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平成23年10月29日(土)午後1時半 土生神社集合
 土生神社郷土史講座 台風12号被災地支援チャリティ
   「神須屋町の歴史と民俗を訪ねて」
 
☆こうずや 神須屋  角川書店日本地名大辞典 27 大阪府 より
津田川中流域東方に位置する。
<近世>神須屋村 江戸期〜明治22年の村名 和泉国南郡のうち。岸和田藩領。村高いは、四郡高附によれば正保2年には495石余、元禄年間の和泉国郷帳(高井家文書)も同高、「天保郷帳」512石余、「旧高旧領」311石余。慶応2年の甘蔗作高・砂糖製作高書上によれば、村高494石余、ほかに新田畑16石余、甘藷植付高14石余、砂糖製作高5,320斤、うち大坂売捌高2,120斤(岸和田市史7)。元禄期頃の耕作物は米麦のほか菜種・木綿3分半、用水掛かり(鬼洞泉州志)。なお慶長9年検地高421石余、享保4年水帳によれば1反を250歩として地積算出したという。どう14年水帳による名請人数は53.免相は、貞享元年6ツ1分、元禄7年6ツ3分8厘、宝永3年7ツ、正徳4年7ツ1分、享保元年6ツ8分5厘、嘉永5年5ツ9分。神社は天神小社・天照太神小社、寺院は浄土真宗本派道場。明治9年の人口322.同14年に大阪府に所属。同22年有真香村の大字となる。
<近代>神須屋 明治22年〜昭和16年の大字名。はじめ有真香村、昭和15年からは岸和田市の大字。明治22年の人口343.同40年諏訪神社、同45年天神社を廃止し、八田の矢代寸神社に合祀。昭和16年神須屋町となる。
<近代>神須屋町 昭和16年〜現在の岸和田市の町名。昭和29年市営神須屋住宅を建設。同55年の世帯数・人口は167・696.一部が昭和54年天神山1〜3丁目となる。
 
☆「大阪難読地名がわかる本」創元社編集部より
 神須屋 JR阪和線東岸和田駅の南方 津田川中流域に位置している。かつて神  須屋村といった。神須は「神の」という意味であるから、神須屋は神のいます処と  いうことになる。村内に小さな神社が二つある。またコウヅとは石地 小石の多い  という意味もある。
 
 
諏訪神社跡 延喜式に「矢代寸神社二座」とあり、一座は現在も八田町にある一ノ宮と称する矢代寸神社 もう一座はこの諏訪宮で矢代寸神社下社とも称した。明治四十年十二月九日矢代寸神社に合祀。現在跡地は十月の例大祭に御神輿の渡御式のお旅所となる。
ご祭神は「大阪府全志」には一の宮と同じく波多八代宿禰としているが、一般に諏訪神とされる建御名方神が現在矢代寸神社のご祭神の一柱に入っている。
 
 建御名方神 記紀神話の男神 (柏書房刊「日本の神様事典」より)
大国主命の御子 国譲りの交渉に天降った経津主命(または天鳥船神)と建御雷神は大国主神の御子・事代主神からまず国譲りの意志を示された。大国主神その旨を告げると、大国主神は「わが子でもう一人意見を聞いてもらいたい子がいる。それは建御名方神である。」と申された。そして、そう申されている折りしも、一〇〇〇人かかっても持ち上げられないような大石(千引石)を軽々と両手で捧げ持って建御名方神がやってきた。力自慢の建御名方神は「力競べをして決めよう」と言い、建御雷神の手をつかんだ。すると建御雷神の御手は氷柱に化し、次いで剣刃に変わってしまう。建御名方神はあまりのことにおそれ驚き、慄え上がって手を引っこめた。そして今度は建御雷神が建御名方神の手を握ると、その手は葦のように柔らかくなってしまった。建御名方神はあわてて逃げ去るが、科野国(信濃)州羽海(諏訪湖)に追いつめられ殺されそうになって、「命だけは助け給え。この地(諏訪)以外にはどこへも行かない。また父・大国主神と兄・八重事代主神の命令や意志には背かない。この豊葦原の中国は天つ神に奉ります。」と申された。以上は「古事記」のなかの話であるが、これは「日本書紀」「出雲風土記」には書かれていない。なお、建御名方神の母神は高志の沼河姫神と「旧事記」に書かれている。また妃は八坂刀売命とされている。武神としての信仰が強い。また武南方神とも書く。のち諏訪神社の祭神となった。
 
