心の隙間

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最後に

あと数時間でYahoo!ブログに記事更新やコメントができなくなるようなので、ひと言ご挨拶させていただきます。
2005年10月にこのブログを開設してから早14年弱、途中何年も休んでいた時期がありましたが今日までどうにか続けてこられたのは、みなさんとの交流のおかげです。
ただ、復帰した途端に此処が無くなってしまうというのは、なんと皮肉なことでしょう。
初期の頃に交流があった方たちのほとんどは、ブログを辞めてしまわれたか何処か別の場所で活動されているのか、または私とは合わないと判断されたかで交流が途絶えてしまいましたが、最後までお付き合いくださった方を含めて感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

とりあえず、同じタイトルと同じ名前でこちらに移行しました。
https://kiyory.fc2.net/

もしまた機会がありましたらお立ち寄りください。
みなさんもお元気で!

若気の至り

先日、小澤征爾・松本フェスティバルの演目のひとつ、オペラ『エフゲニー・オネーギン』のゲネプロを観に行った。

この音楽フェスの良いところは、本番さながらの最終リハーサルを無料で公開してくれるところ。

もちろんそれを観るためにはそれなりの手順は必要なのだけど、まともにいい席を取ったら2、3万円もするオペラやオーケストラ演奏を気軽に観たり聴けたりするというのは市民の特権だと思う。

 

この作品はプーシキンの韻文小説をもとにチャイコフスキーが作曲してオペラ化したもので、バレエにもなっているし、けっこう有名な演目らしいのだけど、私は観るまでぜんぜん知らなかった。でも今回は演出も舞台装置も衣装も音楽演奏も歌手も素晴らしくて、おお、これぞオペラ!というくらい見応えがあった。今まで観た中では一番魅力的な舞台だったかもと思ったくらい。

物語の内容を簡単に言うと・・・

ロシアの片田舎、都落ちしてきたと思われる青年オネーギンは近所に住んでいる地主の娘で内気な文学少女タチアーナに一目ぼれされて熱烈な恋文を受け取るのだが、ニヒルを気取るオネーギンは、結婚するなら君だと思うけど自分は結婚に幸せを求める人間ではない。君ももっと分別を持たなきゃいけないなどと説教まがいのことまで言って振ってしまう。すべての人々を俗人として軽蔑し、退屈していたオネーギンは、親友の婚約者でタチアーナの妹オリガを遊び半分で誘惑し、それに怒った親友はオネーギンに決闘を申し込む。結果、オネーギンは親友を撃ち殺してしまい、傷心を抱えて各地を放浪するはめになる。

虚無感を抱えたまま数年後に帰ってきたオネーギンは、公爵に嫁ぎ社交界の華となった成熟したタチアーナと再会する。実はタチアーナもオネーギンを忘れられないでいたのだが、オネーギンがタチアーナに思いを伝えると、今度はオネーギンのほうが振られてしまう。タチアーナに今も貴方を愛している、でも時間は元に戻らないのよ、永遠にさようなら、と言われて。オネーギンは絶望の底に沈み込む。

といったような話。

まあ上流階級の男女の恋のすれ違い話というか、若気の至りが招いた悲哀というか・・・悲劇なんだろうけどあんまり悲劇的な感じがしないのは、農民や乳母を含む田舎に暮らす人々や親友や妹が人生に前向きで明るく描かれているのに比べて、主人公オネーギンが只一人バカみたいに厭世的で滑稽に見えるからかもしれない。

大概の人は純粋でまっすぐな娘タチアーナの気持ちに沿ってこの歌劇を見ると思う。それだけ出番も多いし、ソロ場面もたくさんあって、タチアーナの魅力満載の演出になっている。一緒に観た知人(このゲネプロ見学のチケットを譲ってくれた人)も、オネーギンはどうしようもなく嫌な男だけど、舞台は美しくて、タチアーナは最高!と言っていた。

でも私は嫌な男オネーギンに思い入れてしまった。そして若気の至りのようなものを次々に思い出して、なんともいえない気持ちになった。いや、昔の恋バナのことだけじゃなくて。

