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●一の鳥居

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●二の鳥居

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●心字池と太鼓橋

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●祓舎

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●手水舎
 柄杓がないので、直接手で水を受けて、手や口をすすいだ。

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●神門

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頭に角があるので、どちらも霊獣ですね。

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●拝殿 国指定重要文化財
 握舎といわれる覆いが造られており、全体が見えないのが残念

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扁額の「神勅 奉助天孫而 為天孫所祭」の意味は
「皇室の繁栄を祈ることが国民の繁栄に通ずる道である」というアマテラスの神勅だそうです。

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●本殿 国指定重要文化財

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屋根はサワラの木のこけら葺き

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●末社
 江戸時代初期の建立。
 神郡宗像にあった神社群を福岡藩主、黒田光之がまとめ寄進したものと伝わる。
 本殿の外周りに121社ほどある。

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●御神木

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●高宮参道の入口

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●松尾神社と恵比須神社

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●「第二宮(ていにぐう)」と「第三宮(ていさんぐう)」
 宗像三女神の長女・次女を祀る。
 建物は伊勢神宮の遷宮の際に下賜されたものだそうです。

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●高宮斎場
三女神が最初に降臨した地だと伝わる。(境内にあった写真です)
 
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祭神
 田心姫神(たごりひめのかみ):沖津宮(おきつぐう)
 湍津姫神(たぎつひめのかみ):中津宮(なかつぐう)
 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ): 辺津宮 (へつぐう)
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由緒
 ここ宗像の地は、中国大陸や朝鮮半島に最も近く、外国との貿易や進んだ文化を受け入れる窓口として、重要な位置にありました。
日本最古の歴史書といわれる「日本書紀」には、「歴代天皇のまつりごとを助け、丁重な祭祀を受けられよ」との 神勅(しんちょく=天照大神のお言葉)により、三女神がこの宗像の地に降りられ、おまつりされるようになったことが記されています。

沖津宮がおまつりされている沖ノ島は、九州と朝鮮半島とを結ぶ玄界灘のほぼ中央にあります。
また、女性はこの島には渡れず、今でも古代からの風習をそのまま守り続けている神の島でもあります。
この島からは、鏡、勾玉、金製の指輪など、約十万点にのぼる貴重な宝物が見つかり、そのうち八万点が国宝に指定されました。
これらの宝物は国家の繁栄と海上交通の安全を祈るために、神様にお供えされたものです。
その内容や遺跡の規模の大きさなどからも、沖ノ島は「海の正倉院」ともいわれています。
この神宝は、辺津宮にある神宝館(しんぽうかん)に所蔵、展示されております。

宗像大社は、またのお名前を「道主貴(みちぬしのむち)」と申し上げます。
「貴(むち)」とは最も高貴な神に贈られる尊称で、「日本書紀」には宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち)」、すなわち国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けたことが記されています。
道主貴(宗像三女神)以外には、伊勢神宮の大日靈貴(おおひるめのむち)(※天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち)(※大国主命)のみですので、宗像三女神が皇室をはじめ、人々からいかに厚い崇敬を受けていたかがうかがえます。

また、ここ宗像の地は中国大陸や朝鮮半島に最も近く、外国との貿易や進んだ文化を受け入れる窓口として、重要な位置にあり、「古事記」「日本書紀」によれば、三女神は天照大神と素戔嗚尊の誓約のもとに誕生し、天照大神の神勅によって、この大陸との交通の要路にあたる「海北道中(かいほくどうちゅう)」(宗像より朝鮮半島に向かう古代海路)に降臨されました。
当大社には二千数百年前に交通安全のためにお供えされた、人形(ひとがた)、馬形、舟形といわれる石製の形代(かたしろ=実物に代わるもの)が、現在国宝として保存されていますが、これは古代より、「道の神様」としての篤い信仰を集めていたことを表しています。
鉄道が敷かれるようになると鉄道関係の人々が、自動車交通が発達すると車を運転される人々が、安全運転を誓ってご参拝になられていました。
このように、宗像大社は、交通安全の守護神として人々から篤く崇敬されています。
                       ーー宗像大社HPより転載ーー
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                       (田島 2019年5月14日)


宗像大社は沖津宮(沖ノ島)中津宮(筑前大島)辺津宮(総社)の三社の総称。
日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社。
平成29年(2017)に「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録された。

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◎世界遺産 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群
 地図上で辺津宮から11km離れた中津宮、さらに49km離れた沖津宮を線で結ぶと、その直線は145km離れた朝鮮半島釜山の方向に向かう。
古代から大陸と半島の政治、経済、文化の海上路であった。
古くから海上・交通安全の神として信仰されている。

新羅・百済など朝鮮半島との交流の歴史や、古墳時代の4世紀後半〜8世紀に亘る沖ノ島での古代祭礼様式の痕跡が残っていることも世界遺産に選ばれた理由のひとつといわれます。

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沖津宮のある沖ノ島は、古来より島に立ち入り見聞きした事を口外してはならず、
「お不言さま(おいわずさま)」と呼ばれ、島全体が御神体となっている。
現在でも女人禁制で、男性であっても上陸前には禊を行なわなければならない。

