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じゃらんカメラ
梅雨明けは遅くなるそうですね・・・

書庫町を歩こうよ!

旅先や散歩で興味をそそられた、何でもない建物や気に入った風景。
本音は、こんなふうに歩きながら撮るのが好きかな?
実はカメラを持たないのが、一番気が楽だったりして・・・
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油津港入口

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●油津港

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左:大崎鼻 
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◎油津港の現況

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油津港は風光明媚な日南海岸に位置する天然の良港で、江戸時代に飫肥藩主により堀川運河が開かれ、昭和初期には阪神、関門、朝鮮方面への木材搬出が活発となるとともに、昭和13年には製紙工業が背後で操業するに至り、昭和27年に重要港湾に指定された。
昭和30年に港湾計画を策定後、防波堤や係留施設などの整備が進められ、平成10年の東埠頭供用開始により、平成11年には、東京・大阪を結ぶ定期RORO航路、平成21年3月には神戸とを結ぶコンテナフィーダー航路が開設され、県南地域と大都市圏、アジアとの海の玄関口として重要な役割を果たしている。
また、平成27年には、16万トン級クルーズ船が寄港可能となったことなどから、近年では多くのクルーズ船が寄港しており、県内のクルーズ受入拠点としての役割も果たしている。

現在の油津港は、港湾施設の狭隘化による埠頭の利用効率の低下、既設埠頭の機能集約・再配置による効率・利便・安全性の向上、人が集い憩い安らぐ空間の形成、港内での放置艇対策、大規模地震に対する対応等が求められている。

◎油津港の歴史
 宮崎県宮崎市田野町甲の天建神社縁起書に、百済の王が油津に漂着した伝説が記載されている。
遣唐使の時代から日本と中国大陸をつなぐ貿易の中継地であり、倭寇の拠点としても利用されていた。
戦国時代においては港の支配権をめぐって伊東氏と島津氏が争っていたが、羽柴秀吉の九州征伐以降は伊東氏による支配が確立した。
南蛮貿易における寄港地の一つであり、当時ポルトガル人が使用していた海図にも記載されている。
文禄の役では伊東氏の拠点港として利用された。

江戸時代に入ると油津港は伊東氏飫肥藩領となり、南蛮貿易は終息したが代わって需要が高まった木材(飫肥杉)の積出港となった。
造船場が多い播磨地方へ千石船で運ばれ、木材積出し港として次第に重要性を増していった。
油津港の北に広がる日向灘は当時の海上交通における難所であり、風待ちのための長期滞在者が多く港町として賑わいと繁栄を見せた。

さらに17世紀中ごろ、藩財政建て直しのため植付けを大々的に行い、
木材運搬のために北方を流れる広渡川と油津港とを結ぶ堀川運河が飫肥藩によって掘削され、貞享3年(1686)に完成している。
酒谷の山奥から運ばれた飫肥杉が堀川運河にあふれ港は活気に満ちていた。

江戸末期に至り、油津港から取扱われていた物産は、弁甲を主体とする杉材が全体の36%、かつお節や干魚など水産加工品が20%前後、米やその他42%であった。

『六十餘州名所圖會』「日向油津ノ湊飫肥大島」歌川広重

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明治15年(1882)頃に近畿地方へ直行する航路が開かれ、南九州における輸送拠点の一つとなった。
明治33年(1900)頃からブリ漁が盛んとなり、大正2年(1913)に漁港の指定を受けた。

「宮崎県写真帖」大正9年(1920)刊より
「大島その他大小の島嶼湾口に並峙し海水深く入る処油津港あり、定期汽船並飫油軽便鉄道線あり交通至便。
市況また殷賑(※いんしん=賑わっていること)なり、海は漁利に富み鰹節その他の水産製造所あり」
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油津漁協に水揚げされたブリ本数が1日最高4万匹であったとの記録が伝えられているが、豊漁は昭和30年代後半までで、その後漁はばったりと止んだ。
戦後、国定公園日南海岸の道路が開かれ、沿岸に土砂流出が続いてプランクトンを生む磯を土砂で埋めたことが一因と言われている。 

昭和初期から昭和16年ごろまで、油津港はクロマグロの豊漁でにぎわい、15年間ぐらい日本一のまぐろ基地として有史来の好景気があった。
全国からまぐろ延縄漁船が集り、種子・屋久漁場から油津沖にかけての近海で豊漁期を向え、1日の水揚げ金額が1億円に達したこともあった。
油津市場の相場が全国の相場を支配したとも言われている。 
この時期に防波堤や岸壁の整備が進んでいる。

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昭和19年、日本海軍特攻兵器「回天」の基地となり、米軍の南九州上陸に備えた。  
格納庫には8隻ぐらいを、レールを海に向け出撃を待つが終戦で特攻兵器は港東沖防波堤近くに放置され、台風により港内に沈み、艇は米軍により爆破された。 
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平成28年におけるマグロの漁獲量で、宮崎県は全国3位、シェア10%を占めている。
沿岸の近海マグロ漁では全国一位だそうです。


