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科学技術と法

科学技術と法

法は守られなければ機能しない。

個々人の力が比較的小さな場合は、少数の人が法を破ったとしても大した影響はあるまい。この程度であれば、一般に法の機能は保たれていると言えるだろう。

しかし、個々人の力が大きくなった場合はどうだろうか。
この場合、たとえ少数であっても違法行為がなされれば、多大な悪影響が社会に及ぶのではないだろうか。
では、もしこの影響力が極めて大きくなったとしたらどうだろう。強大な力をもった「一人」の人間が法を破るとき、それでも法は機能していると言えるだろうか。

このような事態は、すでに、核ボタンの存在によって実現している。
大統領個人の意志で、世界が破滅する可能性がある。これほど強大な力になると、もはや人は法を破るのではなく、法を超えてしまう。核ミサイルのボタンを押すとき、大統領は法の領域を超えた存在となっている。
なぜなら、国家が核ミサイルをもち、それを押す権限を大統領がもつ以上、「核ボタンを押してはならない」という法には意味がないし、「特定の条件下で核ボタンを押せ」という法を実践した場合、世界を破滅させてしまい、その瞬間法が無意味になってしまうからである。

幸い、核ミサイルは未だ発射されてはいない。核ミサイルの場合、発射できる人間の数は国家元首などごく少数の人間に限られるから、安全管理が比較的容易だということもある。法を超えた人間はわずかで、しかも管理が行き届いているから、こうした例外を除いては、一般的に法の機能は保たれているといえるだろう。


では、次のような場合はどうか。

バイオテクノロジーやナノテクノロジーが発達し、一般に普及したとする。例えば、インターネットで簡単なキットを購入すれば、家庭でバイテク生物やナノテク機械を製作できるようになったとする。

さて、このキットを使って、悪性の病原菌やウィルスやそれに似た機能をもつ超小型機械をつくる人間が現れたらどうなるだろうか。

生物兵器や化学兵器は「貧者の核兵器」と呼ばれている。核爆弾などと違い、これらの技術は小型化が容易で、費用も桁違いに安いから、いずれ商品として販売されたキットを改良してつくる者が出てくるかもしれない。

無論、法的な規制はかけられるだろう。ある程度以上の使用は厳しく制限されるに違いない。
しかし、法は必ず破られるものである。例えば、臓器移植が可能になった後、発展途上国で臓器売買が多発している。

そうであれば、製造方法や技術が容易に手に入るようになれば、法による規制は十分に機能しなくなるだろう。たとえ個人的利用が制限されたとしても、バイオ・ケミカル関連企業は、こうした技術を備えることになろうし、そこで働く人間の多くが利用法を修得するだろう。

個人であれ企業内部の人間であれ、こうした技術を利用できる人間の影響力は極めて大きいと考えられる。さて、こうした人間が世界中の国々に存在しはじめたとき、各国の法あるいは国際法は機能しうるだろうか。社会は彼らの違法行為を防ぐことができるであろうか。

バイオ/ナノテクノロジーを商業利用する以上「これらの技術を利用してはならない」という法には意味がないし、「特定の条件下で利用せよ」という法を実践した場合は、違法行為が世界を破滅させるから、その瞬間法は無意味になってしまう。核ミサイルに類似した問題が生じるのである。しかも核ミサイルと違って、管理がほとんど不可能である。

そうであれば、このときもはや法の機能は保たれてはいないと言えるだろう。


さて、法と、法に基づく諸制度以外に、社会の安全を保障するシステムを人類は保持しているだろうか。法が機能しなくなったときに、我々はどうやって社会の安全を守ることができるのだろうか。

「そこまで悲観的にならずとも、より洗練された法や諸制度を構築することで解決できるはずだ」
そう考える人もいるかもしれない。
では、具体的にどうすればいいのか。

「それを考えるのが、我々の課題である」
そう答えが返って来るかもしれない。
しかし、この返答には説得力があるだろうか。


予定していた記述の順番と異なるが、重要と思われるので書いておく。

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最近の農薬について

最近の農薬について

近所の田畑では数年前から低農薬栽培(正式な名称は忘れた)が行われている。例えば、これまで水田では6〜7月の梅雨時に幾度も農薬を散布していたが、今はなくなった。田植えを終えた直後に一二度散布するだけである。

初めて低農薬栽培が行われた年の夏は、町中も含めて一帯が虫だらけになった。
いかにそれまで農薬が虫を殺していたかが感じられた。日が落ちて辺りが暗くなると、コンビニの明かりにクワガタやカブト虫が殺到し、何匹も拾って帰ることができた。田んぼのそばを流れる小川の土手には巨大な女郎グモが無数に巣を張っていて恐くて近づけないほどだった。バッタや蝶もいくらでもいて、世界が生き返ったかのような気がした。

