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首都圏向けPR事業 「来てーな舞鶴2014キャンペーン」
※「来てーな」とは、舞鶴の方言で「おいでよ、来てください」という意味です。
「まるごと舞鶴in東京タワー」 【12月6日(土)、7日(日)】
●「舞鶴かにコッペかに汁」の振る舞い(両日とも12時〜無料配布)
東京タワーの高さ333mにちなみ、両日とも先着333名様(合計666名様)に冬の味覚の王者「舞鶴かに」の旨さと風味が味わえる一品を、無料で振る舞います。「コッペかに」とはズワイガニのメスのことで、日ごろは舞鶴市内を中心に流通。 ※当日の朝10:00から「コッペかに汁引換整理券」を配布します。 http://www.city.maizuru.kyoto.jp/uploads/fckeditor/201410/uid000047_201410221134427833840f.jpg http://www.city.maizuru.kyoto.jp/uploads/fckeditor/201410/uid000047_201410221135406486c0b5.jpg ●舞鶴の名物&ご当地グルメの販売 ●「まいづるクイズラリー」の実施 ●フットタウン3階「マザー牧場カフェ」で、オリジナルスイーツを限定販売(予定) ●東京初登場!舞鶴かにPRキャラクター「チョキまる」 ■舞鶴引揚記念館 特別企画展示〜平和のメッセージを舞鶴から世界へ〜 会場:フットタウン3階「タワーギャラリー3・3・3」
日時:平成26(2014)年12月6日(土)〜14日(日) 10:00〜21:00 入場:無料 展示内容:ユネスコ世界記憶遺産登録候補資料のうち、 抑留体験画などを中心に展示。
歌謡曲『岸壁の母』のモデルになった端野いせさんに 関する資料も展示。
■体験会も実施■ 会期中の土曜・日曜(12月6日、7日、13日、14日の計4日間)は、シベリア抑留中に使用していた防寒着を実際に着用し、飯ごう・スプーンなどに触れることができます。 以上の内容は舞鶴市のHPよりコピペ
関東38会の幹事からの情報でUP
懐かしい仲間の姿も…
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東舞鶴高校38会
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関西38会と関東38会はそれぞれ書庫を設定しました。
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京都府立東舞鶴高等学校
応援歌
作詞:折田 輝秀
作曲:大坪 優 1 志楽原頭夜は明けて 朝の霧にあらわるゝ 我等が勇は心意気 白鈴天に輝けば 緑の尾根にこだません ひがし ひがし まいづる たゝへよや たゝへよや そのほまれ 2 雄伏悠々時は来ぬ
声と力を一千の 若人呼べばたぐいなき 勝利の女神こゝに来て いま覇者の道ひらかれん ひがし ひがし まいづる たゝへよや たゝへよや そのほまれ |
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応援歌誕生ものがたり
昭和30年卒業 大坪 優
昭和29年、この年の東舞高野球部は大変に強く春の府大会においても好調な成績で確かベスト8に入り、夏の甲子園を目指す府予選に向けて全校的に大いに盛り上がっていました。
当時応援の場では校歌を歌って校旗を打ち振り力一杯の声援を送る、というのが常のスタイルでした。その3年前に誕生した校歌は大変立派な校歌で応援にも熱が入ろうというものでした。
当時、体育の恒川先生が校歌に併せてもうひとつ応援歌があれば尚一層盛り上がるのでないだろうか、との提唱があり急遽応援歌を作ることになったのです。
まず作詞は公募せずに当時新進気鋭の折田輝英先生(英語教師)に白羽の矢が立ち、作詞をされて体育館内に大きく掲示されました。
折田先生は大変な熱血漢であり、とても素晴らしい詞ができあがり、これに曲をつけることになり作曲については公募されることとなりました。応募資格は教職員、生徒、父兄、OBでした。
当時私は独学で我流ながらピアノを弾くのが大好きだったのですが残念ながら我が家にピアノが無く、親しくしていた近所のお宅にお邪魔をして練習をしていました。3年生になり当時音楽の市川直子先生のご指名に私は音楽部の部長となりました。放課後音楽室のピアノが空いている時には時折ピアノの練習をしいていました。当時ソナチネやベートーベンの月光の曲(第一楽章)などを弾いていた記憶が有ります。
降りた先生の熱血あふふる詞読んで私も作曲に応募してみようと思い立ちました。何故かサビの部分の「ひがし ひがし まいづる」のメロディーが頭の中に浮かんでいたのです。曲の後半は割合早くできたものの前半部分が自分の納得できるメロディー中々出来なくて多少苦労しましたがようやく出来上がり応募しました。
