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横浜市磯子区汐見台
私が20歳代の前半に、初めて社会人として住んだまちです。
「汐見台」の地名どおり、高台を造成して社員寮や社宅がびっしりと集まったまさにベッドタウンでした。
この高台から毎朝、国鉄磯子駅まで駆け下りて、川崎駅前の東芝堀川町事業所まで通勤していました。
R磯子駅
大きさは変わっていませんが、店舗が少し充実していました。
まずは、ミネラルウォーターを購入して・・・
この日も35℃の暑さ
中年親父にはキツイ!
JR磯子駅前
左手のマンション、歩道橋は当時と同じ場所
今風に言えば
「きたなシュラン」だった
駅前の2階建てビルにあった
中華料理店は駐車場になっていて残念!
目指すは、画像奥手、緑の丘の上
いよいよ、急こう配
よくも毎日こんな坂を登ったものです。
当時は、傾斜地のため人家はこのあたりにはく、記憶をたどって登り口を見つけるのに一苦労
すでにペットボトルの水は、
残量50%
延々と続く階段
昔は手すりもなく、階段もこんなにきれいではなく、長さ1メートルもある、傾斜なりにコンクリートを固めただけのお粗末なものでした。
街路灯もあって、防犯効果もアップしていました。
動悸と息切れで、
足が進まず、
30年のブランクは
ここまで人間の体力を奪うものかと意気消沈
ペットボトルの水は
残量30%
坂道途中の見晴台
東京湾から、右手に金沢八景、遠くに房総を望む
絶景かな 絶景かな
酷暑の中、空は青く
心を癒してくれます。
やっとの思いで、
登山道踏破
社会人としての創成期、
私を育ててくれた思い出の地
汐見台・・・・・
やっと 「汐見台2丁目」
私の旧居住地は
「汐見台3丁目」
もうすぐです。
正面に見えてきた建物がある場所が、 旧「東芝磯子第四寮」のあたりです。
ペットボトルは空っぽです。
磯子に現存する唯一の東芝独身寮「第六寮」に到着
以前は第一から第六まで、まさに区画一帯が東芝寮でしたが、今はこの「第六寮」のみ
名称がそのままで嬉しいです。
角を曲がれば、思い出の地
「東芝磯子第四寮」の場所に到着です。
あれから30年間の人生を思い出しながら、
ゆっくり、
ゆっくり、
初心を探りながら、
もう少しです。
つづく・・・・・
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わたくしごと・雑感
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先人に心から感謝させていただきます。日本の領土を脅かす不法な行動が目に余るものがあります。
先の大戦において、自らの命を捧げ、国家国民のため家族のために犠牲となられた英霊の方々は、
現在の日本の姿をさぞかし憂いておられることと思います。
私は、極めて平和主義者と思っておりますが、自主独立の尊厳を不法に侵すものに対しては、毅然とした態度で臨むべきと考えております。
東日本大震災を被り、国民が復興のために力を合わせて努力している現在、
戦後の復興から力強くよみがえった先人、先輩各位のご労苦の原点に立ちたいと考え、
さらには、8月15日という日本国民にとって忘れてはならない日に、
私は靖国神社を参拝し、自治に携わる者として、国民として当たり前の行動をとり、
心新たに歩みだそうと思いました。
猛暑の中、靖国神社には多くの国民が参拝、慰霊に訪れていました。
社殿前では 「第26回 戦没者追悼中央国民集会」が開催されておりましたので、参加聴講してまいりました。
式典の冒頭に国歌斉唱を行いましたが、動画の歌声は録音ではなく、列席者の肉声です。
法律でも制定されている国家「君が代」を斉唱することは至極当然で、列席者に若い方々や女性が多数おられたことはありがたいことです。
本日8月19日、尖閣諸島に向かい、船舶上での慰霊祭を行われた一行の代表者である山谷えり子議員によるご挨拶の一部シーンです。
中国・香港の活動家による不法な領土侵犯上陸に対し、法的対応と言いながら強制送還でことを済ましてしまった日本政府の対応は、案の定、中国国内における反日集会を招き、礼節を重んじる日本人であれば決して行うことがない他国の国旗に火を放つ、無礼千万な行為がまた繰り返されています。
一方では、竹島には韓国の大統領や閣僚が上陸し、あろうことか日本の平和的統合の象徴である天皇陛下に謝罪要求する暴挙を犯しました。
この際は、野田総理も我が国の態度を鮮明にし、自ら行動を起こす覚悟であたっていただきたい。
私は山谷えり子氏が「野田総理自ら尖閣諸島に赴き慰霊せよ」との発言に
思わず「その通りだ!」と叫んでしまいました。(動画中0:54あたり)少々興奮しました。 |
自分を取り戻す旅へ初心に帰る旅に、本日出発します。
冒頭、懐かしい動画をご覧ください。
お茶の間に親しみがありました「東芝日曜劇場」のオープニングです。
現在の日曜劇場はスポンサーも増えて、洗練されたオープニングになり、企業名はサラッと流す程度です。(下の動画では7:45頃です)