◎沖ノ島の自然環境
地質および地形形成過程
地質的には古第三紀層の対州層群の頁岩が島の南西側に露出しており、もともと海底の基底岩であった頁岩を新第三紀鮮新世のころに地殻変動に伴いマグマが押し上げ、
現在の白色斑岩で構成される 一ノ岳(243m)を最高峰とする沖ノ島が誕生した。
日本海形成の時代や周囲の環境を示すものとして学術上の価値が高い。

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どうも、沖ノ島は形からして火山っぽいな〜と思いました。
また、玄界灘は対馬海流などの流れが複雑な上、大陸からの風が強く、宗像氏の航海技術は欠かせなかったそうで、安全を神に祈る気持も分かります。
そういうことから、祭祀も扱うようになっていったそうです。

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地方の港にある神社に祀られている海の守護神・三女神の総本宮ということで、
やって来ました。
各地の神社では、厳島神社のようにイチキシマ一人だけだったり、三姉妹一緒に祀られているなど、様々でした。

彼女たちは、アマテラスの娘ですが、アマテラスが弟のスサノオの邪心を試す誓約で、
お互いに、アマテラスがスサノオの剣を噛み砕いた時の息から生まれたのが三姉妹、
スサノオはアマテラスの勾玉を噛み砕いて五人の男神を産む。
ワイルドなきょうだいですねぇ・・・

三姉妹は「宗像三女神」と称されますが、不思議に思っていました。
宗像大社に祀られているからだろうと思ったり、宗像一族と神様の関係がわからなくて、各地で見聞きする度に違和感と混乱をズーッと抱えて来ました。
今回、総本宮である宗像大社に行ってみて、少しだけその疑問が解けたように思います。

宗像大社の由緒にあるように、上代から古代まで、大和朝廷から瀬戸内海、関門海峡を通って宗像の地の沖から沖ノ島、対馬を経て朝鮮半島に至る海路は「海北道中」と呼ばれ文化交流、交易上重要だった。

古事記、日本書紀などに現れる「胸形君(むなかたのきみ)=宗像氏(胸形氏)」は、海人族(いわゆる海賊)として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る広大な海域を支配したとされ、古代から集団で土着神の宗像祭神を祀っていた。

海路の重要性が増すとともに、宗像大社は国の祭祀の対象となる。
宗形徳善の娘尼子娘は天武天皇の妃となり高市皇子を生み国母となるなど、
大和朝廷中枢と親密な関係にあったとみられる。
この時代は宗像大社の神主職を宗像氏が独占していた。

6世紀頃には、九州の他の豪族が力を持ち、ヤマト政権を脅かすようになり「磐井の反乱」が起きた。
乱は大和朝廷によって鎮圧されたが、宗像氏はヤマト政権側についたとみられる。

平安時代末期頃から武士化し、後に戦国大名としても活躍した。
宗像氏貞が1586年、豊臣秀吉の九州征伐前に急死した。
氏貞の子も亡くなったため、家督は深田氏栄が継ぐことになった。
翌年の秀吉の九州征伐によって、宗像大社の大宮司の権限は、祭礼のみに限定されることとなった。

九州平定が成ると、筑前は小早川隆景に与えられた。
宗像領は没収となり、一族や家臣らは離散。居城の蔦ケ岳城も秀吉の命で破却された。
その後、毛利氏の重臣益田元祥の孫・益田元堯が氏貞の養子とされ、氏貞の3人の娘のうちの一人が小早川隆景の重臣草刈重継に嫁ぎ、重継は宗像氏を称した。
また三女は毛利輝元家臣の市川与七郎に嫁いだ。分流に宗像氏隆がいる。

神話から歴史に移行する時代がいつものように曖昧で、その辺りは釈然としないんですが、有史以前のことは後付けみたいなところが多いですからね・・・
重要な海路と海人と宗教、大和朝廷と朝鮮半島との文化交流が結びついて発展して行ったようです。

海賊のこと、沖ノ島の地形のこと、信仰の成り立ちなど、興味深いです。
次はゆっくりと、大島にも渡って中津宮を見、沖津宮遙拝所で沖ノ島を眺めてみたい。


出典
「天然記念物「沖の島原始林」の調査成果」PDF
宗像市HP    ほか




●本町商人通
 ここは重伝建地区に含まれていない。

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・服部植物研究所
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世界唯一のコケ類専門の研究所。昭和21年に服部新佐博士が設立した。
服部博士は、家業のかたわら、国内各地を回って数千点の標本を採集し、新種の発見、命名は200種に上がり、自らを「コケの戸籍係」と呼んだ。

研究所では、世界の蘚苔類と地衣植物の標本47万点を収集保管しており、国内最大、
世界でも五指にはいる大きなコレクションである。
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青い道路標識のある交差点を右折(北上)すると、武家屋敷から飫肥城へ続く道。

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・旧高橋源次郎家(主屋)

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国登録有形文化財(2010.9.10)

名称: 高橋家住宅主屋(たかはしけじゅうたくしゅおく)
年代: 明治中期(1883〜1896)建築/大正4年(1915)改修
構造及び形式等:木造平屋建、瓦葺
建築面積:113
登録番号: 45−0071
登録基準1: 造形の規範となっているもの
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解説文: 本町通りに南面する敷地の西南に位置する。
寄棟造桟瓦葺で、下屋をまわし、通り側に入母屋造の玄関、背面に浴室などを付設する。玄関奥にL字型に三室配し、座敷にはトコ構えなどを設ける。
良材を用い、襖絵や瀟洒な欄間など、良質な数寄屋風座敷である。