港の近くには、景気が良かった頃の回船問屋など豪商の住宅や倉庫が残っている。
油津に来た一番の目的はこれだったのです。

これも昔は倉庫だったような・・・

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●杉村金物本店
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国登録有形文化財(1998.10.09)

名称:杉村金物本店主屋(すぎむらかなものほんてんしゅおく)
昭和7年(1932)建築
構造及び形式等: 木造3階建、瓦葺
建築面積:185
登録番号:45−0003
登録基準1:国土の歴史的景観に寄与しているもの
所有者名: 杉村総業有限会社
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解説文:油津の港に通じる道路に面した角地に建つ木造3階建の店舗兼用住宅。
1階を店舗、2・3階を住居にあてる。
縦長の窓や隅の石張り風の仕上げなど洋風の意匠を取り込み、外壁を銅板で覆った外観に特徴があり、町並でひときわ目立つ存在となっている。
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杉村金物店は、明治25年(1892)操業の老舗で、操業以来、金物・漁具・船具等を扱う。
現在の主屋建物は昭和7年(1932)に建築されたもので、縦長の窓や外壁の銅板張りは洋風の意匠を取りこんでおり、宮崎県を代表する洋風建築である。
銅板で覆った主屋の後には、大正9年(1920)建築の赤煉瓦造り3階建倉庫があり、
主屋と好対照な外観をなしている。
戦時中には供出で外側の銅板をはがし、戦禍で3階の一部を焦がしたが、戦後復元し、往時と同じ外観を現在に伝えている。
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⊃村家倉庫

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自販機もレンガ模様でラッピングしてるところがGood Job!

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国登録有形文化財(1998.10.09)

名称: 杉村金物本店倉庫(すぎむらかなものほんてんそうこ)
大正9年(1920)建築
構造及び形式等: 煉瓦造3階建,瓦葺
建築面積:185
登録番号:45−0004
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
所有者名: 杉村総業有限会社
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解説文: 主屋の西に隣接して建つ。
煉瓦造3階建のせいの高い倉庫で、2階と3階の間は石材を帯状にまわして外観に変化をもたせている。
主屋とともに町並でひときわ目立つ存在で、赤煉瓦で開口部の少ない外観の意匠は,銅板で覆った主屋と好対照をなす。
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●旧河野宗泰家住宅
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国登録有形文化財(1998.10.09)

名称:旧河野宗泰家主屋及び炊事場
      (きゅうかわのむねやすけしゅおくおよびすいじば)
江戸末期(1830-1867)建築/大正11頃(1922)増築
構造及び形式等: 木造2階建,瓦葺
建築面積:173
その他参考となるべき事項:
登録番号:45−0006
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
所有者名: 合名会社油津赤レンガ館
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解説文:油津の町並中心を東西に走る下町通りに南面して建つ。
接道して居住部分を配し,後方に炊事場を置く。
居住部分は通常の町家に似るが、東側に道からわずかに後退して2階建の座敷(大正期増築)を設ける点に特徴がある。上京屋の愛称で広く親しまれている。
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河野家は「河宗(かわそう)」の屋号で知られ、元は飫肥藩の海産・山産物を運ぶ商人として財を成した。
旧河野宗泰家は「河宗」の分家で下町に建つ。
道路に面して主屋を配置し、後に炊事場やレンガ倉庫を置く。
大正11年(1922)頃に河野宗人が江戸期の主屋の一部を増築して2階建てとした。
2階建の座敷は道路からわずかに後退させているところに特徴がある。
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河野家倉庫(現「油津赤レンガ館」)
 「油津赤レンガ館」は油津の豪商河野宗人の倉庫で、大正11 年に建築された。
 平成9年に有志31名が 一人100万円ずつ出し合って、買取保存した。
 現在は市に寄附されている。

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国登録有形文化財(1998.10.09)

名称:油津赤レンガ館(旧河野宗泰家倉庫)
        あぶらつあかれんがかん(きゅうかわのむねやすけそうこ)
大正11年(1922)建築
構造及び形式等: 煉瓦造2階建,瓦葺
建築面積:132
登録番号:45−0005
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
所有者名: 合名会社油津赤レンガ館
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解説文: 堀川運河の東方,中町通りに北面して建つ。
煉瓦造2階建で、内部は左右2室に分かれる。
外観は,出入口の門構えの意匠等に工夫がみられる。
港湾と運河による水運で栄えた町の様子をよく示す建物で,現在は地域文化活動の拠点として再利用されている。
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油津赤レンガ館は、飫肥杉の材木商として有名な河野家「通称:河宗」一族の河野宗人が、大正11年(1922)頃に主屋を2階建てに増築したのにあわせて倉庫として建築した物である。
建築当時は、約22万個のレンガを使った3階建て陸屋根の建物であったが、第二次世界大戦中の戦災を避けるため瓦屋根にしている。
1階中央通路部のアーチ型に組まれたレンガの天井などは、大正期のモダンな建築となっている。
平成9年(1997)に売却されそうになったため、市民有志31人が「合名会社油津赤レンガ館」を設立し、全国的にも珍しい市民による買収保存を行った。
その後、平成16年(2004)に主屋とともに市に寄贈され、平成21年(2009)に耐震補強を含めた改修工事が竣工した。
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●渡邊家住宅

