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一昨日西成でほんと久しぶりに大谷隆夫牧師にあったが、私のことなど記憶にとどめておいて戴けるのも私が神職であるからかも知れない。 宗教的にはもちろん思想的政治的な立場にかなり隔たりがあるはずですが、その現場の活動がほんとは私達の地域とも決して無縁でなく、人道上も無関心ではいられないという思いから細くとも今もつながりが切れずにあるのです。 学生時代から西成でのキリスト者の活動を見ていました。私が宗教の社会活動というのを身近に感じたのは西成が始まりです。 昭和六十四年一月七日昭和最後の日に私は西成にいました。今朝天皇が死んだという言葉が書きなぐられた看板がありました。しかし辺りにいる人達の関心はそのことで住之江の競艇が中止になったことに向いている会話も飛びかっていました。 現在シャッターが下ろされているセンターの中で見知らぬおじさんに頼んで写真を撮ってもらい、その写真を大学の卒業アルバムに使わせてもらいました。 その後も西成の活動に行くことがありましたが、その年は西成でキリスト者の夜回り活動に行っても大嘗祭反対がテーマになっていたりして居心地が悪かったです。 それから仏教の社会活動みたいな分野なども見せてもらったりして、若い頃は祈りとか儀式とか何の力もなくて直接的に苦しんでいる人達を救うことこそ宗教の活動に思えて憧れたりしました。 しかし宗教の社会貢献という言葉を聞くようになってだんだん違和感を覚えるようになりました。 宗教の大前提として当然神仏などの人間の力を越えた存在があります。 昔の宗教者の社会活動はその存在を背に感じさせるものだったような気がします。社会の多くの人々がその存在を当たり前のように信じていたからです。 現在は社会の多くの人々からその感覚が薄れ、宗教者が昔と同じように社会活動をしてもただ宗教者の活動にしか見えず、神仏の存在を感じさせる活動になっていないような感じがします。 宗教者がいくら小手先で人々の救済活動をしたとしても宗教のほんとの力になっているようには到底思えません。 神仏の存在を感じてそのことに救いや安らぎを感じるのが宗教の力だとしたら、仏教の教えや神道の祭によってその感覚を社会に取り戻せるように努めるのが宗教の役割のはずです。 そのためにまず宗教者が神仏の存在を中心に生きようとしているか、問い直す必要があると思うのですがどうでしょうか? |

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