常陸国中世史備忘録(常陸大掾氏と常陸府中)

常陸大掾氏や常陸平氏を中心に取り上げています。文献屋なので論文を書く資料として、特に面白くも無い古文書や史料を掲載していきます。

岩付太田氏

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中世〜近世初期に存在した片野城跡の一角に存在する。

佐竹氏による常陸国統一後の家臣団再配置により、
文禄4年(1595年)、佐竹氏一門である石塚氏が片野城に配された。
その際、石塚氏の菩提寺:佐久山浄瑠璃光寺が、片野の地に移動されてきた寺である。

佐久山浄瑠璃光寺は、常陸国北部に興隆した真言宗意教流願行方の一流:佐久山方の本寺である。

浄瑠璃光寺のある地に、以前から寺が存在したとの意見もあるが、
浄瑠璃光寺所蔵文書の端書や追記に、『片野元寺山宝蔵寺』・『云今佐久山』とあることからも、
浄瑠璃光寺移転前に、佐久山方の法統を繋ぐ寺が存在したことを伺わせる。


佐久山浄瑠璃光寺がある片野城跡の谷津向かいの丘地に「元寺山」の小字があり、
他所にあった寺が引寺された際に、五輪塔なども移動された可能性も考慮したい。


左側の高地が墓地。向こうに見えるのが瑠璃光寺山門。
イメージ 1


瑠璃光寺山門
イメージ 2
現在、住職無住となっている。

伝太田資正(道名:道誉) 五輪塔
イメージ 3


中央部に大きめの五輪塔が一基。
左右に、中程度の五輪塔が一基ずつ。
後ろには五輪塔および宝篋印塔の基礎部材が積まれている。

平成2年ごろの太田資正没後400周忌が行われた際、標識や墓域境など整備されたが、
それ以前に移された写真には、中央の大型五輪塔以外は写っておらず、
散在していたものと思われる。

事実、大型五輪塔の背後の石塔部材は、宝篋印塔および五輪塔の部材を積み重ね、
都合四段となっている。
この状況から見て、少なくとも2基以上の小型五輪塔および一基の宝篋印塔が存在し得た構成か。

大型五輪塔を「太田資正」の供養塔ないし墓石とされるが、それを示すのは伝承しかないのが実情だ。

また、左右の五輪塔の部材もバランスに欠け、他の五輪塔部材の混在を示している。



墓域内の五輪塔部材
イメージ 4

太田資正の五輪塔の反対の場所にある、五輪塔部材。

近世初期の五輪塔部材と中世末の風輪。



         




福井市三宅町は、太田資武に宛がわれた所領との伝承がある場所。

福井市三宅町
イメージ 1


画像右手のかんばんに注目。

「太田道灌と太田資正の墓」

と矢印が見える。

「なんで、ここで太田道灌が出てくるの?」との感想を持つ反面、
「ところで、太田資正って誰よ?」との言葉が続くようだ。

今回は、『郵便屋さんからの手紙』というブログサイトを運営されている管理人ほたるさんから、現地の様子の写真をお借りできたので、ご覧いただきたい。

太田道灌と太田資正 供養塔

この供養塔の存在は福井県でもあまり認知度が低いようで、ネットで調べても3人の方のブログでしか見当たらない。

越前福井藩の基礎を築いた結城秀康は、下総結城氏を継承したため、仕官した理由は違えど下総国および常陸国出身者の家臣が多かった。

太田資武について、結城秀康に使えるまでの半生はほぼ伝承や他の古文書からの推定によることが多いが、
次兄・梶原政景と同様に、結城秀康に臣従することになる理由があったことを推測させる。


梶原氏、太田氏とも幕末まで福井藩士として家名を保ったわけでもなく、福井の地に名を遺したわけでもないため、忘れ去られているのが実情だ。

今回は福井県に残る岩付太田氏(梶原政景系を含む)の軌跡を追った。

案内板がり、「太田道灌と太田資正の墓」と明記あるが、説明文にあるように供養のための塔と理解してよいだろう。

この案内板は、福井市内にある史跡・名跡や文化財の所在場所に、ある時期に集中的に設置された形式の案内板で、福井市の各所で散見する。

イメージ 5

紅い矢印の下が、太田道灌と太田資正 それぞれの供養塔
イメージ 2


破損した個所はあるが、ほぼ同型。向かって、
右が、太田道灌の供養塔。
左が。太田資正の供養塔。(道号:三楽斎)
ブログ『郵便屋さんからの手紙』によると、墓碑や花刺しなどは、近年子孫を名乗る方が整えたそうだ。
案内板に寛永年間の建立とあるのは、建立者である太田資武が寛永二十年(1643)に死去しているのでそれまでに建立されたとの推測だろう。
イメージ 3