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高橋家は、飫肥城下町の町家筋である本町通りのほぼ中央に南面して立地している。
飫肥の実業家で貴族院議員高橋源次郎が建築した。

昭和50年代の本町通り拡幅工事により、幅3.48mの土地が道路用地となったが、
本来、間口11間、奥行き25間の敷地に、主屋、隠居部屋、氏神、蔵2棟、納屋、炊事場、便所等が配置されていた。
現在は取り壊されているが、主屋の南東に、道路に面して2階建ての店があった。

この主屋は明治中期に建てられ、大正4年に修理されたと伝えられる。
本町に面して屋根付き塀があり、当初は玄関近くに道路からの入口となる腕木門があった。
主屋は玄関から入って6畳、次の間、ざしきと続く。
また各部屋のふすまや廊下の板戸には日本画が描かれている。

敷地の中に庭を囲むように主屋・離れ・納屋・蔵が並ぶが、ざしきから見える庭は屋根付きの塀で仕切られ、その奧の離れや納屋は見えなくなっている。
このことから、接客本意の造りであることがうかがえる。

主屋の屋根は寄せ棟で、飫肥地区において、それまで茅葺きであった民家が瓦葺きへ転換していく初期の建築としても価値が高い。
平成22年9月10日、主屋や蔵等の5件が、国の登録有形文化財(建造物)となった。
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●武家屋敷通(後町)

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・小村寿太郎生家跡

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・旧山本猪平家
商人がこのエリアに屋敷を設けられたなんて、あり得ないと思いましたが、
維新後に土地を買い取ったんですね。

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タイルがあちこちに貼られている。昭和初期のブーム。

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日南市指定文化財(1999.08.19)
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 飫肥は、江戸時代につづき、明治から大正、昭和初期にかけて、南那珂地区の政治、経済の中心地であった。
なかでも本町は、江戸時代前期から商人町として、飫肥杉を取り扱う材木商などで大いに栄えた。

旧山本猪平家は、明治40年代に飫肥の豪商山本猪平が、隣接する小村寿太郎生家が没落した際、小村寛から土地を買い取って自宅を新築したものである。
その後、昭和4年(1929)に南に主屋を増築された以外は、大きな増築や改築もなく、ほぼ建築当初の姿をとどめている。

そのため、昭和52年の重要伝統的建造物群保存地区内の保存物件として指定してあったが、平成9年に空き家となったので、市が公有化するとともに、平成11年度までに改修を実施した。
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◎国選定重要伝統的建造物群保存地区(1977.05.18)
名称: 日南市飫肥(にちなんし おび)
種別1: 武家町
所在地:日南市飫肥3・4・5・6・7・8・9・10丁目内
面積:19.8ヘクタール
選定基準1:(二)伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの
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解説文: 飫肥は、伊東家5万1千石の城下町。
こけむした石垣、大手門、長屋門、その他の門・長屋塀をはじめ種々の植栽や木立ちに覆われ、武家屋敷の名残をしのばせている。
街区は、江戸時代初期に完成して以来、小規模な城下町として侍町と町人町が城址を中心にまとまっている。

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飫肥城下は、飫肥藩伊東家5万1千石の城下として、明治時代から昭和30年代にかけても、南那珂郡の政治、経済の中心地として栄えた。
城下の形成は、天正15年(1587)に飫肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられてから、本格的に建設が進んだと考えられる。
現代においても、江戸時代初めの絵図に描かれた街路がそのまま使用されている。

城下は飫肥城の南に、三方を酒谷川に囲まれた東西 850m、南北 900mの範囲で、
南北3街路、東西7街路で方形に区画されている。飫肥城近くから上級家臣、中級家臣、町屋、下級家臣の屋敷地となっている。

各武家屋敷は、飫肥石や玉石の石垣と生け垣に囲まれ、格式に応じた門を設けている。屋敷地の広さは上級家臣の2000坪から下級家臣でも260坪ぐらいまでさまざまである。

昭和52年(1977)地方における小規模な城下町の典型的なものとして、九州で最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
保存地区の範囲は横馬場通り、後町通り、前鶴通りを中心に約19.8ヘクタールである。                           (日南市HP)
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九州合戦における島津氏の敗北後は、秀吉の九州仕置によって、宮崎・清武・本庄の地域が伊東氏に復帰することとなったが、伊東祐兵は宮崎などを放棄し、飫肥・曽井・清武を確保して天正16年(1588)に飫肥城に入城した。
以後、江戸時代を通じて14代に渡り伊東氏が藩主として在城した。

飫肥に入った祐兵は、藩政成立期の初期、いまだ緊張が冷めやらぬ島津氏との関係に
対して、清武・曽井・酒谷・南郷に譜代の重臣を地頭として配置して藩境の備えとし、本城である飫肥城下には家臣団の主力を置いた。

さらに、これら家臣団を集住させるために、祐兵は城下町の整備に乗り出している。
飫肥城下は蛇行する酒谷川の内にあり、これを天然の外堀にして飫肥城の南麓から東麓を中心に形成されている。

城下の町場に関しては、天文13年(1544)に伊東氏が「おびの町」を破って島津豊洲家の寄る飫肥城に攻めていることなどからも、すでに島津家の時代からかなりの規模で町家が形成され、基本的な地割ができていたと考えられている。
その後、祐兵の入城から約10年で城下町の原型となる基本の屋敷割は完成したとみられ、寺院の創建や道の整備が進むに連れて町屋がなり、徐々に近世的な城下町が形成されていった。

