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第6回 F ミシェル・フーコー (その1)
ボクがミシェル・フーコーを知ったのは、1960年代の終り頃、全共闘運動の火がつく直前です。
大学院の哲学科美学専攻生として博士課程に在籍していたとき、ぼくはヘーゲルの美学を修士論文のテーマに選び[当時刊行されていたヘーゲルの美学のテキストは、正確には「美学講義録」で、それも晩年の聴講生のノートからまとめたものでした。つまり、ヘーゲル自身の手によって書かれたものではない。手稿は序文がちょっと遺っているだけで、あの厖大な「講義」は、かれの死後講義ノートを集めまとめ、そのさい、目次を立てる枠組は、ヘーゲル最晩年の「哲学体系」に従って作ったものでした。しかし、ヘーゲルは早くから美学の講義をしており、晩年の哲学体系の枠組でかれの美学を考えた場合、その初期の頃の美学思想(その体系)はうかがうことはできません。かれの哲学体系に関する思想自体、『精神現象学』(かれが37歳、定職がないころのときの著述)から『エンチクロペディー』(晩年、ベルリン大学のボスとして君臨していたころに完成させた哲学体系を記述した本)まで、ずいぶんと変容しているのだから、美学・美/芸術についての考えとくにその学としての体系観は変っていっているはずだ。では、どんなふうに変っているのだろうか、その哲学体系思想との比較の中でヘーゲル美学思想の生成を読んでみようというのでした。ルカーチやイポリット、コジェーヴのヘーゲル研究がとても助けになりました。しかし、ミシェル・フーコーがイポリットの教え子だったなんてなんにも知らないころでした。]、ヘーゲル研究の指導教授は、篠田一人先生といってもう故人ですが、マックス・シェーラーの『人間学』の翻訳を出され、ボクが学生だった当時は、戦時下抵抗の日本の知識人の動向の研究をやっておられ[みすず書房から『戦時下抵抗の研究』上下二冊が刊行されています。その巻末の座談会はボクがまとめたものです。院生時代のバイトでした]、柔軟な考えの先生で、いろいろ教えていただきました。資料の裏付けもなにもないヘーゲル美学思想の生成[形成]というボクの研究テーマを、ただ既存のテクストを比較するだけというのは無謀だと仰言りながら、最後までつきあって下さり修士号を下さいました。その篠田先生が、あるとき、「木下君、フランスではいま構造主義というのが流行っとるそうや、。きみは知っとるか。これは、「歴史的発展の原理」を否定する考えというから、われわれがやっとるヘーゲルも完全否定されるそうやで」と、構造主義のイントロをやって下さいました。
そして、どうや、きみもちょっとやってみんかと[まるで盃をすすめるように]勧められ、いきなりボクが取り組んだのが『言葉と物』でした。もちろん、まだ日本語訳のない時代。フランス語の原書を手にしたという訳です。
そのころは、大学では、マルクスとサルトルは読んでいないと相手にされないという時代でした。
学部生のなにも判らないころから、『ドイツ・イデオロギー』や『資本論』や『存在と無』などと
ガムシャラに取っくんだものです。そして、ボクの頭は、人類は自由を求めて歴史を闘ってきた、「人間」を生かし解放することこそ人類と歴史の最大目標であり使命だと信じ、いつか革命は起ると疑わなかったものです。
篠田先生から手ほどきを受けた「構造主義」は興味深くて、教条主義的なマルクス・レーニン主義の歴史観に強い反発を感じていたボクは、こういう考えを学べば有力な武器になるぞという感じで『言葉と物』を手にしたのでした。
ところが、読み出してまもなく、まだ「序」のところで、ボクはつまずいてしまいました。それまでも、わずか数ページ、凝ったフランス語でよく意味がとりきれないまま、ともかく進んだのですが、「しながら、以下のことを考えると励まされ、深く胸をなでおろす」とあって、「人間は最近の発明にすぎなく、二世紀と経っていない姿、われわれの知識(学問)の中の一つのシンプルな襞(のようなもの)であり、だから、知識(学問)が新しい形態を発見するやいなや、それ(人間)は消滅するだろう、と」と続いているのにぶち当りました。いまの部分、30数年前のボクの未熟な思索とフランス語力で読解した感じを再現するため、フーコーの『言葉と物』の原文をたどたどしげに日本語に置き換えて、当時のボクの当惑振りへ近づいてみようとしました[なにしろ「知」なんて日本語(訳語)はなかった時代です]が、1970年代に入って新潮社から邦訳が出ました、その訳を念のため引用しておきましょう。
「それにしても、人間は最近の発明にかかわるものであり、二世紀とたっていない一形象、われわれの知のたんなる折り目にすぎず、知がさらに新しい形象を見出しさえすれば、早晩消えさるものだと考えることは、何というふかい慰めであり力づけであろうか。」
サルトルとマルクスで鍛えられ、なによりも大切にしなければならないのは「人間」であり、「人間的に生きること」を目指すことだと信じていたそのころのボクは、この一行に首をひねってしまったのです。