 ・矢代寸神社(一の宮)への合祀神社
   真上町  弥栄神社(素盞嗚尊)
   神須屋町 諏訪宮(矢代寸神社下社)(建御名方神)
        天神社(菅原道真公)
   流木町  厳島神社(市杵島姫命)
        鹿島神社(武甕槌命)
        四十九神社
   極楽寺町 厳島神社(市杵島姫命)   
   
天神社 天神山荘園内 もとの神須屋町の産土神。矢代寸神社に合祀され境内地は矢代寸神社の所有となるが、祠が残され神須屋町会が管理。1月25日にお祭りが行われてきたが今は途絶えている。
 付近は天神山古墳群の一角で天神山廃寺跡地でもある。
  
 ・天神山古墳 「岸和田市史 第一巻」より 昭和54年
 天神山古墳(天神山三号墳)は、天神山古墳群のなかでも最北端に位置し、のちに天神山廃寺が営まれた場所である。標高六〇メートル余の丘陵の上端にあるので、眼下に津田川旧氾濫原の全体から、さらに岸和田市街方面をものぞみうる景勝の地である。
 丘陵北端の隆起部にも古墳があったかもしれないが、その部分は、社寺の造成などのため若干削平されている模様である。いま、頂部のやや南に寄って、方形の玉垣がめぐらされていた痕跡があり、その中央に小祠がある。古墳とすれば直径三〇メートル、高さ四メートル程度の地形利用の円墳であったと思われる。墳頂部と墳裾部に古瓦片が散布し、特に南麓を通る里道に多数の瓦片が敷きつめられている。しかし、埴輪その他、古墳に関係のある遺品は認められず、南に開口する横穴式石室の存在を予想する報告も行われているが、そのような手がかりになるものは何も認められない。なお、古く、この地点付近で、出口神暁が石庖丁を拾得し、保管している。弥生土器片が丘麓の二ツ池付近で採集されるともいう。
 
義犬塚古墳  「岸和田市史 第一巻」より 昭和54年
義犬塚古墳(天神山1号墳)は、天神山古墳群中東北端に位置する。二又池の東側  に南から伸びだしてきた丘陵の突端部にある。径約二〇メートル余、高さ三メート  ル余の円墳とみられるが、墳裾を画然と自然地形から区別することは困難である。  墳頂部は削平され、近世後期の建立になるかと思われる「万家犬塚」の墓碑があ   り、別に「史跡犬塚」の木柱が建っている。墓碑の下に扁平な割石があり、内部構  造の一部であった可能性もある。現在は松林になっている。大山大塚古墳とともに  市の指定史跡である。
 
白犬の墓  「日本伝説叢書 和泉の巻」より 大正9年
捕鳥部萬は嘗て白犬を飼養していた。萬自刎の時此犬は傍にあって泣き叫んでいた が、 遂にその頭を噛へ去って或古塚に隠した。そして其処に臥してさらず物をも食 わずに餓死した。国司は痛く驚き怪しんで奏聞した。朝廷は此犬の志を感じ、後世に 示すべしと捕鳥部萬の家族に仰せて墓をいとなましめた。萬の家族即ち萬の墓と共に 此白犬の墓を営んだが、実は此忠犬あるによって萬の墓は営まれたのであると噂せら れた。今その白犬の墓は萬の墓の北の方にある。(以下略)
 
 義犬塚は現在神須屋町在住の個人の私有地になっている。
 日本書紀に記されているこの伝説の主役 捕鳥部萬の墓(大山大塚古墳)を代々守る八田町の塚元家では毎年萬の命日旧九月二十六日に墓前祭を行い、ご自宅にご縁ある人々を招いて偲ぶ集いを開催 くるみ餅をふるまうのが恒例になっている。
 
