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我が世界観も、「人生とは何か」「自分とは何か」のシリーズが終わり、いよいよ「世界とは何か」というところまで来た。このブログは自分への限りなき挑戦である。果たしてこのブログが完結するのはいつになるのか、自分でも見当がつかない。
聖徳太子の言葉に「世間虚仮、唯仏是真」というのがある。
この意味を、「この世界は蜃気楼のようなもので実体がない。ただ仏のみが真実である」と解釈してきた。虚仮というからには表面と中身が違う、欺瞞に満ちているということであろう。
ところで、この世界は「宇」と「宙」で成り立っている。
「宇」は空間、「宙」は時間。即ち時間と空間である。この世界に存在する生きとし生けるものは時間と空間を離れて存在しない。現在大阪にいる自分が同時に東京にいることができないようにである。
人には、この時間と空間に制約される「物理的世界」と頭の中で想像し自由に思考を巡らせる「精神的世界」がある。
従って、自分の世界という場合、このふたつの意味が離れがたく含有されているのだ。
生まれて未だ少ししか時間が経過していない場合は、自分の世界というものは極端に小さく狭い。
せいぜいが母親や家族、少し大きくなっても町内がテリトリーであり、意識の発達も幼稚なので頭の中で描くイメージも貧弱である。
自分が認識できる範囲というのはその程度のことだ。それが大人になっていくと共に、次第に世界が拡がっていく・・・・・つまり自我の発達と見合うように自分の世界も拡充し豊かな色彩を帯びていく。
幼い頃は、自分の世界と他人の世界との境界が明確に区別されるが、それは自分を取り巻く人間関係が親兄弟といった近親者か、ごく親しい近所の友達というように単純で限定された範囲に止まるからだ。
しかし、小学校、中学校、高校、大学へと進み、社会の一員となる頃には、人間関係の輪は拡散し、且つ重畳的になるから、必然的に、他人の世界との係わり合いが複雑で濃厚になる。その関係は、親兄弟、親戚、友人、先生、同僚、上司、恋人、ライバル等に及びその場所も家庭、学校、職場、趣味のサークルその他様々であり、それぞれに閉鎖的な世界があってその一員となっている。
当然それぞれの世界にはそれぞれの価値観がある。
そういう多元的な世界に属している事が、その人にとっての自分の世界にプラスに作用しているのか、逆にマイナスに影響しているのか、という問題も生じる。
付き合いが広いから自分の世界が拡がっていくとは限らないのだ。
確かに付き合いは拡がる。しかしその拡がりの分だけ自分固有の世界というものが、他人の世界からの侵食を受け、次第に狭まってくるというリスクも懸念して然るべきだ。
まあ、そのことをよく言えば融合だ。今までモノクロだった世界が色づけされてカラフルになったということだろう。黒一色だったキャンパスに他の色彩が加えられて紫や赤に変化したということだ。
と同時に、キャンパスも広くなった・・・つまり自分の世界が拡がった。
その代わり、ということがある。
どういうことか?
自分のオリジナルな色彩が復元できない。ドンドン自分が変化していく。
人間が永く生きる。ということはそういうことである。他人との関係が拡充するということは、自分のキャンパスに他人の色んな色彩が上塗りされていくという意味を持つ。
逆もまた真なりで、自分もまた他人に影響を与え続けている。
以上のような切り口からしても、結局、この世界観を貫く主要テーマである「不変の自己などない」という結論になっていく。
自分があるーとしても日々刻々と変化している自分しかないが、それでも 自分 という意識の枠内で昨日の自分と今日の自分そして明日の自分へと、時間の流れの中で、いしきの同一性を保とうとするものがある。
そのことを、西洋心理学では「アイデンティティー」と呼んでいる。
「われ思う、故に、我在り」とはよく言ったものだ。
と今回はここまで。また次回に。
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