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じゃらんカメラ
桜は見たし、花粉は恐し・・・(v_v)

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●ニワ(土間)とダイドコ(カッテ)
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●オマエ(居間)

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●二階・オオザシキ

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●庭
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●岩をくり抜いた物置
 中に入るとヒンヤリして、天然の冷蔵庫である
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江戸時代中期に廻船業を始め、幕末から明治にかけて財をなした船主が建てた家である。
平成2年(19900の修復工事中に安政5年(1858)の墨書を発見した。
この墨書は小修理の記録であることから建築はそれ以前とされる。

外観は質素であるが、内部に意匠を凝らしており、宿根木の建物の中でも建築材料、技術とも最高水準を誇る建物のひとつである。
                            (現地案内板より)

図は「時代に帆を揚げて」白山丸友の会・刊」より
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その外観の簡素さと、内部の赤い漆溜塗りなどで華やかな居間(オマエ)などの空間の立派さとの対比が、特徴的である。

潮風に長年吹き込まれた色彩に乏しい地味な集落の外観と、輪島塗りや伊万里焼などの什器がしまわれる鮮やかな漆喰塗りの土蔵の内部の対比は、北前船稼ぎの集落ならではといえよう。
          (「小木町宿根木伝統的建造物群保存地区保存計画」より)



「清九郎」は船主の家で、船持ちであり船頭もして稼いでいたということです。
幕末頃、有田家は3世帯10人で暮らしていたそうです。

外観は他の建物と同様、縦板張りに変わりありませんが、
廻船業者(船主)の家らしく、内部は豪華な造りです。

宿根木の民家は、他でよく見る「通り土間」というものはないそうです。
こんなに密集した土地で、有効的に家を建てるには、生活にそぐわないものは
必要ないという事でしょう。

ベンガラと漆でピカピカに仕上げた「オマエ」が特に目を引きます。
吸い込まれそうに高い吹き抜け・・・それだけ2階も高さがあるということですね。

写真はありませんが、裏表に大・小と彫られた丸い板が壁に掛かっており、
大の月と小の月でひっくり返して使ったそうです。カレンダーというには大雑把?

宿根木には庭のある家は少ないそうですが、ここにはありました。さすがに船主!
裏の岩崖を掘ったという保存庫は、ヒンヤリして涼しかった・・・



佐渡の地元船が興隆するのは、幕府が佐渡産品の島外移出を解禁した
宝暦年間(1751〜64)からだった。

それまでは相川の鉱山町への物資補給、特に米の供給が佐渡回船の最大の目的で、
佐渡産品の移出は禁止されていたのだ。
幕府の年貢増徴に対して寛政3年(1750)に起きた一揆の中で、農民は藁や石の加工物、茶やたばこなどの農産物の移出解禁を要求した。
産物移出は、島民の生産意欲をかきたて、地元回船の発展を促した。

宿根木は、廻船の村として発展した。
船主だった旧家も残っており、公開されている「清九郎」もそのひとつ。

この家は、有田久四郎が建て、後に石塚清九郎に売却された。

有田久四郎家は、弘化4年には510石の廻船を持ち、
弘化3年(1846)に宿根木を襲った大洪水に際しては、5人の大廻船業者と共に
米1石を差出しており、明治23年頃まで廻船業を営んでいた。

石塚清九郎家は天明3年(1783)、松前交易の記録によると、
佐渡から莚(むしろ)、縄、干し柿、米などを運び、
松前からはニシン、数の子、昆布を積んで、秋田・新潟・敦賀・下関などで売った。
北前航路に進出することで廻船業が急成長したのだ。

明治中期になると、どこの湊でも廻船業は大きな打撃を受けることになった。
和船が蒸気船に変わり、鉄道の整備が進み、さらに電信の発達による情報伝達の
スピードアップに拍車が掛かり、宿根木は廻船の村としての性格を失った。

有田は、明治の末になると家屋(現在の「清九郎」)を石塚清九郎家に売却して、
長男は小樽に移住し、次男の喜久平は小木半島の尾根に位置する長尾に移り住んで
山林経営を行った。

有田喜久平は明治6年(1873)に生まれ、同20年に私立新潟学校へ入学、
同23年4月に群馬県吾妻郡の養蚕伝習所に入って生糸検査法を習得した。

明治25年帰郷、祖父の跡を継いで長尾周辺の開拓に取組んで植林や育苗に努める傍ら、佐渡郡養蚕有志幹事や岬村農会長などを歴任し、同36年から佐渡郡農会幹事、
同39年3月からは同評議員をつとめて全島の農業の発展に貢献した。

そして同年12月には新潟県勧業課長・江口英房に請われて書記として佐渡郡役所に
入り、 深井康邦郡長を助けて佐渡農会堂の創設などに努めたが、同41年に辞職して
家業に専念した。

その後も新潟県農会評議員などの要職を歴任したが、昭和8年に小木町長に請われて
助役となり、翌9年3月には町長に就任。
小木海岸の天然記念物及び名勝の指定を実現した。
     (参考:「廻船の村「宿根木」のその後/ 佐渡伝統文化研究所」ほか多数 )


海から山への商売に切り替える技などは、さすがに船主の眼力・・・?
石塚家のその後は分かりませんでしたが、財力を元にして方向転換していったでしょう

現在、3軒の家が公開されているのですが、
当日は他の民家は休館で、見られたのはこの家だけで、とても残念でした。



                    (小木町宿根木 2014年9月8日)


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    外観に比べ内部は豪華ですね。
    素晴らしい。

    ナイス!

    houzan

    2014/10/25(土) 午前 9:35

    返信する
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    ここは良い建築材が産出されるんだろうね。梁や桁、柱に見事な木が使われているようですね。骨組みが確りしてるんだね。
    居間の天井の高いこと、横に中二階が出来そうだ。

    風呂は蒸し風呂サウナだったんだねー。 削除

    [ donpancho ]

    2014/10/25(土) 午前 10:20

    返信する
  • 素朴・・・だけど存在感ある神棚ですネ。
    まるでひとつの建築物。。。

    [ E49FXN ]

    2014/10/25(土) 午前 10:40

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    houzanさん、中に入ると、意外な展開で驚きますね〜
    ナイスありがとうございます。

    Architec

    2014/10/25(土) 午前 11:43

    返信する
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    パンチョさん、金山優先の幕府のお達しで、佐渡は樹木の伐採が禁止されていたそうで、今でも北の大佐渡に行くと原生林が広がっているそうです。
    こちらのほうは、千石船を建造することもあって、使えたのかもしれませんね。
    船に使う樹木は50年以上も育成して使っていたそうです。

    このような地では水は貴重だったから、蒸し風呂なのかもしれないですね。

    Architec

    2014/10/25(土) 午前 11:49

    返信する
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    E49さん、立派な神棚ですね。
    昔の家は神棚や仏間が立派ですが、船主となると一層信心は強かったでしょうね。

    Architec

    2014/10/25(土) 午前 11:51

    返信する
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    今晩は
    外観は簡素ですが
    ベンガラと漆の居間は凄いですね。

    office_asako

    2014/10/25(土) 午後 8:14

    返信する
  • 顔アイコン

    Aasakoさん、こんばんは
    ホントに艶やかでしたよ。
    船箪笥を作る人も小木に居たから、漆も沢山あったでしょうね

    Architec

    2014/10/25(土) 午後 9:27

    返信する

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