大師渕
 矢代寸神社の正面にある渕 この付近が神須屋町一番地となっている。
 渕の付近から弥生時代の土器片が採集されている。畑遺跡などを残した古代人の重要 な水源だったのかも知れない。
 
 ・大師淵遺跡 「岸和田市史 第一巻」より 昭和54年
   八田町の平地部にある弥生時代中期の遺跡推定地である。場所は、藩政時代、阿  間河の一の宮として尊崇されていた式内矢代寸神社社地の西南方一〇〇メートル余  りにある湧水地「大師淵」付近である。大師淵は、八田町から神須屋町・極楽寺   町・畑町にかけてみられる旧津田川河床の伏流水の湧水群の一つである。付近はい  まも水田や畑地が広がる田園的環境をよくとどめているが、大師淵付近には湧水群  があり、そこから西北へ流下する細流(農業用水)の水路がみられ、東・西の耕地  より幾分低い凹地になっている。したがって、付近の標高は約四九メートルを示す  ものの、水に恵まれた低湿地的環境である。遺物としては、玉谷哲が、大師淵で採  集した一片の土器片が唯一のものである。この土器は、口縁部に四条以上の凹線文  帯をめぐらした鉢形を呈する土器の小片に過ぎない。赤褐色を呈し、石英粒を含ん  でいる。中期後葉の和泉地方の土器の一種である。
  
  近くに丸井の地名があり、神須屋町の人が大丸 小丸と呼ぶ淵があるらしい。小丸 は夜星のことか?
 
コンドさん 
 神須屋町の中心部町会館の隣にコンドさんが祀られ、現在四軒(藤本、金野、関、行)で守られ、十月十五日にお祭りを行う。うち三軒でしんべさん(神変さん?)を祀っていたが今は二軒のみ。
 
 ・岸和田市教育委員会・郷土史教室第二集 昭和34年 
   鈴木東一 「和泉の小祠その他」の一部引用
    さて、塞神にかかりますと、これは道陸さんのほかは忘れられてしまったかたちです。信州・甲斐あたりではまだ塞神は残っているのですが、それではこの岸和田地方ではどうかといいますと、実はもっと古いかたちで残っているところがあります。包近の藪のかげ、それに神須屋にもあります。神須屋では既に私有地になって所有者も明神さんだとか、荒神(アラガミ)さんだとか言っているほど祀り方もわからなくなっていますが、塞の神だと教えてくれる人のあることを思えば、塞神であったと考える方が当たっていると思います。
 
行遇堂
旧阿間河荘の神事が行われる時下字(極楽寺・畑・流木)と上字(八田・神須屋・  真上)がこのお堂で行き会って一の宮にお参りをした。付近に大門の地名が残り、  平安時代の瓦が出土している。極楽寺のもとのお寺があったか。また神於寺のほら  貝が盗まれ貝掛から戻される時寺側から出迎えて行き会ったところとの伝説もあ   る。
 
 
夜星 岸和田市のホームページ 岸和田の伝説より  
阿間河一の宮、矢代寸(やしろぎ)神社のお旅所前の道を神須屋へ2030メートル寄った山手に小さな渕がある。これは、津田川旧河床の湧き水の一つで、渕の名はあて字である。稲籾(もみ)などを籾蒔き(もみまき)前に浸した所で、各村に必ず一つや二つあった。この名前は、種子をよばすところから出た名前である。また、種漬・種渕などとも呼ぶところもある。
 
新渕 
 
牛神 かつて一本松があった。牛神祭に子供たちが相撲をとった。
 
道標地蔵 みぎ こうづや ひだり かんのんどう
 
神須屋町の池
 ・二ツ池
 ・二又池
 ・後谷池 他の池の水がなくなった時補充するための池
 ・泉池 もともと湧水の池だったか
 ・新池 池のたもとにお地蔵さんと大神宮の燈籠
 
 
○三林池跡
 畑町水利の池だったが埋め立てられ畑町の番地が飛び地として残っている。

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