身だしなみ「身だしなみ」と言っても、見た目の話ではありません。
ゴルフ界のプリンス石川遼選手のお手洗いでのお話です。
石川遼選手はトイレの後の手を洗った後、
洗面所の陶器をティッシュで隅々まで丁寧にふき取り、一切の水滴を残さないそうです。
「後から使う人が気持ちが良いから」とのことだそうです。
なかなかできることではありませんし、
失礼ながら、彼の若さでそこまでの「たしなみ」ができるというのは少々驚きました。
ご年配だから、年が若いからとの尺度で人物を判断しがちですが、
一人ひとりの経験や、育った環境などは、歳月の長さだけでは論じられないとつくづく思いました。
本日、久々に上の娘が帰郷していたので、家族で映画を見に行きました。
もちろん、娘たちと我々夫婦は別の映画を見ましたが、
私たちの隣におられたご夫妻(60歳ぐらい)は、映画の最初から最後まで、音をたてながらスナック菓子をほお張り、飲み物はストローで「ズルズル」と耳障りな飲み方をしていました。
スナック菓子はビニール袋に入れており、ガサガサと周囲に迷惑な音をだしながら、下に置いたり取り出したりで、そのしぐさを夫婦でしているものですから、本当に嫌な気持ちになりました。
今年は、年齢だけで判断しがちな先入観を改めようと思いました。
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わたくしごと・雑感
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思い出の商店街 川崎銀柳街 昭和50年代の国鉄川崎駅は、駅ビルのショッピングエリアはそれほど大きくなく、地下街は全くありませんでした。
勤務日の昼食は社員食堂か、駅前の商店街のお店などに通っていました。
当時、川崎駅前には 「 銀柳街 」 と 「 銀映街 」 という二つの商店街があり、私は銀柳街の とある喫茶店がお気に入りでした。
(現在のきれいな銀柳街商店街)
私が通っていた当時の画像。
左側4Fのビルは和食のお店 (お付き合いしていた現妻があさり汁をスカー トの上に全量こぼした思い出の場所) いわゆるハイカラな食べ物をいただく機会にはなはだしく恵まれておりませんでした私には衝撃のメニューを体験することになったのです。
それが、ドリアです。
衝撃の旨さ大好物エビドリア ごはんの上にグラタン(当時これもほとんど食べたことがない)のような物が乗っており、ごはんは全く見えない。
チーズとごはんを一緒に食べるなどとは、純和風青年の私には理解に苦しむ料理でしたが、これが絶妙の味であり、特にチーズが焦げたところと一緒にご飯を食べるのは究極の感動でした。
ひとつひとつの新しい発見に、感動を覚えた新鮮な時代。
毎日が惰性のように生きてしまいがちな切ない現代社会においても、
日々自分にとって新しい発見と感動を見つけるアグレッシブな気持ちを商店街を歩きながら思い出して見ました。
青い時代の足跡をここでも見つけることができた気がします。
ちなみにお気に入りの喫茶店はゲームセンターになっていました。
(ここでも、商店街をあげて応援してくださっています。感謝!)
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初めての社会人生活 〜 妻との出会い今では良い思い出の東芝学園時代ですが、
当時は苦闘の日々でありました。
世の中の出来事にもうとくなりながら、企業戦士の養成機関 「 虎の穴 」 を何とか卒業できました。
後はどこでどのような人事の配置が検討されたかは知る由もなく、本人の希望をとる訳でもなく
東芝学園に各事業所から希望が出されて、いわばドラフト会議のような本人不在の人材争奪戦が展開されながら、私の運命も決定されていきました。
私の配属先は、東芝学園のほぼ道路向かいにある
堀川町工場でした。
学園時代にも体育の授業で同工場の体育館を使用していましたので、この汚い?工場だけには行きたくないなと思っていましたが運命は数奇なもので、
私の専攻クラス(情報処理工学科)からは、たった一人の配属と通達を受け、ガッカリでした。
画像は、東芝堀川町事業所の全景です。
下部にJR(当時国鉄)川崎駅が見えます。
画像右側から外れたところには、駅構内から関係者だけが利用する 「 東芝口 」 という直接事業所前に降りる出口がありました。
私の配属されたのは、奥手3階建ての建物の屋外階段部(画像で何とか階段が認識できます)付近の3階にあるセクションでした。
「半導体事業部半導体第二応用技術部マイコンシステム技術グループ」
とても長い名称の職場でした。
ここで、私の東芝時代の社会人生活が始まったのです。
画像は現在のJR川崎駅西口です。
バスロータリーのヘアピンカーブが、当時の画像からも位置がわかりやすくなっています。