飫肥藩の城附地支配は「麓」と「四筋」( 南郷・西・細田・三浦 ) からなり、
およそ4〜 5,000人を目安に筋分けがなされている。
その内で中心となるのは「麓」である。
麓は飫肥城下のことで、家中士(かちゅうし=藩士)と町方(本町・今町)と在(村)の人々が混在する地域である。
家中士の多くが麓に住んだが、家中士が住む場所には「○○町」とか「○○村」というような「町」「村」が附されない。
それで人別改でも板敷、楠原、吉野方とも百姓竃数及び人数は少ない。

明治維新後は旧家中士であった士族層に大きな変動が見られ、この地を去る人も多く、むしろ旧町方の人々の資力によって旧城下の姿が保存維持できた。


伊東氏は「宮崎は要らない、飫肥が欲しい」って秀吉に言ったんですね。
そりゃそうだ、飫肥を手に入れるために100年も島津と争っていたんだもんねぇ!


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                       (飫肥 2019年5月13日)


飫肥の武家屋敷通りを歩いてみて、まず感じたのは、屋敷を囲む石垣が高いな〜ということです。
身長を超える高さがあって、これは台風に備えるためとも、薩摩の攻撃を防ぐためだったとも言われているそうです。
また、切石がキッチリ積まれていて、上部に反りもあって、本当に美しい。

片や、薩摩藩では、領地を113の地域に区画して、それぞれに地頭や領主と呼ばれる家来をおいて治めていた。軍事ネットワークの構築のためといわれる。
これが外城(とじょう)制という薩摩独特のシステムで、薩摩では4人にひとりが武士だったといわれています。
薩摩の外城を数カ所見たことがありますが、飫肥と同じく、武士が住む城下は「麓」と呼んでいました。

石垣に関しては全く姿形が違っています。
比較するために、過去撮った写真を載せてみました。

◎薩摩藩の外城
出水(いずみ):鹿児島県出水市
 
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入来(いりき):鹿児島県薩摩川内市

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知覧(ちらん):鹿児島県南九州市知覧町

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どこも丸石を積み上げたもので、高さも低い。
石垣の上に生垣を植えている。知覧では特産の茶だった。
防御や目隠しだけでなく、産業振興のためだったとも言われる。

なんだか「攻めて来ても一向に構わんよ」てな余裕を感じますね・・・


出典
HP「日南市文化遺産ミュージアム」 
宮崎県埋蔵文化センター発掘調査報告書第220集「飫肥城下町遺跡」 
「日南市の地域特性」 PDF    ほか


鶏飯(けいはん)


7月19日(金)

お天気はいかがですか?
梅雨だから雨が降ってても不思議ではないけど、中休みがないのはイヤですね〜
また、今年は梅雨の初期から、台風のような風雨が続いているから、
本物が来ても、変に慣れてしまってて、ヤバい・・・

こちらも日照時間が少なくて、なんだか心身が疲れ気味・・・
野菜も、一応は店に並んでいますが、やっぱり元気が無い。
ナスもキュウリも、夏野菜のパァーンとした張りがないし、色もよくない。

今、いる台風が過ぎ去れば、梅雨も明けるらしいですけどねぇ〜


奄美地方の名物料理という鶏飯(けいはん)を作ってみました。
以前、雑誌に紹介されていて、作ってみたいなと思いながら、早や数年・・・
いわゆる「汁かけ飯」です。

作り方は簡単で、夏バテにはいいかもしんない。


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参考にしたレシピはこちら

鶏飯レシピ
材料
スープ:鶏モモ肉、水、酒、しょうゆ、塩
トッピング:卵、干し椎茸、海苔、ねぎ、パパイヤの漬物、柑橘の皮

私なりのアレンジは、
骨付きのほうが美味いスープが取れると思ったので、鶏手羽を水から煮てスープを取り、チキンコンソメ、シイタケの戻し汁も加えました。やや濃いめの塩味がいい。
手羽の身は、ほぐして具にしました。
卵は、基本は錦糸卵のようですが、スクランブルエッグにしました。
干しシイタケは、戻し汁とすき焼きのタレで煮ました。
パパイヤの漬け物は手に入らないから、タクワンでいいそうです。
柑橘の皮は、柚子を使いました。

器にご飯を少なめによそって、具やスープをたっぷりかけてサラサラとかき込みます
とっても美味しいです。

奄美に行ったことが無いので、本場の味がどんなものかを知らないんですが、
鶏のスープがとにかくうまい

スープの温度について書かれたレシピは無かったですが、冷やしても美味しそう。
ご飯をそうめんに替えて、「鶏麺(けいめん)」にしても美味しいと思います。





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ゆるやかに下った先には、商人の住んだ下町が東西に広がる。

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●大手門

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空堀

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●枡形虎口

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石垣に用いられているのは「飫肥石」と呼ばれている溶結凝灰岩。