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国登録有形文化財( 2006.03.27)

名称: 渡邊家住宅主屋(わたなべけじゅうたくしゅおく)
江戸末期(1830〜1867)建築/昭和初期(1926〜1988)増築
構造及び形式等: 木造平屋建、瓦葺
建築面積:144
登録番号:45−0037
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解説文: 敷地北辺の道路際に建ち、桁行9間、梁間4間半の規模で,後方に台所等を張り出す。
木造平屋建、切妻造、桟瓦葺とする。
間口の広い正面東端に出入口を設け,その他を格子窓とし、西側面は漆喰の塗壁とする。
江戸末期の油津の商家建築の外観を保っている。
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※他に「酒蔵」と「西藏」も登録文化財となっている。
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●満尾書店

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国登録有形文化財( 2006.03.27)

名称:満尾書店(みつおしょてん)
昭和初期(1926〜1988)建築
構造及び形式等: 木造2階一部3階建、瓦葺
建築面積:169屐地下室付
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
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解説文: 南東の角地に建ち,桁行7間,梁間6間の規模で,木造2階一部3階建,寄棟造,桟瓦葺とし,小屋組をトラス構造とする。
南東隅と東側を店とし,外壁をモルタル塗人造石洗い出しとし、2階に縦長の窓及び柱形を等間隔に並べ,洋風意匠とした商店建築である。
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満尾書店は、昭和4年(1929)頃に建築された。
創業当初は洋品雑貨、文具等を扱っていたが、後に教科書類を主に扱っていた。
建物は、瓦葺2階建(一部3階建及び地下室あり)2階の外観のうち、道路に面した南面と東面はモルタル洗い出しの洋館壁面となっている。
昭和初期に関東や関西で流行した典型的な商家建築で、木造建築物の前面にモルタルや銅板の装飾を施す擬洋風建築(看板建築)といわれ、南九州では貴重な建築物である。
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油津港から真っ直ぐ北へ延びるこの通りは、かつては飫肥杉の搬出を扱う回船問屋や、近代に入ると各地からのマグロ船がやって来て、関連した商店が並ぶ、メインストリートだったと思われます。

油津は、儲かった時代が長かったぶん、残っている建物も江戸時代〜昭和初期までと
幅広いですが、今は堀川橋周辺の旅館、旧河野家など、空き家が目立ちます。

杉村本店は、明治維新150年を特集したTV番組では営業していたようなので、
お話が聞けるかな〜と楽しみにしていたのですが、全くひと気を感じません・・・
旧河野家の本宅も内部を見てみたいものですが、公開するとなると、人を配置しなければならないから、難しいのかもしれませんね。

登録文化財に推薦して文化庁から認定されたのだから、補修をしっかりされて、
末永く保存して戴きたいと思います。

                     (油津1丁目 2019年5月13日)

出典
宮崎県HP
宮崎海上保安部HPより「油津港の歴史」
建物の解説は現地案内板より


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油津大橋
 橋の下を降りていくと堀川運河が現れる。

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●堀川運河
 北側(山側)

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 南側(海側)
 以下、運河に添って南へたどって行きます。

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「チョロ船」が復元されている

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チョロ船は、油津に伝わる伝統的な木造帆船である。
平均的なチョロ船は、長さ五尋二尺(約 8.1m)幅八尺(2.4 m)帆柱は船の長さより少し長めの六尋(約9m)と補助用のチャンコ帆があった。
櫓は通常一丁立てで、地元の飫肥杉で作られていた。
チョロ船では、近海(油津の尾伏鼻十二海里沖まで)を漁場としており、延縄漁や一本釣りで、シビ、マビキ(シイラ)ゲンバ(カジキマグロ)を主に釣っていた。
昭和30年代に姿を消したが、近年、油津の有志によって2艘が復元された。

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運河の堤防も登録文化財になっている。

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国登録有形文化財(2004.02.17)

名称:堀川運河護岸(ほりかわうんが ごがん)
年代:明治期〜昭和前期(1868-1988)
構造及び形式等: 石造、総延長2058m、石段7所及び斜路2所付
登録番号:45−0011
登録基準1:国土の歴史的景観に寄与しているもの
所在地: 宮崎県日南市春日町・油津・材木町・園田・西町地先
所有者名: 宮崎県、日南石油株式会社 他
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解説文:広渡川と油津港を結び油津界隈をほぼ南北に貫流する運河の石積護岸。
壁面に排水口を穿つ砂岩の谷積護岸で,物揚用斜路や一部街路線形に応じて配された石段を付す。
飫肥杉による木材業の繁栄に伴い,陸路との有機的な繋がりに留意して整備された港湾施設。
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堀川橋の周辺には旅館や料亭が建ち並んで賑やかだった様子が古写真に見られるが、
今は、数軒が面影を留めるのみ。

