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東雲神社

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私の今回の伊予の旅も終わりが近づき、通りかかった松山城の麓にある東雲神社にお参りしました。立派なお宮です。

参考サイト 東雲神社
http://www17.plala.or.jp/toyo/index.shinonome.html

この神社には久松松平家の先祖に当たるという菅原道真公がご祭神の一柱におられるのです。そうしたこととも関係あるのか、松山付近には道真公にまつわる伝説がたくさん残されています。

管沢 衣山 水泥 今出という松山市内の地名にも道真公の伝承があり、この街は天神さんと縁の深い街なのですね。天神さんを主祭神にお祭りする土生神社に奉職する私はなにか縁をかみしめながら、こころの故郷愛媛を後にし、故郷岸和田へ そして土生神社へと戻ったのでした。


たくさんの縁に育てられ守られて今日の私があり、地域の氏神様に仕えさせて戴いています。

私は宮司を務める力などないかも知れない。

私は宮司にはふさわしくないかも知れない。

ただご縁を戴いて私はここに今います。

私をここまで育てて戴いたご縁に感謝し

私はいつかほんとうの宮司になるために

これからも宮司を務めてゆこう。

伊予の旅から帰り

新しい一歩を踏み出したい。

坂村真民先生墓碑

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坂村真民先生の墓所となる「念ずれば花ひらく」碑が宝厳寺の墓地に建てられています。

先生は詩に「わたしは墓の中にはいない」と書いておられますが、墓所としては一遍上人のもとで、「念ずれば花ひらく」碑の下に眠られるのが一番ふさわしいように思います。

私はここに来るのは今回で二度目でしたが、まだ先生の納骨がされていない「念ずれば花ひらく」碑の前で深く先生のご冥福をお祈りさせて戴きました。

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真民先生に「一遍上人語録・捨て果てて」のご著書があります。

その前書きに先生は書いておられます。

「思うに上人の偉大さは、一山にこもり堂塔伽藍を建てることもなく、国家安泰を祈願し、自己の栄達を図ることもなく、また悟りの深さを書き残すこともなく、橋をかけ池を作ったりすることもなく、一切を捨てて諸国を遊行し、無差別平等の真の念仏を伝え、一人でも多くの人に浄土行きの賦算札を配り歩いたことである。こういうことは、そう誰にでもできることではない。一遍上人独自の生き方である。
 わたしは宗教というものは、どう生き、どう死ぬかであると思っている。だから上人のこうした生き方に、特に心ひかれるのである。」

先生が数多い日本の宗教者の中でもっとも傾倒されたのが一遍上人であり、一遍上人は伊予の国の出身なのです。

一遍上人のご生誕の地は現在の松山道後の松ヶ枝町であり、そこに宝厳寺というお寺があります。お寺の門前はネオン坂と呼ばれるかつて色里があった町であり、今もそのおもかげが残っています。その坂の突き当たりに宝厳寺の門があります。偶然後世色里が出来たとはいえ、すべてを捨て果てて全国をあるき市井の人々に賦算札を配り歩いた上人にふさわしいような門前の様子といえばしかられるでしょうか。

境内に正岡子規の「色里や十歩はなれて秋の風」の句碑が建っています。

お寺には現在重要文化財指定を受けている一遍上人像が伝わっています。

静かなお寺のたたずまいです。

そのお寺の本堂を見下ろす裏の墓地に坂村真民先生の墓所となる「念ずれば花ひらく」碑が建てられています。



参考サイト
http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/index.html

馬越正和石彫展 ケータイ投稿記事

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一昨日愛媛新聞を見ていたら偶然松山市錦町のギャラリーキャメルKで今治市の石彫家馬越正和の石彫展が開かれているとありました。


私は知りませんでしたが、これは今治市とお名前からして、真民先生と一時期深い交流があり影響があった石彫家馬越正八氏のご子息ではないかと思い、錦町のギャラリーを訪ねたところやはりそうでした。



まだ30代前半で気負いも感じられますが信念を持って作品づくりに励んでおられ今後が楽しみだと思います。



石仏の作品はお父さんの影響を強く受けている作風ですが、そこから脱却するためにもがいている様子も感じられました。



石彫展は明日までのようですが、愛媛県の方 ご都合よければ、ご関心があれば、気が向けば、ぜひご覧になって下さいますようにお願い申し上げます。

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真民先生は随筆「生きてゆく力がなくなる時」の中で、奥様と二人で、日本人最初の心中事件といわれている軽太子(かるのひつぎのみこ)と軽大郎女(かるのおおいらつめ)のお墓を松山市姫原に訪ねていったことを書かれ、詩も残されています。

私は今回の旅で悲恋のお二方と真民先生ご夫妻のことを思いながら初めて姫原にある軽太子と軽大郎女を祭る軽之神社とお二方の塚であると伝える比翼塚を訪ねお参りさせて戴きました。

「古事記」が伝えるところでは、軽太子は同母の妹軽大郎女と許される恋に落ち、太子は伊予の湯に流されます。妹は恋しくて伊予まで太子を追いかけてきましたが、ついに共に自らの命を絶ったのです。

真民先生は書いておられます。

「わたしと妻は松の木のあることで、墓所はすぐにわかった。山陰になった、いかにもいわく因縁のありそうな妖気のようなものがただよっていて、一人できたらとてもゆっくり居られる処ではなかった。やっぱり流人の墓という感が強くした。
 わたしたちも流人なので、霊は霊を呼ぶといってもよい、親近感もあり、わたしと妻とは、草を抜き、落葉を払い、二人の霊の前に手を合わせた。」


「わたしは軽のみこと、ひめみこのことを思う時、死すべきであったか、それとも生きながろうべきであったかと、自問自答し、決しかねない時があったが、愛とは何ぞやということを思うと、やはり死ぬのが幸せであったような気がしてくる。愛とはそんなものではなかろうか。死んでいった二人の気持ちはわたしにはわかる。
 美しいものは短い。
 短いから美しい。
 愛はながらえるものではない。
 それは東洋も西洋も同じであろう。
 今も昔も変わりないであろう。」


愛とは永遠の課題だと思いますが、千五百有余年前起きた心中事件の二人の塚を訪ね、あらためて真民先生も愛とは何かを追求し続けた詩人であったことに思いを馳せました。


生きるとは愛のまことをつらぬくことだ。(坂村真民)

軽之神社・軽太子の塚参考サイト
http://tofe.hp.infoseek.co.jp/kodai/kal/kal1.html
http://www2.odn.ne.jp/cbm54970/karukyoudai.html

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