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●旧本丸

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日南市指定史跡
 
名称:飫肥城
築主:土持氏 / 伊東祐兵
築城:南北朝時代 / 天正十六年(1588)
遺構:石垣、土塁、堀、復元城門等
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解説文:飫肥城(おびじょう)は、日向国(宮崎県) 飫肥藩の藩庁だった近代城郭。
藩主は伊東氏で、古くは室町時代に足利尊氏より日向国を与えられて以来、都於郡城(とのこおりじょう)を本城として勢力を拡大した。
一時は飫肥城を含め国内48城を支配する日向国の覇者となったが、薩摩の戦国大名、島津氏との戦いに敗れ、日向国を追われる。
その後は秀吉の家臣となり各地を転戦、九州平定での軍功により日向国を与えられ大名に返り咲いた。
関ヶ原では東軍に付き所領安堵、その後は明治まで14代280年間、伊東氏が日向国を治めた。
城内の建物はすべて明治の初期に破壊されたものの、城内全般に壮大な石垣が現存し、大手門等が再建されている。
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宮崎県南部に位置する日南市は、地域の大部分が山地で構成され、これら山地が東側の日向灘にまで迫るところも多く、海岸侵食を受けて奇形波食をなす海岸線が連なっている、
市域を貫流する広渡川を境として鵜戸山地と日南山地が尾根を連ねている。

飫肥地区は海岸線よりも6〜7km内陸に位置し、広渡川との合流点近くで蛇行しながら東流する酒谷川の両岸地帯をいう。

飫肥城とその城下町は、広渡川に合流する酒谷川が最終的に大きく凹状にうねる左岸の内側に立地し、酒谷川の流れをもって東・西・南側について天然の外堀とした。
凹状となった酒谷川の内は、標高15〜19mの氾濫原及び沖積段丘上に下・中級家臣団の屋敷地と町屋、19〜32mと一段高くなった河岸段丘上には上級家臣団の屋敷地、さらにもう一段高くなった50m前後のシラス台地上に城が築かれており、城の北側には急峻なシラス台地の崖が存在する。

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 飫肥地区は、中世以来の飫肥城を中心に発展してきた城下町で、古くは長谷場氏と水間氏、後に伊東氏と島津氏が利権を求めて争奪を繰り返してきた。

平安時代末期、日向国においても荘園公領制が発達し始め、市域は島津荘の飫肥郷に属した。
島津荘は平安時代中期末の万寿年間(1024〜28)に太宰府の平李基が日向国島津院(都城盆地)の高野を開発し、摂関家の藤原頼道に寄進したことで成立したとされ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて拡大していき、日向・大隅・薩摩三国にまたがる日本最南端で最大の荘園に発展した。

鎌倉時代になると、日向国は幕府の強い影響下にあったことが知られており、島津荘では文治元年(1185)には源頼朝の側近・惟宗忠久が下司職に補任された。
忠久は日向・大隅・薩摩の三か国の守護、島津荘の地頭に就くが、頼朝没後の主権争いで北条氏が勝利すると、以後の日向守護は北条一族が就くこととなった。

元弘3年(1333)後醍醐天皇による建武の新政がなると、日向国守護には天皇方の島津貞久が補任された。
飫肥北部では南北朝の争乱とも絡み合って、長谷場氏と水間氏との争いで歴史が展開していくこととなる。
貞和2年(1346)には、水間親子が周辺有力者を与党に加えて飫肥を私領とし、「城郭」を構えて狼藉を続けたとして、一乗院から幕府に水間氏の排除申請がなされている。
南北朝の争乱を機に、室町幕府による日向国支配は一層強化され、14世紀初頭頃には幕府の重要拠点とされ、守護も足利一門で占められるようになった。

飫肥方面では観応2年(1351)に尊氏の所領となっていた飫肥郡北郷の地頭職が伊東祐胤に勲功の賞として与えられた。
文和4年(1355)長谷場氏の動向はこれを境に分からなくなる。

この間、幕府は九州探題一色直氏を守護職とし、島津貞久や相良氏(肥後人吉荘)らに協力を求めた。
このことが島津氏や相良氏による日向進出の契機となり、周辺在地有力者たちの新しい動きに繋がっていった。
この後もいまだに南朝方勢力が力をもった九州の安定のため、幕府は応安3年(1370)に今川了俊を九州探題に任命する。
了俊の撤退後、島津元久が明徳2年(1391)に日向国守護職、応永11年(1404)に日向・大隅国守護職に補任される。

この頃より、島津氏は伊東氏が拠る山東河南に侵攻し、伊東氏の支配権がいまだ確立していない日向国の領国化を本格的に目指し始める。
この島津氏の北進に対して、伊東氏は土持氏と協力して対抗し、応永19年(1412)に伊東氏によって奪還されることとなった。

その後も飫肥を巡って、伊東、島津を援軍に頼む内紛が各地で続いた。
伊東氏が再び南西部へ軍事行動を起こしたのは永正17年(1520)のことだった。
これ以後20年余りにも及ぶ伊東氏と島津氏の飫肥を巡る争いが開始されることとなる。
日民貿易の重要な航路としての目井浦・油津を確保したい伊東義祐によって毎年のように飫肥攻めが続く中、島津忠広は天文18年(1549)に都城の北郷家9代忠親を養子に迎えて協力して伊東氏に対するようになった。

その後も一進一退の攻防が続いたが、天文22年(1553)に伊東氏と島津忠親との間で和議が成り、飫肥東方300町が義祐の知行するところと成った。
しかし、一旦和議にはなったものの、飫肥を巡る争いはその後も続き、伊東氏の飫肥包囲網は一層強まっていった。
室町幕府の権威の維持と同時に日明貿易のルート確保という思惑から将軍足利義輝が飫肥合戦の調停のため使者を下向させる。
島津氏は伊東氏に飫肥へ介入させないことを条件に和議に同意し、飫肥の「公領化」に同意した。