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●堀川橋

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国登録有形文化財(1998.12.11)

名称: 堀川橋(乙姫橋)=ほりかわばし(おとひめばし)
明治36年(1903)竣工
構造及び形式等: 石造単アーチ橋 長さ21.0m、幅員5.7m
登録番号:45−0007
登録基準1:国土の歴史的景観に寄与しているもの
所在地:宮崎県日南市油津1
所有者名: 日南市
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解説文: 堀川運河に架かる単アーチの石橋で、吾平津神社の参道橋の役割をも担う。石橋の架設により取付道路が嵩上げされた結果、堀川運河沿いの家は二階を入口とする造りとなったとされる。
油津の景観にとって欠くことのできない存在で、町のシンボルにもなっている。

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堀川橋の上から北側を見る。正面に油津大橋が見えている。

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●「吾平津(あびらつ)神社」別名「乙姫神社」
「油津」の地名の由来となったとされる

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祭神:
吾平津売命(阿平津毘売命=あひらつめのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 
天児屋根命(あめのこやわのみこと)
木花咲耶姫命(このはなさくやひめみこと)
経津主命(ふっぬしのみこと)
社殿:
 本殿(神明造)2.7坪
 拝殿(権現造)42.2坪
境内坪数:3066坪
創立年月日:和銅2年(709)
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由緒:
 当社は元明天皇の御代の和銅2年(709)の創建にて乙姫大明神と称して、江戸時代、飫肥十一社の一つとして歴代藩主の崇敬篤く、明治維新の際し伊東裕帰知事の意により吾平津神社と改称され、明治五年平野村の春日神社、八幡神社、稲荷神社、妻万神社を合祀し、一時期平野神社と改められた。
その後八幡神社が再遷座されたため、もとの吾平津神社となった。

吾平津の名は、『日向纂記』では、油津以北から鵜戸山までを吾平といい、鵜戸山を吾平山というのもそのためで、油津は元の吾平津であろうとの安井息軒の説を引用し、神武天皇最初の妃吾平津姫を祀るとしている。

明治32年の宮崎神宮の神武天皇御降誕祭に際し、社殿、神苑の拡充をはかり、同40年2月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定され、昭和8年郷社となった。
大正15年には、氏子河野宗四郎氏が単独で社殿を改築、昭和9年には神武天皇御東遷2600年祭にあたり、聖蹟として顕彰された。
現在の社殿は昭和48年、第60回伊勢神宮式年遷宮と時を同じくして、神殿、幣殿、拝殿など一切、氏子崇敬者の熱意と浄財で改築された。

主祭神の「阿平津毘売命(アヒラツヒメ)」は、宮崎神宮の御祭神「神武天皇」が狭野命(サヌノミコト)と称され、また日向に在られた頃の妃であり、古事記によればお二人の間には「多藝志美々命」「岐須美々命」二人の皇子ありとあり、また「日本書紀」によれば「手研耳命」お一人の皇子ありとある。

神武天皇が皇子や群臣将兵と共に日向を立って、大和朝廷をおこすために東遷された時「阿平津毘売命」は同行されず、当地に残られ、この油津の地より御東遷の御成功と道中の安全をお祈りされました。
         (「宮巡 」〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜より)
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アヒラツは、神武東征には同行せずこの地で、東征の成功を祈った。
高千穂を出て、美々津から未明に急いで出帆したんですよねぇ、
どこかで、当時の奥さんとは離別して向かったということですかね・・・
社伝によれば、彼女は油津の出身ということなので、故郷に戻ったのか〜

八咫烏に導かれ東征に成功し、サヌノミコト→イワレヒコノミコトは、橿原で神武天皇として即位した。
后はヤマト地方の有力者の娘、媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)とされる。
再婚者とは思いませんでした。

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油津は古くから天然の良港として知られ、「油之津」「油浦」の名で、遣唐使の時代には日本と中国をつなぐ中継地として、中世には倭寇の拠点、そして戦国時代には南蛮貿易の寄港地と海外との交易で港は非常に活況を呈し、その名は中国やポルトガル等海外にも広く知られていたという。

江戸時代に入ると、油津は飫肥藩領(伊東氏)となった。
戦火で荒れた各地の城下町の再建が進められる中、豊富な山林資源を持っていた飫肥藩では、杉や松、楠などの巨木が大阪方面に運搬されていた。

切り出した木材を酒谷川、広渡川を筏で流して油津に回送するには、広渡川の河口からいったん外海に出なければならなかった。
波が荒く、潮の流れも複雑な外海では木材が流出することも多かった。
このため、天和3年(1683) 飫肥藩5代藩主伊東祐実の命により、町の北側を流れる「広渡川」と集散地である「油津港」を結ぶ堀川運河が開削された。