なんかねぇ、この歳になると若かった頃の自分の残酷さとか滑稽さとかにしみじみしちゃうのよね。 つい数年前まではその延長にいたからか、そんなに気に留めることもなかったのだけど、最近特に思い出す。 無用に人を傷つけたり、無知ゆえの怖いもの知らずな行動や、頭でっかちの発言とか。

いえ別に後悔しているとか、時間を元に戻したいと思うことは・・・・・

あるわね(笑)

ゆくえ

どうなってしまうんだろう、この国は。
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が、開催後たった3日で中止に追い込まれた。理由は慰安婦の象徴となった『平和の少女像』などを展示していたことに抗議や脅迫が殺到し、安全が確保できなくなったからだという。
 
抗議のほとんどが、政府の意向に沿わない主張を感じさせるもの、「反日」的な作品展示に税金を使うのは許さないという考え方だ。
驚くのは河村名古屋市長や政府の公人がこの展示について批判して中止に追い込むことに加担したことに、それが当然だと思う人が多いという事実。
芸術監督の津田大介氏が言う【この数年、日本の美術館などの公共空間で広がる創作作品が、「政治的な内容」を理由に次々と閉め出される異例の出来事に注目し、一人ひとりの市民が考えるきっかけを提供することが目的の一つである。】の結果がこれであることに恐怖を感じる。
権力の政治的な見解から外れたものは、締め出し、排除、撤去、抹殺といったものになったら、それこそ表現の不自由どころか、全体主義の怖さを描いたジョージ・オーウェルの『1984年』のSFの世界が現実になってしまう。
流されてはいけない。煽られてはいけない。

イン・ザ・プール

奥田英朗の昔の小説にこんな題名のものがあった。
伊良部というハチャメチャな神経科医と依存症や妄想癖、強迫神経症に悩む人たちの話。
その中に、体調不良を改善させるために始めた水泳に嵌ったのはいいけれど、だんだんとプール通いがエスカレートして、一日一回泳がないと精神的におかしくなってしまう男が出てくる。
ある日、いつも仕事帰り行っている市民プールが休館日なのに泳ぎたいという欲求を抑えられなくなった男は、夜中その施設の鍵を壊して中に侵入する。そして一人プールで泳ぎ、やっと精神を安定させる。
精神の安定のために犯罪的な行為にまで及んでしまうプール依存症。
映画も観ていて、小説とごっちゃになっているので、たぶんこんな話だった程度の記憶だけど・・・
 
なぜこれを思い出したかというと、自分がこれに近いのでは?とふと思ってしまったから。
 
いま私は週ニ回のバレエレッスンと週一回の太極拳を続けているのだが、その他にフィットネスクラブにほとんど毎日通っている。
きっかけは膝の痛みの軽減のためのジム通いだったのだが、膝の痛みが治まってからも、ピラティスと筋トレと有酸素運動を組み合わせて一日二時間程度の運動が欠かせなくなった。
理由は、せっかく月謝を払っているのだから利用しなきゃもったいないというケチ心と、もしトレーニングを止めたらまた膝が痛くなるんじゃないかという恐怖心だ。
しかしだんだんエスカレートしてきた。 疲れていても具合が悪くても、一日でも休むと不安になる。
仕事や用事でジムに行けない日は空しさと罪悪感でどうしていいいかわからなくなる。
 
でも、トレーニングができない日があったとしても、なぜ罪悪感を覚えなければならないのだろう。
私はアスリートではない。企業の看板を背負っているわけでも、肥満の解消とかゴルフの上達のためとかの自己目標達成のためにトレーニングしているわけでもない。
それをしたからといって別段得することなんて何もない。
いうなれば、トレーニングすること自体が目的化してしまっているのだった。
 