しかし、その後も島津と伊東の飫肥の争奪は続き、永禄11年(1568)和議が成立し、島津忠親は都城に退いた。
伊東義祐は佐土原を居城とし、飫肥には伊東祐兵が入部し、20年余り続いた飫肥攻防戦は決着した。

しかし、まだまだ島津との争いや進軍は続いたが、天正15年(1587)に九州に上陸を果たした豊臣秀吉との戦いに薩摩は敗れ、九州における戦国時代は終焉を迎えた。
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少し長くなりましたが、これを書かなくては、飫肥城を語れませんので・・・
随分かいつまんで引用させていただきましたが、登場人物それぞれにこの地に対する思惑がよく分かります。

和議をしながらも、それを破って何度も戦いを繰り返した島津と伊東。
最初から数えると100年以上ですよね〜
それだけの精力を傾けてでも、この地には魅力的な財源と海外との貿易ができる港があったから、絶対に手をひきたくなかったんでしょうね〜
島津にすれば、もともと荘園を任されたのはうちだからね!というプライドもあったかも?
油津港に対する飫肥藩の手当てが厚かったのも分かりますね。

江戸時代になっても、薩摩藩との境界問題が起こります。
飫肥杉の山林が欲しい薩摩は、勝手に境界を伸ばした絵図を作成して我が物と誇示。
飫肥藩は幕府評定所に申し立てをして、その裁定で勝利した。
これも長い期間がかかったそうです。
とにかく、後の琉球侵攻、奄美への圧政など、薩摩の貪欲さには恐れ入りますね。

飫肥・佐土原・延岡等の藩は、薩摩の抑えとして配されたといわれます。
いつ侵略してくるか分からない薩摩、すぐ隣には都城島津氏が控えていますから、
全く気が休まりませんね〜。
西南戦争では、飫肥藩士の中には、西らに同調して戦った者もいたそうで、
いつまでも尾を引くものなんですね・・・

城跡には、石垣などが残るのみで、櫓などの遺構はありません。
もともと天守はなくて、本丸御殿があったそうです。

本丸跡は、小学校が建っており、子どもたちは、大手門や虎口を通学路としていて、
「こんにちは〜」と声を掛けてくれました。

想像すると、鹿児島にある薩摩の鶴丸城とは随分違いがあって、守りをガッチリ固めた堅牢なお城だったように思えました。

飫肥杉の繁る本丸跡は少し寂しげだった・・・

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現在地図との比較

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                      (飫肥 2019年5月13日)

※日南市飫肥は、飫肥城跡も含めて国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。
目的は重伝建地区を散策するためでしたが、今回は時間が無くて、広範囲で歩けなかったので、そのタイトルで記事を書くのは止めました。
また、機会があったら訪問して記事にしたいと思っています。


出典
宮崎県埋蔵文化センター発掘調査報告書第220集「飫肥城下町遺跡」
HP「戦国を歩こう」   ほか



油津港入口

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●油津港

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左:大崎鼻 
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◎油津港の現況

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油津港は風光明媚な日南海岸に位置する天然の良港で、江戸時代に飫肥藩主により堀川運河が開かれ、昭和初期には阪神、関門、朝鮮方面への木材搬出が活発となるとともに、昭和13年には製紙工業が背後で操業するに至り、昭和27年に重要港湾に指定された。
昭和30年に港湾計画を策定後、防波堤や係留施設などの整備が進められ、平成10年の東埠頭供用開始により、平成11年には、東京・大阪を結ぶ定期RORO航路、平成21年3月には神戸とを結ぶコンテナフィーダー航路が開設され、県南地域と大都市圏、アジアとの海の玄関口として重要な役割を果たしている。
また、平成27年には、16万トン級クルーズ船が寄港可能となったことなどから、近年では多くのクルーズ船が寄港しており、県内のクルーズ受入拠点としての役割も果たしている。

現在の油津港は、港湾施設の狭隘化による埠頭の利用効率の低下、既設埠頭の機能集約・再配置による効率・利便・安全性の向上、人が集い憩い安らぐ空間の形成、港内での放置艇対策、大規模地震に対する対応等が求められている。

◎油津港の歴史
 宮崎県宮崎市田野町甲の天建神社縁起書に、百済の王が油津に漂着した伝説が記載されている。
遣唐使の時代から日本と中国大陸をつなぐ貿易の中継地であり、倭寇の拠点としても利用されていた。
戦国時代においては港の支配権をめぐって伊東氏と島津氏が争っていたが、羽柴秀吉の九州征伐以降は伊東氏による支配が確立した。
南蛮貿易における寄港地の一つであり、当時ポルトガル人が使用していた海図にも記載されている。
文禄の役では伊東氏の拠点港として利用された。

江戸時代に入ると油津港は伊東氏飫肥藩領となり、南蛮貿易は終息したが代わって需要が高まった木材(飫肥杉)の積出港となった。
造船場が多い播磨地方へ千石船で運ばれ、木材積出し港として次第に重要性を増していった。
油津港の北に広がる日向灘は当時の海上交通における難所であり、風待ちのための長期滞在者が多く港町として賑わいと繁栄を見せた。

