田藩への仕官と、
断片的に追うことができる。
谷田部館跡(茨城町谷田部字鳩内)
米軍撮影の航空写真によると、
中学校が移転する前の、城館推定地の様子が明らかになる。
紫枠線・・・・・小字下屋敷
緑枠線・・・・・小字木戸久保
えんじ枠・・・・小字岡コヤ
赤枠線・・・・・推定・谷田部館跡
「茨城町史 地誌編」で考察されているように、
現在の谷田部地区の集落よりも長岡に近い、
近辺の小字が示すように、中心となる集落地があった痕跡が予想できる。
「新編常陸国誌」には、谷田部氏は、小鶴原合戦以後、褒賞として坂戸新平邑へ移動した旨の記載があるなど、
江戸氏への臣従と本拠地移転をうかがわせる。
「坂戸」は不明だが、
「新平」は、現在のひたちなか市三反田字新平らしく、「坂戸」もその付近かもしれない。
勝田市史に記載されている、勝田市域に在住した谷田部氏とはここで話が結びつくことになる。
隣接する長岡地区、中近世には、長岡地区と二分した上野地区に近い地域に、
その名残である小字が残るのは、谷田部地区がどのように分立したかを探るきっかけになるやもしれない。
なお、小字および現地情報は「茨城町史 地誌編」(平成 5 年 3 月、茨城町史編さん委員会)に依った。
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