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工事は数十間(100m 以上)もの岩盤を掘削する困難なもので、断念しようとした奉行を、祐実は叱咤激励して工事を進めさせたと伝えられ、貞享3年(1686)2年4か月の歳月を要して運河は完成した。

江戸時代になって海運が発達すると、廻船の建造需要が高まり、浮力があり曲げにも強く、樹脂の油分も多い飫肥杉は造船材(弁甲材)として注目を浴びた。
飫肥藩では江戸初期より植林が行われていたが、後期には大規模な植林が行われ、旺盛な需要に対応した。
飫肥林業の活況は、昭和20年代まで続いた。

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堀川運河の両岸は飫肥杉の貯木場として利用され、運河沿いには弁甲材とする木材加工場が立地したが、護岸は河野家や川越家などの木材商人によって石積みで築造され、木材のあげおろしの石段やスロープ等が設けられた。

また、山から切り出した飫肥杉材(弁甲)10〜12本を組んだ筏を小舟で引いて運河を下る「弁甲筏流し」は1996年から復活し、観光の目玉にもなっている。

写真は日南市HPほかより
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「油津(あぶらつ)」という地名を聞いたことがありますか?
広島カープファンなら、春のキャンプ場になっているのでお馴染みかもしれませんね。

私はそれよりも、失礼ながら台風情報でよく知ってました。
むかしから台風情報を見るのが好きなんですよ、心配というのもありますが、
刻々と変化する、気圧やら進行方向から眼が離せなくなります。

チョッと前まで、台風は沖縄近辺から九州のどこかに上陸して瀬戸内海や紀伊半島を通って日本海に抜けるというのがお定まりのコースだったので、油津の潮位などがよく出て来ました。
やっぱり、過去の被害も多かったようですね。
夏に聞くので「あぶら」の「つ」って、暑そうな名前・・・って思ってました。

知っているのは名前だけで、今回行ってみたら、昔からの飫肥杉の搬出や、昭和初期はマグロの漁獲で、とんでもなく栄えた所だったと分かりました。

江戸時代には飫肥杉の山林資源を求めて隣国の薩摩が国境を侵略し、境界を巡って飫肥と薩摩の間で50年間の争いがあった。
結局、幕府の裁定で飫肥が勝利したということだったようです。

外洋を筏で通るのは危険なため、港までのバイパス(堀川運河)を造ったということですね。
地形図を見ると、広渡川から分岐している所(水門)がとても狭くなっているようですが、開削した当初とは変わっているのでしょう。
石積みの護岸が残っている油津大橋から河口付近までの幅は当時と同じと思われます。
苦労の末、運河を通したことで、流通が飛躍的に伸び、その後の油津の繁栄も支え続けたのでしょう。
古い写真では、筏流しは写ってませんが、チョロ船が行き交う姿が見られ、
川べりには回船問屋や旅館がビッシリと軒を並べている様子がわかります。
たぶん花街もあって、さぞ賑やかだったでしょうね。


「飫肥油津軽便鉄道案内」大正2年(1913)刊より
この鉄道も杉の運搬に使われたのでしょうか

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大正2年、飫肥〜油津間には軽便鉄道「宮崎県営鉄道飫肥線(軌間762mm)」6.4kmが開業。
改正鉄道敷設法の予定線に重なることから、昭和10年(1935)に国有化し、
国鉄油津線となり、宮崎県営鉄道は廃止された。
その後、志布志線として新線(軌間1067mm)に切り替えた。
志布志線も、現在は廃線になってますよね。



                (乙姫町、油津1丁目ほか 2019年5月13日)

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出典
HP「みなと文化事業」
「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選 / 全国漁港漁場協会」 PDF
日南市HP   ほか





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●「正金醤油もろみ藏」 近代化産業遺産

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国登録有形文化財(2005.02.09)

名称: 山吉醤油諸味蔵(やまきちしょうゆもろみぐら)
明治21年(1888)建築
構造及び形式等: 木造平屋建、瓦葺
建築面積:238
登録番号:37ー0258
登録基準1:国土の歴史的景観に寄与しているもの
所在地: 香川県小豆郡小豆島町苗羽字今坂甲710
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解説文:屋敷地を横断する水路の南方、離れ屋の北方に南北棟で建つ。
桁行24m梁間10m規模、切妻造、桟瓦葺の木造平屋建で、南半には諸味桶を据え、北半は瓶詰場とする。
外部は腰焼杉縦板張、上部白漆喰塗とし、南半には高窓を並べ、北半の棟には煙出しを上げる。
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※名称は登録当時のもの
 他に、ここにある山吉山本家、山吉醤油の釜屋、原料藏などが登録文化財。


