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今日は益城町のテクノ団地の仮設住宅に来ています。
自治会長さんと、ささえあいセンターのスタッフに許可を戴いて仮設住宅内に復興祈念のチラシを配布させて戴きました。 真民先生の言霊のお手伝いも私の自己満足かも知れない。でも一人ぐらいその言霊の力を必要としている人に届くかも知れない。 仮設住宅敷地の片隅で今にも種が飛び立とうとしているタンポポとチラシをパチリ。 猫も仮設の皆さんと助け合って?生きています。 |

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今日は益城町のテクノ団地の仮設住宅に来ています。
自治会長さんと、ささえあいセンターのスタッフに許可を戴いて仮設住宅内に復興祈念のチラシを配布させて戴きました。 真民先生の言霊のお手伝いも私の自己満足かも知れない。でも一人ぐらいその言霊の力を必要としている人に届くかも知れない。 仮設住宅敷地の片隅で今にも種が飛び立とうとしているタンポポとチラシをパチリ。 猫も仮設の皆さんと助け合って?生きています。 |
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西原村の仮設住宅をちょっと訪問させて戴きました。
空室が多くなっています。 一人暮らしのおじいさんが仮設が集約されて部屋を移動しなくてはいけなくなってすでに申し込んであると話しておられました。 仮設のスーパーがありましたが、震災前にしていた店は全壊 軒下で4ヶ月暮らした後みなし仮設に暮らしていると店のおばさんは話しておられました。 真民先生のタンポポ魂の詩を入れた復興祈念のチラシを少し仮設で配らせて戴きました。 何も出来ないですが、真民先生の言霊のお手伝いをさせて戴いて、一人の人にでも何か力になったら幸いです。それが熊本地震で戴いている私の大切なテーマではないかと思っています。 |
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昨日は矢代寸神社の氏子五町合同清掃でしたね。ご参加ご協力戴いた氏子の皆様ありがとうございました。暑い中お疲れ様でした。
美しい境内になっています。 台風後森に光が入って草も伸びていましたが、それも刈って戴いてました。 ところで人生は自分自身を否定しないところから人とつながり、前向きに共に生きていくことが大切ですね。今週もよろしくお願いいたします。 |
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熊本地震から三年が過ぎ、時代も令和に入った。
昨年熊本地震の被災地に二年ぶりに行ったのは六月十八日だった。熊本空港に降りたって目に飛び込んできたのは大阪地震の文字だった。 その日無理を言って泊めてもらった西原村の民宿の奥さんは偶然にも妹さんが土生町に住んでおられて何度か土生町に来て戴いたことのある人だった。地震で連絡がつかない妹さんを心配しておられた。 その民宿に一年ぶりに連絡をした。しかし民宿を完全にやめておられて今年は泊めることは出来ないという。別の民宿を紹介戴いたが、直前のことで満室で予約出来なかった。 西原村は観光地としてのポテンシャルは高いと思うが、宿泊施設が少なく自己完結出来ない。熊本市内からも近く仕方ないが。 やむなく熊本市内のホテルに電話をしたら、はじめ高い料金を言われたが、直前ということもあるのか、結局半額ぐらいのネット料金で予約することが出来た。 今年は真民先生の生誕百十年で、先生ゆかりの地も訪ねたいが、まだ被災地訪問が中心で時間的余裕がない。 熊本地震三年のチラシに先生の詩『タンポポ魂』を使わせて戴いた。その言霊を被災地に届けるのが令和初の私の旅である。 |
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一昨日西成でほんと久しぶりに大谷隆夫牧師にあったが、私のことなど記憶にとどめておいて戴けるのも私が神職であるからかも知れない。 宗教的にはもちろん思想的政治的な立場にかなり隔たりがあるはずですが、その現場の活動がほんとは私達の地域とも決して無縁でなく、人道上も無関心ではいられないという思いから細くとも今もつながりが切れずにあるのです。 学生時代から西成でのキリスト者の活動を見ていました。私が宗教の社会活動というのを身近に感じたのは西成が始まりです。 昭和六十四年一月七日昭和最後の日に私は西成にいました。今朝天皇が死んだという言葉が書きなぐられた看板がありました。しかし辺りにいる人達の関心はそのことで住之江の競艇が中止になったことに向いている会話も飛びかっていました。 現在シャッターが下ろされているセンターの中で見知らぬおじさんに頼んで写真を撮ってもらい、その写真を大学の卒業アルバムに使わせてもらいました。 その後も西成の活動に行くことがありましたが、その年は西成でキリスト者の夜回り活動に行っても大嘗祭反対がテーマになっていたりして居心地が悪かったです。 それから仏教の社会活動みたいな分野なども見せてもらったりして、若い頃は祈りとか儀式とか何の力もなくて直接的に苦しんでいる人達を救うことこそ宗教の活動に思えて憧れたりしました。 しかし宗教の社会貢献という言葉を聞くようになってだんだん違和感を覚えるようになりました。 宗教の大前提として当然神仏などの人間の力を越えた存在があります。 昔の宗教者の社会活動はその存在を背に感じさせるものだったような気がします。社会の多くの人々がその存在を当たり前のように信じていたからです。 現在は社会の多くの人々からその感覚が薄れ、宗教者が昔と同じように社会活動をしてもただ宗教者の活動にしか見えず、神仏の存在を感じさせる活動になっていないような感じがします。 宗教者がいくら小手先で人々の救済活動をしたとしても宗教のほんとの力になっているようには到底思えません。 神仏の存在を感じてそのことに救いや安らぎを感じるのが宗教の力だとしたら、仏教の教えや神道の祭によってその感覚を社会に取り戻せるように努めるのが宗教の役割のはずです。 そのためにまず宗教者が神仏の存在を中心に生きようとしているか、問い直す必要があると思うのですがどうでしょうか? |
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