旧東芝堀川町工場の南端の建物が、商用複合テナントビルに変貌しているのがわかります。
画像は、旧東芝堀川町工場内に唯一残しておいた、東芝発祥の地である東芝本社があった場所。
当時本社前広場がありましたので、建物の位置は画像内の進入禁止の標識あたりだと思われます。
実は、この標識付近が妻と32年前に出会った場所、東芝本社会議室付近です。
現在は ラゾーナ川崎 と銘打った巨大商用ビルになっています。
ラゾーナ店舗のきれいなショッピング街です。
このあたりは、旧堀川町工場のグランドと、中央の建物3階にあった、社員食堂あたりです。
当時、食堂内の一角に 「特食」 コーナーがあり、
480円だったか(当時では現在の1500円くらいかも)のナイフとフォークでいただく洋食メニューがありました。
時々先輩方に誘われて贅沢を味わうのも楽しい思い出です。
新社会人となって学生の身分から責任のある仕事に携わらせていただきながら、
少しづつ社会人の基本を学ばさせていただきました。
よく上司と口げんかをしていた若かりし青二才の頃を思い出しながら、当時の軌跡を探してみました。
つづく
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懐かしの寮を訪ねて横浜市神奈川区 JR新子安から徒歩15分ほどの高台に
東芝学園寮がありました。
東芝学園に通う同志のみが寝食をともにする私にも人生初めての寮でした。
3食が格安で提供され、大きなお風呂はたぶん電解質かなにかの装置でいつもきれいな湯船になっていました。
しかし、この寮は規律が厳しく門限が午後9時、外泊は禁止、
テレビも禁止され、同僚との自由時間における交遊も自粛を求められる異様な寮生活でした。
ひたすら、学園で学んだことを繰り返し復習することが寮での主な過ごし方といった、現代社会では考えられないような、企業戦士の養成場所なのでした。
周囲からひときわ目立つ建物が、かつて過ごした場所、
ずいぶんと綺麗に建て替えられ立派な寮に変貌した感じがしました。
懐かしさがこみ上げる思いで歩みを進ませました。
寮は無くなっていました。
とても綺麗なマンションに姿を変えており、当時の片りんは全く感じられません。
私が、この場所で1年間過ごし、現在の自分の基本的な部分に大きく影響を与えてくれた古巣は残念ながら33年の時代とともに役目を終えていたのでした。
それでも、せっかく思い出の場所にまいりましたので、
当時在室していた203号室付近に立ちながら、マンションを見上げて当時の旺盛な気持ちを思い出しながら、
これまでの自分の歩みをひたすら顧みて反省し、
一しずくの熱きものをこの地に残してきました。
私を育ててくださったこの地に感謝! |
歩んできた道をたどり、自身を問いただしたい (その1)昭和52年、高校生の私にも進路を考えなければならない時期がありました。
当時の家庭は父が病弱で困窮の極みにあり、上位学部へ進学する経済状況にはありませんでした。
そのような状況から、恩師と相談の結果、企業直属の学校に進む決意をしました。
それが 東芝学園 です。(神奈川県川崎市)
東芝学園は、当時の社名「東京芝浦電気株式会社」が、技術者のエキスパートを育成する企業内学校として、全国から高卒者を50名程度を入学させ、給与を支給しながら徹底した管理のもとに教育する機関でした。
私は、学園の第9期生として運よく入学でき、1年間の教育を受けることになりました。
授業は90分の1時限で、毎日5時限ビッチリと叩き込まれます。
授業で眠くなると机の上に正座させられて授業を受けることを奨められます。
前期・後期の中間、期末試験における赤点は60点、追試で2科目以上不合格であれば退学が勧奨されます。
全寮制で門限は午後9時、テレビは禁止、マージャンも禁止、娯楽からかい離された生活を強いられました。
タイガーマスクでいう「虎の穴」の企業バージョンのような感じです。
今の時代に、このような教育体制が可能かどうかわかりませんが、川崎の駅前再開発もあり、学園の校舎はなくなってしまいました。
今般、東京在住の娘の用事で上京いたしましたので、常々考えておりました「自分を見つめなおす旅」を挙行いたしました。慢心になりがちな自分を戒め、若き時代の旺盛な精神を取り戻しに出かけました。
東芝学園の跡地は駐車場になっていました。
校舎跡の教室あたりの場所に立って、33年前を振り返りながら半生に想いをめぐらせました。
学園跡地周辺は、大衆酒場が密集していましたが、今では巨大商用施設に変貌を遂げています。
大規模商業施設の一角には、元々この地で飲食店を経営していた方々の飲食業組合加盟の方々が当時と同じように軒を並べてご商売ができる環境を残しています。
議員の立場から、このように地元の方々に配慮したまちづくりの在り方はとても参考になりました。
つづく |




