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応援歌誕生ものがたり
昭和30年卒業 大坪 優
昭和29年、この年の東舞高野球部は大変に強く春の府大会においても好調な成績で確かベスト8に入り、夏の甲子園を目指す府予選に向けて全校的に大いに盛り上がっていました。
当時応援の場では校歌を歌って校旗を打ち振り力一杯の声援を送る、というのが常のスタイルでした。その3年前に誕生した校歌は大変立派な校歌で応援にも熱が入ろうというものでした。
当時、体育の恒川先生が校歌に併せてもうひとつ応援歌があれば尚一層盛り上がるのでないだろうか、との提唱があり急遽応援歌を作ることになったのです。
まず作詞は公募せずに当時新進気鋭の折田輝英先生(英語教師)に白羽の矢が立ち、作詞をされて体育館内に大きく掲示されました。
折田先生は大変な熱血漢であり、とても素晴らしい詞ができあがり、これに曲をつけることになり作曲については公募されることとなりました。応募資格は教職員、生徒、父兄、OBでした。
当時私は独学で我流ながらピアノを弾くのが大好きだったのですが残念ながら我が家にピアノが無く、親しくしていた近所のお宅にお邪魔をして練習をしていました。3年生になり当時音楽の市川直子先生のご指名に私は音楽部の部長となりました。放課後音楽室のピアノが空いている時には時折ピアノの練習をしいていました。当時ソナチネやベートーベンの月光の曲(第一楽章)などを弾いていた記憶が有ります。
降りた先生の熱血あふふる詞読んで私も作曲に応募してみようと思い立ちました。何故かサビの部分の「ひがし ひがし まいづる」のメロディーが頭の中に浮かんでいたのです。曲の後半は割合早くできたものの前半部分が自分の納得できるメロディー中々出来なくて多少苦労しましたがようやく出来上がり応募しました。
応援歌選考の6月のある日、全校生徒が体育館に集合、恒川先生から「これから応募の曲を氏名を伏せて順番にピアノを弾いて頂くので各自、何番目の曲が一番良かったかをよく覚えておいて欲しい」との説明があり、愈々市川先生のピアノ演奏が始まりました。
応募曲は全部で7〜8曲だったと記憶しています。演奏が進む中、私にはどの曲も良くてこの中から一番の曲を決めるのは大変に難しいなと思いながら聞いていました。ピアノ演奏が終わり、「これから曲の選考に入ります。入選曲はみんなの拍手の大きさで決めたいと思います。曲の順番に問うていくので、自分が一番良かったと思う順番で拍手をしてください」との説明があり、愈々選考が始まりました。
恒川先生が「それでは一番目の曲が良いと思う人はどうぞ!」と、これに対してある程度の拍手拍手がありました。「次に二番目の曲が良かったと思う人はどうぞ!」とこの様なパターンで選考が進み、どの曲にもそれなりの拍手がありました。私の曲は確か5番目だった記憶しています。そして愈々私の曲の順番になりました。まったく予想していなかったことですが大きな拍手がおこったのです。
全てが終わり、私の学年、クラス名、氏名が発表され私は前に呼び出されました。私はもう何が何だか分からなくなっておりました。
それから数日の後、体育館での全校朝礼の場で応援歌の表彰式があり、私は永田正光校長から賞状と副賞の金一封を頂きました。
あの日から早くも59年の歳月が過ぎ去りました。今、当時のことを振り返りますと、はるか青春時代の想い出と共に東舞鶴高に貴重な足跡を残させて頂けた事への感謝の気持ちでいっぱいであります。
(平成25年10月記)
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2013年11月21日
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