応援歌選考の6月のある日、全校生徒が体育館に集合、恒川先生から「これから応募の曲を氏名を伏せて順番にピアノを弾いて頂くので各自、何番目の曲が一番良かったかをよく覚えておいて欲しい」との説明があり、愈々市川先生のピアノ演奏が始まりました。
応募曲は全部で7〜8曲だったと記憶しています。演奏が進む中、私にはどの曲も良くてこの中から一番の曲を決めるのは大変に難しいなと思いながら聞いていました。ピアノ演奏が終わり、「これから曲の選考に入ります。入選曲はみんなの拍手の大きさで決めたいと思います。曲の順番に問うていくので、自分が一番良かったと思う順番で拍手をしてください」との説明があり、愈々選考が始まりました。
恒川先生が「それでは一番目の曲が良いと思う人はどうぞ!」と、これに対してある程度の拍手拍手がありました。「次に二番目の曲が良かったと思う人はどうぞ!」とこの様なパターンで選考が進み、どの曲にもそれなりの拍手がありました。私の曲は確か5番目だった記憶しています。そして愈々私の曲の順番になりました。まったく予想していなかったことですが大きな拍手がおこったのです。
全てが終わり、私の学年、クラス名、氏名が発表され私は前に呼び出されました。私はもう何が何だか分からなくなっておりました。
それから数日の後、体育館での全校朝礼の場で応援歌の表彰式があり、私は永田正光校長から賞状と副賞の金一封を頂きました。
あの日から早くも59年の歳月が過ぎ去りました。今、当時のことを振り返りますと、はるか青春時代の想い出と共に東舞鶴高に貴重な足跡を残させて頂けた事への感謝の気持ちでいっぱいであります。
(平成25年10月記)
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校歌誕生ものがたり
昭和28年卒業 松岡 邦彦
東舞鶴高校の校歌が制定されたのは昭和27年2月のことですから、60年がたちました。皆さんご承知のとおり、この校歌は同窓生にも長く愛唱され続けてきています。
しかし、校歌制定に尽力された先生方も多くは故人となり、当時の経緯や作詞者、作曲家のことを知る人も少なくなってきましたので、この機会に、私の知る「校歌誕生ものがたり」を記しておきたいと思います。
東校の開校は昭和23年10月ですが、26年になって校歌を作ろう、戸の機運が出てきて、まず、教職員、生徒、父兄から歌詞が募集されました。
多数の応募作品のうち、選定委員の先生方の圧倒的賛成で選ばれたのが、当時3年生だった葭田義勝(よしだよしかつ)さんの作品でした。緑と泉に恵まれた学舎に集い学ぶ若人たちの瑞々しい情感に満ちた詞です。
私は葭田さんの一年後輩ですが、同じ文芸部員として、葭田さんの読書量と卓越した文才、詩才には畏敬の念を持っていましたので、当選は当然と感じました。
一方、作曲は公募に寄らず、東京芸術大の講師で、まだ30代半ばの少壮気鋭の作曲家であった石桁真礼生(いしけたまれお)さんに委嘱されました。
これは、当時東校の音楽の先生をしておられた林(旧姓富永)浅子さんが東京音楽学校(芸大の前身)のご出身で、同校のクラスメートだった石桁先生に校歌の作曲を引き受けてもらえないかと打診されたのがきっかけです。
葭田さんと同期の奥本勝昭さんの述懐によると、曲が完成した時、浅子先生は音楽の授業で、自らピアノを弾きこれを歌われるとともに、石桁先生が将来を嘱望された作曲家であること、このメロディーが斬新で、作詞の意図を存分に表現していることなどを熱っぽく語らえたそうです。確かに、石桁先生に作曲を託された林浅子先生の目に狂いはなく、ここに、清々しさと躍動感に溢れ、葭田さんの歌詞にぴったりマッチして、歌いやすく聴きやすい名曲が誕生しました。
石桁先生は、のちに芸大教授、音楽部長も務められたほか、管弦楽曲、オペラ、声楽曲などの分野で多大な業績を遺され、平成8年に80歳で永眠されました。
作詞の葭田さんは、昭和27年3月の卒業式で前月誕生したばかりの校歌に送られて、母校を巣立っていかれました。
今や葭田さんも傘寿を迎えられましたが、舞鶴でご健在と聞きます。ご長寿を祈る次第です。
東校校歌は、今や母校の誇れる文化遺産のひとつになりました。これからも皆さんと声高らかに歌い継いで行きましょう。
(平成24年6月記)
リンクしておきました!クリックすると母校のHPへ
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参加の案内が来ました!紹介します。
多数ご参加ください
【東舞鶴高校同窓会総会・同窓会】
を下記の日時にて開催いたします。
関西以外、舞鶴地区の方も多数、ご参加ください。
※全体懇親会終了後、各学年の懇親会等計画いただき、親交を深めていただけると幸いです。
・日時 平成25年11月17日(日)
受付 11:30 総会 12:00
懇親会 12:30〜14:30
・場所 ホテル日航プリンセス京都(3Fローズの間)
・会費 7,000円
詳細は、東舞鶴高校同窓会HP(ブログ)でご覧あれ!
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