1978年に当時の社名「東京芝浦電気株式会社」の企業内学校であります
「東芝学園コンピュータ・スクール」に入学し、全寮合宿型で娯楽禁止、門限22時の厳しい生活下で、企業の技術教育を受けました。
卒業と同時に、川崎駅前の事業所に配属となり、社会人生活がスタートしました。
当時、企業はスポーツへのスポンサー支援に力を入れており、
東芝は、
ラグビーの府中工場
バレーボールの柳町工場
サッカーの堀川町工場 (私の勤務地)
バスケットボールの小向工場
そして、野球は本社
などなど、それぞれの事業所で企業チームを育成していました。
すべて、日本で指折りのチームでしたが、
中でも野球部は都市対抗野球の常連で優勝回数最多を誇る名門でした。
私と妻は当時19歳でサッカー部の応援チームに所属し、
全国で開催されるリーグ戦に同行したり、楽しい社会人生活を送っていました。
特に、都市対抗野球の決勝トーナメントは後楽園球場(東京ドームの前身)で行われ、各事業所の専属応援チームが統合され大応援団を結成して、企業一丸となって応援を行っていました。
東芝のカラーは「赤」を基調に、「黒」、「白」をミックスしたものですが、
決勝戦ともなれば、約20000人の社員が動員され、アルプススタンドを赤と黒の統一カラーで埋め尽くしての大応援が繰り広げられます。
今も当時と基本が同じ応援風景が動画で見れますので
時々初心に帰るための材料にしています。
30年前、私と妻の姿は後楽園球場の熱気の中で、20000人の観衆の前で応援をリードするチームの一員として声をからし、汗を流しておりました。
社会人生活を送りながら、自分の生きがいを見つけ、高い目標を持って突き進んでいた自分を探しに行ってきます。
30年前も基本変わらない、東芝の応援風景です。
試合開始前に行う東芝社歌の斉唱風景です。
観客席はすべて東芝社員、センター中央まで赤いうちわで埋め尽くされます。 |
一度は乗りたかった車活動報告配布の日々が続いています。
まだまだ暑さが厳しく、日中の自転車移動は中年には厳しいものですから、
早朝4:30ごろから、涼しいうちに娘の自転車で市内巡りをしています。
市内をまわりますと、ときどき普段お目にかかれない風景に出会います。
画像は トヨタ セリカ
一時期、若者から圧倒的な人気をはくしたトヨタの名車です。
私がたぶん高校生の頃、昭和50年代の前半に一世を風靡し、
セリカを乗り回すことは、世の男どものあこがれでした。
後部座席はとても狭くて、とても4,5人乗りとは思えない空間ですが、
この車を2人乗りのように、若いカップルが自慢げに乗っていたものです。
今でも、現役として大切にされている「お宝」の名車です。
活動報告配布もまもなく2000部に到達予定で、
お盆明けには1000部増刷して、がんばって配布しようと思っています。
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思い出の地へたまたま入手できたお画像
横浜市磯子区汐見台3−7付近の高台から東京湾を望む眺望です。
左下の建物に壁に見える「3704」の文字、上2桁が「3丁目7番地」で下2桁が寮番号「04」を表します。
東芝磯子第四寮
私が19歳から22歳までの形成期に過ごした思い出の独身寮です。
右側の建物が第三寮女子寮です。
その奥がライバルの第五寮
第四寮の奥が交流のなかった異質の第六寮、
撮影ポイント手前がエリートの多い第一寮がありました。
第三寮の形状を見ましてもマンションとは思えず、独身寮独特の建物の形状がわかります。
これほど解像度の高い画像ですから少なくともデジカメが世に出現するまではこの建物があったことになります。
昭和50年代はこの地区は、東芝、IHI、日本石油など京浜地区の大企業の社宅や寮が相当数ありました。
しかしながら、大手企業の福利厚生の変化や、人々のライフスタイルの変化により住環境が時代とともに大きく移り変わり、かつての企業の独身寮は次々と分譲マンションに姿を変えていったようです。
東芝の磯子独身寮も地図を調べますと第六寮だけが残るのみのようです。
この画像が、現在の分譲マンション
右奥の角度のついた建物が、上の画像の「3704」の場所に建っているようです。
すなわちこの画像は東京湾を背にして写したものです。
しばらく前に、神奈川区にあった東芝学園寮跡、
川崎市幸区大宮町の東芝学園跡、
川崎市幸区堀川町の東芝堀川町事業所跡(現ラゾーナ川崎)
いずれも私を育てくれた場所に立って、自分を見つめなおしましたが、
もう1箇所、
この夏に必ず、画像の磯子の地に再び立ちたいと思っています。
私の人生で大きな転機を味わった場所で、初心に帰る旅を完結させ、新たな決意を持ちたいと思っています。
8月14日に妻の父親の墓前に、日頃のご無沙汰を陳謝し、霊を慰め供養に参らせていただき、
時間をつくって磯子に向かう予定です。
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