「山本家住宅」はマップに描かれていなかったので見てきませんでしたが、
昭和初期に建立された、以下のような碑文が刻まれた顕彰碑があるそうです。
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『山本吉左衛門は 宝暦7年(1757)馬木村で吉兵衛の第2子として生まれた。
情が深く誠実で賢く、醤油に対する志を抱き続けていた。
仕事に励んで醤油業をなし、文政の初めには「山吉」と名乗って近畿地方で商売した。
そして、吉左衛門の説得で醤油業に携わる村人は増加、小豆島の醤油の品質も向上して富を得た。
さらに曾孫にあたる国蔵と玄孫、時蔵の代に機械を導入してますます盛んになった。
吉左衛門の徳や功をたたえるため、同業者で石碑を建てた。』

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                ーーブログ「瀬戸内生業史ノート」より転載ーー
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顕彰碑を建てたいきさつは、大正時代〜昭和初期、馬木地区を含む「苗羽(のうま)村」の醤油生産量が、小豆島の中でダントツだったので、地域の醤油業を興した
山本吉左衛門の業績を再評価し讃えたものという。


田んぼや畑の向こうには、今まで通って来た道筋が見渡せる。
坂下家・洋館のグリーンの屋根がひときわ目立っている。

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●正金醤油・藤井家

物置

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国登録有形文化財(2005.02.09)

名称:正金藤井家住宅物置(しょうきんふじいけじゅうたくものおき)
大正中期(1912-1925)建築
構造及び形式等: 木造平屋建、瓦葺
建築面積:86
登録番号: 37 ー 0263
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
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解説文:主屋の南方に位置し、敷地東南隅に東西棟で建つ。
切妻造、桟瓦葺の木造平屋建で、南北両面に下屋を差し掛け、南下屋の東端を隅切りとする。
外部は腰焼杉縦板張、上部白漆喰塗で、境に水切を入れる。
白壁部に穿たれた円形小窓が特徴ある外観をつくっている。
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主屋

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国登録有形文化財(2005.02.09)

名称: 正金藤井家住宅主屋(しょうきんふじいけじゅうたくしゅおく)
大正中期(1912-1925)建築
構造及び形式等: 木造平屋建、瓦葺
建築面積:132
登録番号: 37ー 0262
登録基準1:国土の歴史的景観に寄与しているもの
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解説文:敷地東側道路沿いに流れる馬木川に東妻面を見せて東西棟で建つ。
切妻造、本瓦葺の平屋建の四周に本瓦葺の下屋を廻した形式で、東方を土間とし、南面中央に玄関を置く。
外部は黒漆喰塗で,軒や螻羽廻りを白漆喰塗で塗り込める。
馬木川沿いで際立った存在。
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ぐるりと散策路を歩いて、出発した「ヤマサン醤油」に戻って来ました。
写真を撮りながらでも、1時間ほどです。

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散策路の一番奥、馬木散策路のなかでも最も好きな風景です。
周りを囲む山々、田んぼや畑、古い醤油藏、農作業をする人の姿も見えて、
絵が得意だったら描いてみたくなる・・・

一見で眼を引く大きな藏は、旧山吉醤油のものですが、マップでは正金醤油の藏とあり、どうなっているのか?と、だいぶ混乱しました。

廃業した山吉山本家から正金藤井家が譲り受けたものだと分かりました。
なるほど、家が近所で懇意にしていたという話が、ここでよく分かりました。

山本家は苗羽地区の醤油業の祖であり、発展に尽力された。
そこが廃業となると、藤井家が工場や木桶を受け継いで醤油を造り続ける・・・
さらには、木桶を自ら造る若き職人さんも現れて、こうやって伝統は続くのだな〜

苗羽・馬木の醤油の旨味には、
職人さんの技術だけではなく、情熱や人情味も入っているような気がする・・・



                   (馬木字内浜、今坂 2017年9月9日)


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だんだんと緩やかな上り坂になって、山の麓斜面にも建物が造られている。

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●石井平治醸造場跡

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醤油藏

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国登録有形文化財(2005.02.09)

名称:キッコ石石井家住宅醤油蔵(きっこいし いしいけじゅうたくしょうゆぐら)
明治18年(1885)頃建築
構造及び形式等:木造平屋建、瓦葺
建築面積219屐О羝裕擇喟い場付
登録番号:37−0247
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
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解説文:住宅屋敷地の南方、石垣擁壁下に位置する。
桁行14m梁間10m規模、南北棟、切妻造、桟瓦葺の諸味蔵の東に、
梁間6mで東面に下屋庇を差し掛けた醤油蔵を並べる。
東面下屋中央部には石造井戸と洗い場が付属する。醤油醸造場の中心となる施設。
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※名称は登録当時のもの
 他に、主屋、長屋門、土蔵、納屋が登録文化財になっている。

長屋門
 門の奥に主屋

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●坂下家住宅
 長屋門

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主屋

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奥に洋館が見えている

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通りを見おろせる庭

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国登録有形文化財(2005.02.09)

名称:やます坂下家住宅主屋(やます さかしたけじゅうたくしゅおく)
大正6年(1917)建築
構造及び形式等: 木造平屋建、瓦葺
建築面積:131
登録番号:37ー0249
登録基準1:造形の規範となっているもの

