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土佐藩2代目藩主山内忠義が、未開地だった稲吉村と呼ばれた一帯を商業地として発展させようと、家老の野中兼山に命じて開発。商人の移住を勧め、みそやこうじなどの製造、販売に課税しないなど税を免じたため、「御免(ごめん)」と呼ばれるようになったのが中名の由来とされる。
南国市史などによると、」二つの街道(現国道55五号と195号)が交わる地で、交通、商業の中心地として発展を遂げた。地名は稲吉新町から御免町、1700年頃に後面町となり、現在の御免の字が使われたのは、近代になってからだという。
本文<前略>
商人らの移住を促すための屋敷の土地が与えられ、年貢や諸役が免除された。この「諸役・租税御免の町」が、地名の由来となった。
<後略>
讀賣新聞 2015年(平成27年)10月24日(土曜日)朝刊、
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興味
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日本地名大辞典(角川書店)などによると、勝手の金沢市小立野(こだつの)地域では砂金の採掘が盛んで、金を洗った「金洗沢」が地名の起源とされる。
加賀藩の祖である前田利家の頃に「尾山」と改称されたが、2代目利長の時代に「金沢」と再び呼ばれるようになったとの説がある。豊臣秀吉の朱印状には、「加賀国かなさわの城」「かね沢」と書かれていた。詠み方を巡っては、江戸時代末期まで「かなざわ」と「かねざわ」の二つの読みがあったと推測されている。
本文<前略>
金沢星稜大の本康宏史教授(地域史)によると、金沢の地名は全国各地に50ほどあるとみられ、その多くが砂金が採れた場所で<後略>
讀賣新聞 2015年(平成27年)10月17日(土曜日)朝刊
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佐世保市史などによると、鎌倉時代から南北朝時代に記された「松浦山代家文書(まつらやましろけもんじょ)」の中で、一揆にまつわる記述に「させほ」が登場する。少なくともこの頃には「させほ」の地名が使われていたとみられる。
佐世保史談会の中島会長によると、第2次世界大戦以前は、「させぼ」でなく「させほ」と濁らずに発音する人が多かったという。
佐世保港は、ヤツデの葉を広げたような形から「葉港(ようこう)」とも呼ばれる。{サ」「世」「ホ」を漢字の部首に見立てて縦に並べると「葉」になるから、との説もある。
本文<前略>
港に注ぐ佐世保川の流域の地形に地名の由来があるのではーーと考えた郷土史家がいた。「佐世保史談会」元会長の坂田直士さん(故人)。狭い川瀬を意味する「狭瀬(させ)」と、平安時代以降の区画「保(ほ)」が結びついたとの説を2001年に出した著書「佐世保の地名は語る」で唱えた。
由来を巡っては。「サセブ」という樹木が繁茂していたことに注目する説や、アイヌ語や神功皇后の伝説にちなむ説などもある。坂田さんの考えは、地形に着目した点が興味深い。<後略>
讀賣新聞 2015年(平成27年)10月3日(土曜日)朝刊
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新潟市歴史博物館によると、沼垂の地名の由来は諸説あり、その独特な語感からアイヌ語に起源をを求めようとする説もあったが、「渟足柵」の「ぬたり」という読みが「沼垂」(ぬったり)に転じたという説が現在は有力だという。
しかし、渟足柵は「日本書紀」に記されるほど重要な施設だったにもかかわらず、その存在を示す物証は乏しく、文献もないため、新潟大学などの調査でも、どの場所に設置されていたのか解明されていない。渟足柵の存在は古代新潟の謎の一つとされている。
讀賣新聞 2015年(平成27年)9月26日(土曜日) 朝刊
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