これがトレーニング依存症なのだと気づいたのは、先日だ。
毎日のようにジムに行くと顔見知りになる人が何人もできる。特に挨拶しなくても、ああ来てるなという人たち。
ある日、仕事の関係でいつもとまったく違う時間帯にジムに行くと、その「顔見知り」に会った。
あれ?この人こんな時間にも来てるんだ、と思った。もしかして一日中ここに居たりして・・・なんて想像して、ちょっと異常なんじゃないかと思った。なんか他にやることないの?とか。
そしてその思いはそのまま自分に返ってきた。
 
調べたらあるある・・スポーツ依存症、筋トレ依存症、エクササイズ依存症などなど。
本当にエスカレートしていくらしい。
これらは、ストイックな自分に酔えるというか、アルコールやギャンブルやネットゲームに依存するより後ろめたさがない分、本人に自覚が生まれにくいという点に於いて、逆にタチが悪いのではないかと思った。
 
自己チェックしてみると、幸いなことに私はまだ初期症状みたいだ。
生活への支障、弊害というのはそれほと無い。
敢えていえば、家にいる時間が減り、家事がいい加減になり、読書時間が減り、ネットに向き合う時間が減り、芸能に興味がなくなり、人付き合いが悪くなり、お洒落をしなくなった。
ただ、これは弊害なのかどうかわからない。
数年前の仕事依存よりはマシなような・・・
 
それにしても、金子文子じゃないけれど、「何が私をこうさせたか」だ。
 
今まで生きてきた中で考えてみると、自分はけっこう何かに依存しやすいように思う。
いっとき憑かれたようにそれに嵌り、執着することがある。
それを依存と呼ぶとしたならばの話だけど。
逃げているのかな。何から?
 

以前とは違うこと

極めて個人的なことだが、あれ?こんなはずじゃなかったのに・・・と思うことがここ最近多くなった。
というか、以前とは違う自分に最近気が付き始めたと言うべきだろうか。
 
たとえば、朝起きてから出かけるまでの時間がすごく長くなった。
出かけるギリギリまで寝ていて、顔洗って髪梳かして、化粧はせず、ご飯も食べずに飛び出すまで10分も掛からなかった若い頃と比べるつもりはないけど、わずか数年前までは朝起きて出発まで一時間あれば、洗面と化粧、着替え、洗濯機を回して、コーヒー淹れて、簡単なお弁当を作って朝食も食べられた。
それが今では最低でも一時間半ないと同じことが出来ない。それですら余裕がないと感じる。
一体なにが違うのだろう。
 
それから、私の趣味のひとつに読書があるのだけれど、2週間に一度図書館から10冊本を借りることを習慣にしていた。速読なほうなので以前ならそのくらいはすぐ読んでしまって、その他に買ってきた本などを時間を見つけては読んでいた。
それが最近、その10冊すら2週間で読みきれずに返却することが多くなった。
老眼はそんなに来ておらず目が疲れるという実感はないのだが(そりゃあ若い頃のように12時間ぶっ続けで読んでも平気ってわけじゃないけど)、なんとなく読む気が起きないのは何故だろう。
読み切れずに返却しても、まるで手付かずでも、再度借りようという気が起きないのも変だ。
もともと乱読のほうだけど、最近ますます本の選択に一貫性がなくなっているのも自分で気になる。
情熱とか夢中になるという気持ちが薄くなってしまったんだろうか。
 
ちなみに最近読んだ本(手元にある分で、このうち半分は図書館から借りている)
・久世塾 久世光彦
・貧困の光景 曽野綾子
・静かな爆弾 吉田修一
・アメリカの鳥たち ローリー・ムーア
・惑いの森 中村文則
・帝国の慰安婦 朴祐河
・歪む社会 安田浩一×倉橋耕平
・歴史修正主義とサブカルチャー 倉橋耕平
・奥様は愛国 北原みのり・朴順梨
・日本の反知性 内田樹
・アート・ヒストリー 大野佐紀子
 
感想を書いてみたいという気持ちは、書かないにしろ以前はあったが、今は湧いてこない。
読みっぱなしでどんどん忘れていく。内容が酷なものが多いから忘れたいのかもしれない。
かといって楽しい本も読めなくなっている。じっくり味わう文学作品も読めない。
 
変わらないのは夜更かしの癖だけだ。

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