面白いことに、兄・梶原政景と違い、
太田資武の存命中に、父太田資政や実母の供養を
高野山清浄心院(結城家過去帳)に手配した形跡は無いのも、考察を加える一因ともなった。

太田道灌と太田資正 供養塔からの推定
イメージ 4

宛行状は残存していないが、
「結城秀康給帳」(『福井市史』資料編4 近世二所収、1988、所蔵:松平文庫)および
「源忠直公御家中給帳」(所蔵:松平文庫)に
『太田安房守 3000石』とあり、この三宅町が知行地の中心であった可能性を感じた。


理由1: 初期の太田安房守家菩提寺・安穏寺
現在の三宅町墓地の成立や存在形態は不明であるが、
知行地に墓域を設定し先祖の供養塔を建立することは、供養を行う寺の存在を伺わせる。

『越前国遺蹟考』には、

太田氏菩提寺・安穏寺の開山・元翁がここで没した


ともある。

理由2: 太田資武の最初の墓域の可能性
徳尾町の禅林寺に、太田資武の五輪塔があることは周知のとおりであるが、
父・太田資政の供養塔とともに家名を世に広めた祖先・太田道灌の供養塔を建立したのは、
越前福井の地に根を張り、岩付太田氏の家名を残すべく菩提寺・安穏寺を設けたからこそである。

福井市徳尾町の禅林寺との区別については別稿を用意している。

・2基の五輪塔解体工事の折、一基のみ骨壺に入れられていた点。
・2基の五輪塔がほぼ同型で、同時期に建立された可能性がある点。
・2基の五輪塔とも、太田安房守家系の法名が刻まれている事。
・梶原政景の養子・梶原源太の死去により、梶原氏の系統は絶えた点。









梶原美濃守政景:福井に見る痕跡

慶長7年(1602年)、佐竹氏の出羽国移封に伴い、
梶原美濃守政景は出羽国入りした。

渋江政光とともに久保田城の普請奉行となったといわれるが、一次史料はなく、
雪の峠・剣の舞 ( 岩明 均 著) などで人気をあげている。



その後、梶原美濃守政景は秋田の佐竹氏の下を離れ、
佐竹氏同様、常陸・下総から越前に転赴となっていた結城秀康の配下に収まる。

弟である太田資武も同じく佐竹氏の秋田移封に随従していたが、同様に越前の結城秀康の配下になるが、
同調した動きなのかは不明である。

そもそも、鎌倉府奉公衆・梶原氏を継いだ梶原美濃守政景と、
武蔵岩付城を追われた、父・太田資正が常陸片野城に入ってから当地で生まれたとされる太田資武とでは、
年齢の差もあり、梶原美濃守政景と太田資武が同じ歩調をとったことを示す史料は見つかっていない。

梶原政景・太田資武兄弟は、結果的に、常盤国を中心とした大名になりえた佐竹氏に臣従したのち、出羽国移封後に佐竹氏のもとを離れ、越前・結城秀康に使えることになった。

結城秀康が死去した慶長12年4月には霊位供養をあげているので、
慶長12年4月以前に、結城秀康の配下であったと推測できる。

結城秀康と下では、鯖江市田所町に所領を得たとされますが、
鯖江市神明町の八幡神社に残る伝承では、慶長13年(1608)に梶原美濃守政景により創立されたとする伝承が残り、田所町・神明町を中心に領地を得ていたと考えられる。

鯖江市田所町
鯖江市神明町 
イメージ 1

鯖江市神明町  八幡神社
八幡神社は、慶長13年(1608)に梶原美濃守が田所村地頭であったときに建立したと伝承される
(『福井県神社誌』福井県神社庁 1995年)。
イメージ 2