さらに17世紀中ごろ、藩財政建て直しのため植付けを大々的に行い、
木材運搬のために北方を流れる広渡川と油津港とを結ぶ堀川運河が飫肥藩によって掘削され、貞享3年(1686)に完成している。
酒谷の山奥から運ばれた飫肥杉が堀川運河にあふれ港は活気に満ちていた。

江戸末期に至り、油津港から取扱われていた物産は、弁甲を主体とする杉材が全体の36%、かつお節や干魚など水産加工品が20%前後、米やその他42%であった。

『六十餘州名所圖會』「日向油津ノ湊飫肥大島」歌川広重

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明治15年(1882)頃に近畿地方へ直行する航路が開かれ、南九州における輸送拠点の一つとなった。
明治33年(1900)頃からブリ漁が盛んとなり、大正2年(1913)に漁港の指定を受けた。

「宮崎県写真帖」大正9年(1920)刊より
「大島その他大小の島嶼湾口に並峙し海水深く入る処油津港あり、定期汽船並飫油軽便鉄道線あり交通至便。
市況また殷賑(※いんしん=賑わっていること)なり、海は漁利に富み鰹節その他の水産製造所あり」
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油津漁協に水揚げされたブリ本数が1日最高4万匹であったとの記録が伝えられているが、豊漁は昭和30年代後半までで、その後漁はばったりと止んだ。
戦後、国定公園日南海岸の道路が開かれ、沿岸に土砂流出が続いてプランクトンを生む磯を土砂で埋めたことが一因と言われている。 

昭和初期から昭和16年ごろまで、油津港はクロマグロの豊漁でにぎわい、15年間ぐらい日本一のまぐろ基地として有史来の好景気があった。
全国からまぐろ延縄漁船が集り、種子・屋久漁場から油津沖にかけての近海で豊漁期を向え、1日の水揚げ金額が1億円に達したこともあった。
油津市場の相場が全国の相場を支配したとも言われている。 
この時期に防波堤や岸壁の整備が進んでいる。

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昭和19年、日本海軍特攻兵器「回天」の基地となり、米軍の南九州上陸に備えた。  
格納庫には8隻ぐらいを、レールを海に向け出撃を待つが終戦で特攻兵器は港東沖防波堤近くに放置され、台風により港内に沈み、艇は米軍により爆破された。 
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平成28年におけるマグロの漁獲量で、宮崎県は全国3位、シェア10%を占めている。
沿岸の近海マグロ漁では全国一位だそうです。


港の近くには、景気が良かった頃の回船問屋など豪商の住宅や倉庫が残っている。
油津に来た一番の目的はこれだったのです。

これも昔は倉庫だったような・・・

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●杉村金物本店
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国登録有形文化財(1998.10.09)

名称:杉村金物本店主屋(すぎむらかなものほんてんしゅおく)
昭和7年(1932)建築
構造及び形式等: 木造3階建、瓦葺
建築面積:185
登録番号:45−0003
登録基準1:国土の歴史的景観に寄与しているもの
所有者名: 杉村総業有限会社
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解説文:油津の港に通じる道路に面した角地に建つ木造3階建の店舗兼用住宅。
1階を店舗、2・3階を住居にあてる。
縦長の窓や隅の石張り風の仕上げなど洋風の意匠を取り込み、外壁を銅板で覆った外観に特徴があり、町並でひときわ目立つ存在となっている。
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杉村金物店は、明治25年(1892)操業の老舗で、操業以来、金物・漁具・船具等を扱う。
現在の主屋建物は昭和7年(1932)に建築されたもので、縦長の窓や外壁の銅板張りは洋風の意匠を取りこんでおり、宮崎県を代表する洋風建築である。
銅板で覆った主屋の後には、大正9年(1920)建築の赤煉瓦造り3階建倉庫があり、
主屋と好対照な外観をなしている。
戦時中には供出で外側の銅板をはがし、戦禍で3階の一部を焦がしたが、戦後復元し、往時と同じ外観を現在に伝えている。
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⊃村家倉庫

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自販機もレンガ模様でラッピングしてるところがGood Job!

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国登録有形文化財(1998.10.09)

名称: 杉村金物本店倉庫(すぎむらかなものほんてんそうこ)
大正9年(1920)建築
構造及び形式等: 煉瓦造3階建,瓦葺
建築面積:185
登録番号:45−0004
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
所有者名: 杉村総業有限会社
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解説文: 主屋の西に隣接して建つ。
煉瓦造3階建のせいの高い倉庫で、2階と3階の間は石材を帯状にまわして外観に変化をもたせている。
主屋とともに町並でひときわ目立つ存在で、赤煉瓦で開口部の少ない外観の意匠は,銅板で覆った主屋と好対照をなす。
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●旧河野宗泰家住宅
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国登録有形文化財(1998.10.09)

