この地はもとは岡部と呼ばれ、遠い昔東海道の重要な宿駅であった岡田駅の名残ではないかと言われています。
のちにこの岡部が二つに分かれ、山手の方を岡本、平地の方を部田と名づけるようになりました。どのような古文書にも「部田村」と書かれており、草津市が制定されてから公式な町名として、部田が青地町に変わりました。
まず、この「部」という言葉を考えて見ますと、古い時代のことが考えられ、この地の歴史を知る手がかりとなります。「部」とは、大化改新のころ特に秀れた職業を持った人々が、朝廷や貴族などに仕えてその職務にたずさわる集団を言い、そこにいる人々を「部民」と言いました。この岡部の「部」がこの意味でつけられたものか、部田が部民の田を意味するかどうかは、知ることは出来ませんが、部民とのかかわりがあるように思います。
と言いますのは、当地の式内小規神社の祭神や、小槻臣という名族がこの地に住んでいたり栗太采女小槻山君広虫がいて、朝廷との関係を物語っています。また栗太には当時鋳銭司や製鉄の専門家がいたことなどから、彼らが部の民であったかも知れません。この地には、鎌倉、室町時代に栗太武士の頭領であった青地氏の居城(青地城と呼ばれる)があり、その時代に「青地庄」と呼ばれたところから、青地とされたと言うことです。
『草津のふるさと文化 むかし話地名民具』
昭和55年3月31日発行 草津市教育委員会
「青地」地名の所在地
滋賀県草津市 青地町(あおじちょう)
京都府京丹後市 青地岳(あおじだけ)
岡山県新見市 青地(あおじ)
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