ところが、その翌年にはぱったりと虫がいなくなったのである。奇妙なことに、その年も低農薬栽培は続けられていた。田植えが終わって一二度だけ農薬散布が行われただけである。しかし、散布が終わって数日後に行ってみると、虫は一匹もいないし、いても弱々しく動いているだけだった。使用する農薬が変わったのだと思う。

前年は水をはった田んぼにオタマジャクシがいっぱい泳いでいたが、今はどこにも見い出せないのだった。さらに数日後に見にいき、やっと二三匹のオタマジャクシがゆっくりと泳いでいるのを見つけたが、普通オタマジャクシは一か所に大量に泳いでいるものだ。
農薬関連の資料を見ると、農薬はオタマジャクシを殺さないことになっているようだ。では、なぜオタマジャクシが消えたのか。

次の年も低農薬栽培は続けられていたが、まさに沈黙の春となった。無気味なくらい田んぼから生物が消えていて、ただ稲だけが無菌室で育っているかのように元気だった。
なぜこうなるのか分からない。低農薬だからいいのかと思ったら、どうも違うようだ。散布回数を減らす代わりに強力な農薬を使っているのだろうか。


ところで、農薬散布をする度に耐性を備えた害虫が現れるから、より強力な農薬が必要になる。このいたちごっこをもう何十年も続けてきた。その間、虫は幾度も世代交代を繰り返しながら耐性を高めてきたのである。さて、これをさらに繰り返していくと、やがて農薬の強度が人間の許容度を超えはしないだろうか。

今年散布される農薬は、再来年あたりは効かなくなるだろう。オタマジャクシを殺すような強力な農薬が使い物にならなくなるのである。そうなると、そろそろ人間に効きはじめはしないかと恐くなる。


ついでに書いておくと、日本の米は苦い。かつてネパールで半年ほど過ごした後、帰国して最初に食べたご飯はひどく苦く感じた。ネパールの米とあまりに違うのである。噛めば噛むほど甘くなるというのは、日本の米には当てはまらない。そのとき、この苦さは農薬の苦さではないかと思った。
その後日本の農家で食べた米は苦くはなかった。日本の農家は、自前で食べる米には農薬を散布しないのである。

無論、これは憶測にすぎない。専門家は「農薬は苦くない」とか「食卓に上る米に農薬はほとんど残っていない」などと言うだろう。しかし、温暖化にメリットがあると言ったり、アメリカの牛肉が日本の牛肉よりも安全だと断言する科学者が大勢いる世の中だから、これも当てにはできない気がする。自分の感覚を信じた方が、より安全だと思う。


もう一つ書いておくと、1995年頃の米不足のときにブレンド米なるものが販売された。タイやオーストラリアから輸入した米を日本米にまぜて売り出したのである。この米は、袋を開けて一二か月たつと、中から羽をつけた小さな虫がいっぱい飛び出した。一般の日本米では絶対に起こらないことである。

リスク評価と環境保護

狂牛病のリスク評価は似非科学ではないかということを以前書いた。

http://blogs.yahoo.co.jp/kk_kenjijp/875540.html

狂牛病には未知の危険性の存在がありはしないかと懸念されているのに、既知の危険性のみを扱ってリスク評価を行い、アメリカ産牛肉の輸入再開の論拠にしようとしているからだ。

ここで議論を環境保護に広げてみる。

もし未知の危険性に配慮しないリスク評価が似非科学だとすると、現在行われている環境リスク評価もまた似非科学となりはしないだろうか。なぜなら、未知の危険性が現実化し多大な被害を引き起こす可能性こそが、環境問題の特徴であると考えられるからだ。

例えば、二酸化炭素排出によって引き起こされる温暖化の危険性は、異常気象や海面上昇やマラリアの蔓延など、すでに予測されたものだけに止まるとは考えられない。我々が全く予想もしなかった新しい事態を連鎖的に引き起こす可能性がある。例えば、温暖化が北大西洋海流を弱め魚介類の生息に影響することまでは予測できるが、これで影響が終わるとは考えられないだろう。しかし、そこから先の影響を予測するまでには至らないのである。(http://blogs.yahoo.co.jp/kk_kenjijp/1091988.html

予測しなかった事態が生じた具体例が、代替フロンガスの温室効果であろう。

代替フロンとは次のようなものである。

「オゾン層破壊力の大きい特定フロン(CFC類)に替わり生産されているフロン類。当初はCFCに替わりオゾン層破壊力が弱い代替フロンHCFC類が広く使用されてきたが、HCFCは漸次生産中止の方向にあり、現在はオゾン層を破壊しない第二世代の代替フロンHFC 類が使用されるようになった。しかし、代替フロン類はいずれも温室効果が極めて高く、HFC類は京都議定書で削減の対象ガスに加えられた。」(『JCCCA温暖化用語集』 http://www.jccca.org/find/yougo/detail/?id=100 より)