※名称は登録当時のもの
 他に、長屋門、洋館が登録文化財となっている。
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解説文:
○主屋:山裾傾斜地に石垣擁壁で造成した住宅屋敷地のほぼ中央に南面して建つ。
桁行13m梁間9m規模、切妻造、桟瓦葺の木造平屋建で、四周に下屋を廻す。
外部は真壁造で、壁は黒漆喰で仕上げる。
玄関回りの庇支柱に曲材を用いるなど、随所に凝ったつくり。

○長屋門:主屋の東方に南北棟で建つ。
桁行14m規模、切妻造、桟瓦葺の木造平屋建で、東西両側面に下屋を差し掛け、
西面南端に東西棟、切妻造の木造平屋建を増築し、西面軒下小壁と増築部西妻面に円形小窓を開ける。
東面下屋内に門口開けるアプローチは特異な構成。

○洋館:主屋の西に接して東西棟で建つ。
桁行4m梁間6m規模の木造2階建洋館で、急傾斜の切妻屋根と緑色のフランス瓦に特徴。
外部はモルタル塗、内部は建具や天井中心飾りなど洋風意匠でまとめる。
たちの高い形姿は一際目立ち、地域のランドマークとなっている。
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馬木散策路を進んで、正金醤油の東西諸味藏を過ぎたあたりから、
だんだんと山が迫って、坂道になります。
オリーブの木が植えられたり、みかんの段々畑があったり、幹線道路を離れるにつれ、長閑な雰囲気になってきます。

石井家の藏は、現在は観光の拠点になっているようです。
石垣の上にある主屋は生活感があるので、現在もお住まいのようですね。

坂下家は、門が開いていたので、声をお掛けましたが、静まりかえっていました。
山里にあるとは思えない風雅な佇まい。武家の隠居所のよう・・・

石井家も坂下家も廃業してしまったようですが、どちらも立派な建物で、
昔の繁栄が想像できます。
通りの南側には黒板壁の長い建物が続いており、きっと醤油藏や諸味藏でしょう。


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                     (馬木字坂ノ山 2017年9月9日)


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●塩田家住宅
 長屋門と塀

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国登録有形文化財(2002.06.25)

名称: 塩田家住宅長屋門及び塀(しおだけじゅうたくながやもんおよびへい)
昭和初期(1926-1988)建築
構造及び形式等:木造平屋建、瓦葺
建築面積:35屐∧襲篦18m
登録番号:37−0095
登録基準1:国土の歴史的景観に寄与しているもの
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解説文: 醤油醸造場の南方住宅敷地の南辺に建つ。
入母屋造、本瓦葺、腰を焼杉板張、上部を黒漆喰塗とした長屋門で、東に脇門、西に茶室を繋げる。
塀は内側をコンクリート櫛目仕上、外側を縦板張とし、馬木川沿いは谷積石垣の上を源氏塀状として趣ある景観をつくる。
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※「ヤマサン醤油」の本邸
 他に主屋、北土蔵、南土蔵も登録文化財


●「正金醤油」 近代化産業遺産

石井別邸

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国登録有形文化財(2005.02.09)

名称:正金醤油石井別邸(しょうきんしょうゆいしいべってい)
大正15年(1926)建築
構造及び形式等: 木造2階建、瓦葺
建築面積:56
登録番号: 37ー0265
登録基準1:国土の歴史的景観に寄与しているもの
所有者名: 正金醤油株式会社
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解説文: 醸造所敷地の東南方に位置し、東西棟で建つ。
桁行11m梁行5m規模、寄棟造、桟瓦葺の木造総2階建で、外部は縦板張とし、道路沿いの南面には上下階とも大きな開口部をとり,それぞれに庇をつける。
隣接する醤油蔵と一体になり「醤の郷」景観の一翼を担う。
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西もろみ藏

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国登録有形文化財(2003.01.31)

名称: 正金醤油西諸味蔵(しょうきんしょうゆにしもろみぐら)
明治13年(1880)建築
構造及び形式等: 木造平屋建、瓦葺
建築面積:215
登録番号:37ー0130
登録基準1:国土の歴史的景観に寄与しているもの
所有者名: 正金醤油株式会社
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解説文:内海湾馬木港東方に位置し,馬木川に直交する道路に南妻面を見せて建つ。
もと金両醤油創業時の醤油蔵で,桁行10間、梁間5間規模とし内部に4列32個の諸味桶を並べる。
南北棟、切妻造、桟瓦葺の平屋建で、南面を杉板張りとして小路の街路景観を整えている。
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東もろみ藏

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国登録有形文化財(2003.01.31)