梶原政景・太田資武兄弟の五輪塔があるとされている禅林寺は、
福井市徳尾町にあり、鯖江市境に位置する。
川を挟んだ対岸には、田所町・神明町などが広がる。

福井市 禅林寺

禅林寺(福井市徳尾町)
イメージ 3


梶原美濃守政景は逆修供養を済ませており、

「武蔵國岩付梶原美濃守逆修 悦叟道喜居士 慶長十五年戊戌七月廿日建之」

逆修供養の五輪塔は高野山奥の院に現存する。


梶原美濃守政景の死去年について

「元和九年十月十八日」および「寛永三年三月二十七日」の霊位供養の記録が残っている。
前者は家臣と思われる人物、後者は養子であり甥の梶原源太による。
この点は、別稿にて開設する予定。
















佐竹氏の下を離れた時期は不明。

実兄である梶原美濃守政景同様、

下総・常陸から転赴していた結城秀康の配下となる。

太田安房守資武は、福井市三宅町を中心とした地域に領地を与えられたとされている。
九頭竜川河口に近い川沿いの地区である。


福井県福井市三宅町周辺
イメージ 1


寛永5年(1628)八月に、福井市本堂町 高雄神社に狛犬一対を奉納している。
福井市三宅町とは同じ山間地を挟んだ南側となり、九頭竜川をいくぶん上流にさかのぼる。
福井市本堂町周辺も、太田安房守資武に宛がわれていた可能性がある。

福井市本堂町 高雄神社
寛永5年(1628)八月 狛犬を奉納
イメージ 2


梶原政景・太田資武兄弟の五輪塔があるとされている禅林寺は、
福井市徳尾町にあり、鯖江市境に位置する。
川を挟んだ対岸には、田所町・神明町などが広がる。

つまり、梶原氏の領地に近い場所に菩提寺が存在する形をとる。

福井市 禅林寺
イメージ 3

兄・梶原政景と違い、父・太田資正の存命時以前は高野山清浄心院と親密なやり取りはしていないようだ。











福井市徳尾町の禅林寺の境内にある、五輪塔の中から骨壺が見つかった。


禅林寺には、太田資正の次男・梶原政景、三男・太田資武の菩提寺であり、二人の五輪塔が並んで供養されていると、伝承されている。

岩槻太田氏の太田資正の三男
長男・太田氏資(後北条氏方に付く、永禄年死去)
次男・梶原政景(鎌倉府奉公衆・梶原氏を継ぐ)
三男・太田資武(永禄期、太田資正の常陸国片野来住以後の生まれの伝承



そのうち、太田資武の戒名「霊顔道鷲庵主」および没年などが彫られている五輪塔が傾いてきたため、修復作業として業者が石を移動させ、解体しているときに壺を発見。石と石の接着面のくぼみに、はめ込まれるような形で保存されていた。




太田資正 - (長男)氏
       - (次男)政景
       - (三男)資武 - 資信 - 資親 − (以下、略)
                  - 梶原源太(政景養子)


以上が、新聞各紙の報道の要旨。

で、以下が本題。

禅林寺では、今回の五輪塔が資武であり、隣接する五輪塔が兄の梶原政景の墓であるとしてる。
(これは、従来現地および菩提寺の伝承)

禅林寺および五輪塔での伝来戒名
 ・太田資武の戒名:霊顔道鷲庵主
 ・梶原政景の戒名:輝山道光庵主


禅林寺HP以外では、これらの五輪塔群に触れる資料が見当たらなく、正確性に欠けるが、
形式がほぼ同じであることから、両方とも同年代に作成されたものの様子。

twitterで、今回の五輪塔修理解体およびそれに伴う法要に参加された方の情報から、以下の点が分かった。

1. 水輪下部と地輪上部の穴を開け、内部に骨壺を入れていた。
2. 五輪塔裏(地輪背面か)に大乗妙法典千部を読誦した旨が刻字されている。
3. 今まで梶原政景の五輪塔とされた五輪塔には、
  別名および別戒名が彫られていること。
4. 5月23日に、禅林寺にて太田資武・梶原政公の五輪塔修繕供養会が
  行われ、太田資武の五輪塔の修理が完成した。
   


元和9年(1623)11月に没と言われる、梶原政景の法名:

結城家過去帳: 東光院殿悦叟道喜大居士。

高野山     :「武蔵國岩付梶原美濃守逆修 悦叟道喜居士 慶長十五年戊戌七月廿日建之」


梶原政景の供養塔といわれる五輪塔の銘刻:
太田兵庫頭
戒名
源朝臣資◯

以上の史料から判断するに、

結論から言うと、福井市禅林寺にある、梶原政景の五輪塔は、
別人の供養塔である可能が高い。

詳細は、別稿にて。




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