つまり、オゾン層保護のために代替フロンを導入したら、それが強力に温暖化を促進すると判明したのである。さて、代替フロンを導入する際に行われたリスク評価は、代替フロンが温暖化を促進することを計算に入れていたのであろうか。

計算に入れていたとすれば、温暖化促進の作用を過小評価していたのかもしれない。あるいは、温暖化そのものをオゾン層破壊よりは悪影響が小さいと過小評価していたのだろうか。

計算に入れていなかったとすれば、代替フロンが温暖化を促進するとは考えてもいなかったのであろう。未知の危険性が現実化した実例である。


以上のことから、現行のリスク評価には信頼がおけない。
リスク評価のリスクを評価する必要があるだろう。しかし、これまた評価手法に遺漏があり得るから信頼できない。リスク評価のリスク評価のリスク評価が必要になる。後はこれの繰り返し。無限後退に陥る。

従って、リスク評価の科学性と信頼性が問題となる。

上述したように、未知の可能性を捨象し、既知の定量化可能な要素のみを利用することで、リスク評価の科学性は保たれるとしても、その評価結果には信頼性をおけないだろう。似非科学ではないと主張できるけれども、評価結果には大きな誤りの可能性があるのである。そうであれば、この種のリスク評価に基づく科学的な環境保護対策にいかなる意義があるのだろうか。

おそらく、迷信や狂信によって生じる混乱を抑えるという効果はあるだろう。また、一定の間隔をもうけて特定の危険性のリスク評価を繰り返すことで、ある程度精度をあげることができるだろう。
しかし、新技術の利用を認める指標とはなり得ないと思われる。それには危険性が大きいのではないか。リスク評価を通して新技術の利用を認めることで、地球規模の大きな悪影響を引き起こす可能性がありはしないだろうか。

温暖化にもメリットがある、一概に否定すべきではないという意見がある。

http://hotwired.goo.ne.jp/news/20050331305.html

これは本当だろうか。

100年後程度に限れば、いくつかのメリットはあろう。それまでは気温上昇は許容範囲内にあるから、例えばロシアやアラスカの永久凍土地帯が穀倉地になるかもしれない。問題は、100年後以降である。100年後以降、温暖化が自然終息するという予測はない。むしろ、年を追うごとに温暖化は深刻化すると考えられる。

例えば、永久凍土の溶解によって腐葉土からメタンガスが大量に発生すると考えられている。海水温上昇によって世界中で珊瑚が減少している。珊瑚は二酸化炭素を吸収する働きをもつが、今後この働きは期待できなくなるだろう。海底のメタンハイドレードが海水温の上昇によって溶けはじめるという予測もある。

こうしたことから、温暖化は年々加速すると考えるべきである。100年後まではまだメリットがあるかもしれない。しかし、200年後の2200年までには何度上昇するのか。さらに2300年までにはどうなるのか。気温が上がりすぎてアラスカすら不毛の地となりはしないか。

翻って、今後温暖化を抑制する要素はあるだろうか。近い将来、工場や自動車などの二酸化炭素排出ガス削減に成功したとして、では腐葉土からのメタンガス排出はどうやって削減するのか。珊瑚に代わる量の二酸化炭素をどうやって吸収していくのか。メタンハイドレードの溶解をどうやって防ぐのか。これらの技術的な解決策などまだ手つかずである。

「そのころまでには温暖化を防ぐ技術が開発されているだろう」という主張は、根拠がなく信頼できない。科学的議論にはそぐわない。単なる希望的観測に人類の未来を賭けることはできないだろう。

以上のことから、温暖化にもメリットがあるという議論は、100年後程度の短期間では妥当する可能性があるが、その後生じる事態には当てはまらないと言いうる。

さて、短期的な利益とは比較にならない損失を将来生み出しかねないものに、何のメリットがあるのだろうか。このような主張が温暖化を肯定する論拠になりうるのだろうか。


こうした不毛な議論がなされる理由は何だろうか。
例えば、「温暖化にもメリットはある」と主張し続けることで、二酸化炭素を排出する企業や国家は、当面の活動を確保することができるだろう。同時にしばらくの間、責任論を回避できるだろう。
そのために、この種の不毛な議論がなされるのだと思われる。

当面の議論に勝って、当面の利益を確保しようとする。そのために巧妙な論法で問題を歪める。
例えば、上述したように、問題とする期間を限ることで論点をぼかし議論を有利に進めようとする。あるいは、今後の対策のみを論じることで結果責任を問われないようにする。