名称:正金醤油東諸味蔵(しょうきんしょうゆひがしもろみぐら)
明治13年(1880)建築
構造及び形式等:木造平屋建、瓦葺
建築面積:139
登録番号:37ー0131
登録基準1:国土の歴史的景観に寄与しているもの
所有者名:正金醤油株式会社
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解説文: 西諸味蔵の東方,敷地東辺沿い道路に東妻面を見せて建つ。
西諸味蔵と同様、もと金両醤油創業時の醤油蔵で、規模はやや小さく内部には4列24個の諸味桶を容れる。
東西棟、切妻造、桟瓦葺の平屋建で、杉板張りの東妻面に敷地形状に合わせた下屋を張り出す。
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創業者藤井松吉(1883〜1975)は「金両醤油」を創業した藤井吉蔵の三男として生まれました。
大正9年(1920)37歳で税務署より認可を受け、金両醤油が創業した醤油蔵で醤油の製造販売を始めました。
昭和28年(1953)松吉の長男正七(1906〜1995)が「正金醤油株式会社」を設立。
現在に至っております。

当社は、創業当時から仕込み続けている杉の木桶を用いた天然醸造醤油、
そして、それを使って無添加で仕上げた「だし」「ぽん酢」などを生産し、
どちらもお客様から高い評価をいただいています。

平成14年から、近所の同業者として古くから親交の厚かった「山吉醤油」が廃業したのに伴い、その蔵を引き継いで製造を始めました。
現在では120本余りの木桶を有し、その中で諸味をじっくり熟成させることにより、
風味豊かな醤油を育てています。

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      ーー解説文は「正金醤油HP」、写真は「HP職人醤油」より転載ーー
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●「金大醤油」 近代化産業遺産

醤油藏

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国登録有形文化財(2004.11.08)

名称:金大醤油醤油蔵(きんだいしょうゆしょうゆぐら)
昭和2年(1927)建築/昭和9年(1934)増築
構造及び形式等: 木造平屋建、瓦葺一部スレート葺
建築面積:194
登録番号:37ー0227
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
所在地: 香川県小豆郡小豆島町苗羽字内浜甲833
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解説文:高さの異なる切妻造,平屋建を2棟並べた形式で,主屋西側に近接して建つ。低い部分が当初で、鋸屋根風の部分は増築。
諸味蔵との取合いは下屋で処理している。
複雑な外観であるが、桟瓦葺、縦板壁で統一されており、醸造施設らしい景観をかたちづくっている。
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もろみ藏

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国登録有形文化財(2004.11.08)

名称: 金大醤油諸味蔵(きんだいしょうゆもろみぐら)
昭和6年(1931)建築
構造及び形式等:土蔵造平屋建、瓦葺
建築面積:99
登録番号: 37ー0228
登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているもの
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解説文: 敷地西側にあり,細長い切妻造,平屋建を2棟並べた形式である。北側は桁行22m,南側は増築部でひとまわり小さい。街路に面した北側は,壁面上半に大振りな開口部を規則的に並べる。桟瓦葺,縦板壁で統一されており,醸造施設の景観をかたちづくっている。
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昭和2年(1927) 坂下重太郎により創業。「金大醤油醸造元」として事業を行う。
昭和11年(1936) 重太郎が死去。重太郎の二男、強(二代目)を後継者とし、
以後、諸味の桶売りを主として事業を継続。
昭和25年(1950)重太郎の三男、秀雄(三代目)が事業を引き継ぐ。
昭和28年(1953)いち早く佃煮用の醤油の生産を開始。好評を博す。
昭和32年(1957) 4月1日、会社設立。以後「金大醤油株式会社」となる。

金大の「大」の字の由来は、屋号の「大儀(だいぎ)」から。
しかし、大儀という屋号の元になった「大和屋儀平(やまとや・ぎへい)」については、どの時代に生き、何を成した人物なのか、よくわかっていないとか。
おそらくは江戸時代後期の人物で羽振りがよかった人物だったと思われます。

                       ーー金大醤油HPより転載ーー
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馬木の伝説の人物・・・?

現在は「キンダイグループ」として、醤油製品はもとより、そうめん、オリーブオイル
など、幅広い事業を展開されているそうです。


キンダイグループ製品をセットで食べてみるのもいいし、
正金醤油の桶仕込みの醤油、菌がいい仕事してそう、賞味してみたいですね〜〜

伝統工芸の店を訪ねて、職人さんのお話しを伺うのが好きですが、
どこでも、現在は天然材料の不足、職人の不足に行き着きます。
材料になる植物を自ら栽培している職人さんもいらっしゃいます。

醤油や味噌の大きな桶は、材料は確保できるとしても、造れる職人さんがいない。
残っている樽や桶を壊れるまで使っていくしかないようです。

確か小豆島の醸造所だったと記憶していますが・・・
醤油の職人さんが自ら桶を製造することにしたとか。
今や、専門技術の保持だけでは、やっていけない状況にあるのかも・・・

伝統技術の保持やバトンタッチは難しい時代なのですね。
職人さん達は、充分に意欲があるのですから、その意をくんでほしい。
国も有形や無形で文化財に指定するのはいいですが、それだけで終わりじゃなくて、
総てをトータルで保護して行かなくては、いずれ絶えてしまう・・・


                        (馬木甲 2017年9月9日)

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