名称:旧河野宗泰家主屋及び炊事場
      (きゅうかわのむねやすけしゅおくおよびすいじば)
江戸末期(1830-1867)建築/大正11頃(1922)増築
構造及び形式等: 木造2階建,瓦葺
建築面積:173
その他参考となるべき事項:
登録番号:45−0006
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
所有者名: 合名会社油津赤レンガ館
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解説文:油津の町並中心を東西に走る下町通りに南面して建つ。
接道して居住部分を配し,後方に炊事場を置く。
居住部分は通常の町家に似るが、東側に道からわずかに後退して2階建の座敷(大正期増築)を設ける点に特徴がある。上京屋の愛称で広く親しまれている。
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河野家は「河宗(かわそう)」の屋号で知られ、元は飫肥藩の海産・山産物を運ぶ商人として財を成した。
旧河野宗泰家は「河宗」の分家で下町に建つ。
道路に面して主屋を配置し、後に炊事場やレンガ倉庫を置く。
大正11年(1922)頃に河野宗人が江戸期の主屋の一部を増築して2階建てとした。
2階建の座敷は道路からわずかに後退させているところに特徴がある。
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河野家倉庫(現「油津赤レンガ館」)
 「油津赤レンガ館」は油津の豪商河野宗人の倉庫で、大正11 年に建築された。
 平成9年に有志31名が 一人100万円ずつ出し合って、買取保存した。
 現在は市に寄附されている。

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国登録有形文化財(1998.10.09)

名称:油津赤レンガ館(旧河野宗泰家倉庫)
        あぶらつあかれんがかん(きゅうかわのむねやすけそうこ)
大正11年(1922)建築
構造及び形式等: 煉瓦造2階建,瓦葺
建築面積:132
登録番号:45−0005
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
所有者名: 合名会社油津赤レンガ館
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解説文: 堀川運河の東方,中町通りに北面して建つ。
煉瓦造2階建で、内部は左右2室に分かれる。
外観は,出入口の門構えの意匠等に工夫がみられる。
港湾と運河による水運で栄えた町の様子をよく示す建物で,現在は地域文化活動の拠点として再利用されている。
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油津赤レンガ館は、飫肥杉の材木商として有名な河野家「通称:河宗」一族の河野宗人が、大正11年(1922)頃に主屋を2階建てに増築したのにあわせて倉庫として建築した物である。
建築当時は、約22万個のレンガを使った3階建て陸屋根の建物であったが、第二次世界大戦中の戦災を避けるため瓦屋根にしている。
1階中央通路部のアーチ型に組まれたレンガの天井などは、大正期のモダンな建築となっている。
平成9年(1997)に売却されそうになったため、市民有志31人が「合名会社油津赤レンガ館」を設立し、全国的にも珍しい市民による買収保存を行った。
その後、平成16年(2004)に主屋とともに市に寄贈され、平成21年(2009)に耐震補強を含めた改修工事が竣工した。
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●渡邊家住宅

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国登録有形文化財( 2006.03.27)

名称: 渡邊家住宅主屋(わたなべけじゅうたくしゅおく)
江戸末期(1830〜1867)建築/昭和初期(1926〜1988)増築
構造及び形式等: 木造平屋建、瓦葺
建築面積:144
登録番号:45−0037
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解説文: 敷地北辺の道路際に建ち、桁行9間、梁間4間半の規模で,後方に台所等を張り出す。
木造平屋建、切妻造、桟瓦葺とする。
間口の広い正面東端に出入口を設け,その他を格子窓とし、西側面は漆喰の塗壁とする。
江戸末期の油津の商家建築の外観を保っている。
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※他に「酒蔵」と「西藏」も登録文化財となっている。
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●満尾書店

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国登録有形文化財( 2006.03.27)

名称:満尾書店(みつおしょてん)
昭和初期(1926〜1988)建築
構造及び形式等: 木造2階一部3階建、瓦葺
建築面積:169屐地下室付
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
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解説文: 南東の角地に建ち,桁行7間,梁間6間の規模で,木造2階一部3階建,寄棟造,桟瓦葺とし,小屋組をトラス構造とする。
南東隅と東側を店とし,外壁をモルタル塗人造石洗い出しとし、2階に縦長の窓及び柱形を等間隔に並べ,洋風意匠とした商店建築である。
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満尾書店は、昭和4年(1929)頃に建築された。
創業当初は洋品雑貨、文具等を扱っていたが、後に教科書類を主に扱っていた。
建物は、瓦葺2階建(一部3階建及び地下室あり)2階の外観のうち、道路に面した南面と東面はモルタル洗い出しの洋館壁面となっている。
昭和初期に関東や関西で流行した典型的な商家建築で、木造建築物の前面にモルタルや銅板の装飾を施す擬洋風建築(看板建築)といわれ、南九州では貴重な建築物である。
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油津港から真っ直ぐ北へ延びるこの通りは、かつては飫肥杉の搬出を扱う回船問屋や、近代に入ると各地からのマグロ船がやって来て、関連した商店が並ぶ、メインストリートだったと思われます。

油津は、儲かった時代が長かったぶん、残っている建物も江戸時代〜昭和初期までと
幅広いですが、今は堀川橋周辺の旅館、旧河野家など、空き家が目立ちます。

杉村本店は、明治維新150年を特集したTV番組では営業していたようなので、
お話が聞けるかな〜と楽しみにしていたのですが、全くひと気を感じません・・・
旧河野家の本宅も内部を見てみたいものですが、公開するとなると、人を配置しなければならないから、難しいのかもしれませんね。

登録文化財に推薦して文化庁から認定されたのだから、補修をしっかりされて、
末永く保存して戴きたいと思います。

                     (油津1丁目 2019年5月13日)

出典
宮崎県HP
宮崎海上保安部HPより「油津港の歴史」
建物の解説は現地案内板より


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