滋賀県甲賀市の地名 年月日は地名の成立日
八光:小字名の一部に末広がりの発達を祈る意をこめた「光」を付したことによる。昭和41年7月1日
七色の光=虹 と考えると・・ 八色目は、・・・・どんな色??
東林口:大字林口の東側に位置することによる。昭和41年7月1日
方角地名ですね。
本町:昔宿場町を形成し、現在の水口町のもとになる町であることによる。昭和41年7月1日
昔は、元気印の活況を呈した町だったのでしょうね。今は見る影もない!!
本丸:水口城の本丸のあったことによる。昭和41年7月1日
大切にしたい町名です。
本綾野:大字林口・名坂・水口それぞれにある小字綾野の中心に位置することによる。昭和41年7月1日
本町はじめ、水口町には、イロイロな中心地が沢山ありますネ。
元町:昔、江戸口と呼ばれた地域で、三筋街道を形成する中心地であったことによる。昭和41年7月1日
この町も中心地!!江戸期は大変な町だったのでしょうね。
鹿深:「ロクシン」と読む。 昔、この地に住んだ渡来人鹿深(かふか)臣の人名による。 昭和41年7月1日
「鹿深の湯」と言う施設があります。これは「かふかのゆ」と読みます。???
角川日本地名大辞典 25 滋賀県
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非常に馴染みのある地名続出でなんだか感激です。 水口城は現在はお堀とか少し再現されてます。(水口高校のグランド横) 岡山城というのも同じ水口町内にあります。城山という山にあったのですが全く見る影もありません。昔、天皇陛下が植樹だったか何かにみえたんですが・・・確か。
2005/12/7(水) 午後 8:48
滋賀県内の地名をとあるかたまりで、ブラブラ書いてます。しかし、そのうち、気分で書き始めるでしょうね。どうなるkとやら!!ポリシーやテーマがあるわけでもありません。でも、懐かしんでもらえて、超嬉しい!!(年甲斐もなく)
2005/12/7(水) 午後 9:25
渡来人(難民)がもたらしたその他の文化
4世紀頃の朝鮮半島情勢が不安定で、多くの人が日本に逃げてくる。(壱岐の遺跡は4世紀が空白になっている。)
・縄文海進(今より海面が2m上昇)が終わり、日本各地に稲作の適地が広がった。
・弓月君が伝えたもの 養蚕や機織り 農業や鍛冶、製陶、建築
・513年 百済から五経博士(儒教の5つの教典である書経、易経、詩経、春秋、礼記「らいき」に精通した人)の段揚爾「だんように」が儒教を伝える
・554年 易学、暦学、医学が伝えられる
・593年四天王寺は百済出身の大工さんがつくりました。
・高句麗の曇徴「どんちょう」が紙、絵の具、墨を伝える
文化の発祥はインドや南シナです。
4世紀以降は、日本に入ってくるような朝鮮の文化はほとんどありません。
百済が滅んでからは朝鮮からは、儒教も受入れられなかった。
文化を乗せた船は朝鮮半島で水を補給した。
江戸時代の朝鮮通信使は酒を飲んだ漢詩を多く残しており、朝鮮通信使が終わった後に、食料を供出させられた民衆の一揆が頻発した。
2012/6/9(土) 午後 8:10 [ アジアや世界の歴史や環境を学ぶ ]
ご指導感謝!時代による考証を忘れてはいけませんね。
2012/6/10(日) 午前 11:18
インドシナ難民
1975年のベトナム戦争終結に相前後し、インドシナ3国(ベトナム・ラオス・カンボジア)では新しい政治体制が発足し、そうした体制になじめない多くの人々が、その後数年に亘り、国外へ脱出しました。
これらベトナム難民、ラオス難民、カンボジア難民を総称して、「インドシナ難民」と呼んでいます。
昭和50年4月末の旧南ベトナム政権崩壊以降、ボート・ピープルの流出が激化し、翌月には我が国へも初めてボートピープルが到着しました。
ボート・ピープルの到着は、昭和50年には9隻126人、51年には11隻247人でしたが、52年には25隻833人へと急増、54年から57年の4年間は毎年1,000人台を記録しました。
昭和54年に39万人とピークを迎えたインドシナ難民の流出は、合法出国計画の実施により以降減少を続けましたが、昭和62年に再び増加に転じ、平成元年には約8万人に上りました。
この再度の増加の原因は、主として貧困による生活苦から逃れ、より豊かな生活を求める出稼ぎ目的のボート・ピープルの流出と認められた。
こんなことは過去に何度もありまし
2012/8/14(火) 午後 0:02 [ 環境歴史観光防災カメラマン ]