こうした手法は環境問題だけに見られるものではない、政治的な議論の場に氾濫している。
しかし、このような手法は、環境問題のように重要で緊急を要する問題に対して許されるべきではないだろう。毒薬と知っていながら「甘いからなめてごらん」とすすめるようなものだ。

環境保護は可能か

環境保護は可能か


環境破壊は、その規模と範囲、複雑さと多様性の大きさゆえに、おそらく人類史上最も深刻な問題である。
例えば、我々の社会システムや日常生活のあり方すべてが環境破壊に密接に関与しているから、環境問題を考える場合には、経済、科学、政治、教育、文化などあらゆる分野に目を配らなければならない。

従って、各分野のどれか一つに集中して結論を出すのは危険である。各分野ごとの活動だけでは十分な対応は期待できはない。

(1)例えば、技術者の視点から環境問題に取り組む場合、技術的な対策を立てることに視点が狭められがちである。その好例がハイブリッドカーなどの技術革新による温暖化防止策であろう。しかし、世界中の自動車生産・利用台数を考えれば、こうした対策にいかほどの効果があるか疑問である。

ハイブリッドカーが世界にくまなく普及するまでには、あと何年もかかるだろう。その間に旧型の自動車から排出される排気ガスはどれほどの量になり、どれほど温暖化を促進するのだろうか。このことを、例えばトヨタ自動車は考慮しているのだろうか。
今はまだ旧型車両を中国や南米で大量生産している段階である。自動車の数はさらに増える。それをすべてハイブリッドカーに変換するのには、どれくらいの時間がかかるのだろうか。

科学技術の進歩によって解決しようと考えるのは、余りにも楽観的である。企業や科学者はそう主張するけれども、勝算があって言っているわけではない。もし解決できなかったら彼らが責任を取るのだろうか。世界を破滅させてしまえば、そんな言葉に何の意味があろうか。

(2)にもかかわらず、経済の分野では技術開発が優先されている。
例えば、バイオテクノロジーは、様々な危険性が指摘されているにも関わらず、開発と普及は止まらない。クローン技術の開発と利用は、禁止・抑制の動きはあるものの、開発は続けられている。「どれほど禁止してもいずれ密かに開発されるだろう」という予測が、先に開発して利益を確保したいという欲望を刺激し、競争をあおっている。環境保護技術が話題になるとしても、それは利益をもたらす限りで求められる。省エネやリサイクルも、経済成長を著しく害するようでは導入できない。

(3)政治的には、技術立国である我が国は新技術開発に頼らねば国家の衰退を招くとされる。同様の視点から、政治(軍事)的な面からも技術革新が強く求められる。「環境に優しい軍事技術」などあり得るだろうか。

(4)個人的な対応も分裂せざるを得ない。

例えば、自動車を利用しなければ仕事ができない。ほとんどの職業がそうである。今自動車に乗ることをやめたら即座に職を失い、一家は路頭に迷うだろう。だから、いかに将来の世代に被害が及ぶと言われても、自動車を利用しないわけにはいかない。「自動車は使いたくない」と思っても使わざるを得ないのである。

また、自動車会社は多くの社員とその家族を扶養している。温暖化を防ぐために商売をやめたら、即座に全社員は職を失い、多くの人々が路頭に迷うだろう。日本経済は破綻し、日本国民はおろか世界中の人々が被害を被るだろう。

社会制度上、あるいは経済的見地から、自動車を利用しないという選択はできない。


環境は守りたい。しかし今の環境破壊的な社会システムを変えることはできない。このジレンマに個人も企業も行政も陥っているのである。これを解消する手段はあるだろうか。


一方には家族や愛する人々を守りたいという切実な気持ちがあり、他方には環境を守らねばならないという緊急の要請がある。環境を守ることが結局は愛する人々を守ることになるのだという自覚もある。にもかかわらず、行動を起こす時点で両者は背反し、これを解消する有効な手段は見い出せない。


このように、環境問題への取り組みには矛盾が多い。すでに何年も多くの議論がなされてきたが、現状はほとんど変わらない。ただ環境破壊だけが深刻化している。

おそらく、環境問題については、家族を扶養するためだとか、地域の経済を活性化するためだとか、国家の利益を確保するためだといった、特殊的な利益を守る視点で語ることはできないのだろう。今、私の家族を守るために個人的な利益を確保しようとしても、そのために環境破壊を促進するのであれば、やがて被害は自分の子供や孫に及ぶ。特殊的な利益を確保することなど不可能なのである。

こう考えてくると、利害の調整という視点から環境保護を語ることには、大きな問題があるといえよう。

では、国家や起業や個人の利益を捨ててまで、環境保護活動を徹底することができるだろうか。できないとすれば、それは何を意味するのだろうか。

つづく。

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