そして、考えました。たしかに、人間が人間の大切さに気づくのは、フランス革命・市民革命以降のことだし、たかだか二百年にすぎない、厖大な学問、人知の歴史の中では、一つの襞=しわのようなものだ。「シンプル」というのは、わるい意味の単純さじゃなく、「素の」とか、「込み入っていない」「判りやすい」「自明の」という意味で使っているのだろう、だから「人間」の大切さは「シンプル」なことだ。そういうことをここではいおうとしているのだろう。だから、人間の営みである学問がまた新しい形態―学問のありかた、構造主義もそうだろう―を発見するとすぐに「人間は消滅するだろう」とうのはおかしい。新しい形態を発見したとしても人間は決して消滅しないだろう―と読むべきではないか。一字「決してないjamaisというフランス語がはいっていれば、そういう意味になる、ここは誤植だ、とボクはそう思いこもうとしました。「発見するとすぐに」の「すぐに」にあたる部分は「すぐに」「するやいなや」以外のほかに意味はとりようがないのですが、未熟なボクは「発見したとしても」くらいの意味にはもっていけると自分に言い聞かせ、「人間が消滅するなんてことは学問が新しい形態をみつけたとしても決してないだろう」という宣言として読もうとしたのでした。あとは、この分厚い難解なフランス語の本を、そこが誤植である、一字否定の副詞が脱字になっていることを証明するために読み進めていったようなものです。
凝った文体であることが幸いして、よく咀嚼しないまま、もちろん誤植だということの裏付けも得ないまま、それどころか、それを誤植だと言い切るにはどうも違う趣旨の論が展開していく、どこかで大逆転をみせるのだろうか、この文体はなにかそんな思わせぶりな文体だ、などと考え、ともかく悪戦苦闘して、最後まできました。
すると、ここは、驚くではありませんか、「人間は海辺の砂に描いた顔のように消えるだろう、賭けてもいい」と高らかに宣言して巻を閉じているのです。これはもう、疑いようもない、ミシェル・フーコーは「人間」は消滅すると言っているのだ、そうだったのか、途中でも腑に落ちない箇所があったが、「人間」つまり人間中心主義の思想はこの二世紀のあいだに形成されたのであって、それはいずれは克服しなければならないという考えを一貫して彼は告げているのだ。それはそれで筋が通っている、―しかし、それにしても「人間」が消滅するという言いかたはどういうことなのだ、じゃあ、マルクスやサルトルが言っている「人間」の解放とはなんなのか。ボクは納得しきれないまま、『言葉と物』を読み捨てました。
大学の内外では、全共闘運動が激しく盛り上り、ついに大学全体がバリケードで封鎖されるときがきました。そのころのボクには、ミシェル・フーコーの説よりバリケードを張る学生の言い分のほうがはるかに共感でき、バリケードの中で暮す後輩たちが、勉強もしたいんだという希望をボクに洩らしたとき、ボクは「よし、ボクンチで勉強会をやろう、週に一回都合をつけて集まろう。…テキストは吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』にしよう」と言い、みんな賛同して、10人近いヘルメット姿の学生との勉強会が始まりました。当時出たばっかりのこの本は、先鋭な美学徒に眩しい目標でした。この勉強会は、機動隊が大学に入ったあとも、大学が「正常化」した後もつづき、『言語にとって美とはなにか』全二巻を読み上げました。
『言美(ゲンビ)』とボクらは呼んでいましたが、この『言美』を読んでいくについて、ボクはミシェル・フーコーの方法論を、あの『言葉と物』で読んだ「人間は消滅する」の思想尺度を借りて解読することはついにできませんでした。
しばらく、フーコーは、ボクから遠い存在になっていきました。フーコーだけではなく、ボクはそのころからしばらく西洋の書物を頼りにしない勉強のしかたをこころがけていきました。
『ヒューマニズムとテロル』(メルロー・ポンティの著書で、当時みんな読んでいました)だって?そんな問題、石川啄木がずっとはやくに考えているじゃないか、ぼくらはその問題は啄木から考えるべきだ、などと嘯いて、しかし、なにより大きい問題は「人間」の解放である考えはボクの生きものを考える原動力でありつづけました。「人間」を大切にし、「人間」という概念が人間にとって主体でもあり、同時に客体でもあることによって、すべてが「人間」を尺度に測られ世界を裁断把握していくという思想の方法が、じつは近代ヨーロッパがもたらした考えかただと気がつくのに、ボクはだいぶん時間を必要としたようです。
紀伊國屋新書の『岡倉天心』を書いて、しばらくボクは本を出していません。そのあいだに、平凡社の岡倉天心全集の校訂という長い仕事が入るからでもあるのですが、そんなあるとき、なんねんかまえ悪戦苦闘して結局納得できなかったミシェル・フーコーの「人間はいずれ消滅するだろう」の一句が、啓示のようにボクを撃って、『言葉と物』をもういちど読み直してみようと思ったのでした。
そのころ、敦煌を二度訪ねる機会を与えられ、中国大陸に住み生きる人びと、敦煌の石窟[莫高窟]の壁画や塑像を考えていくなかで、「人間」という概念が西洋近代の概念としてもっている限界のようなものを実感したように思います。つまり、ボクにとって敦煌の発見はミシェル・フーコーに示唆されて可能となったといってもいい。そして、『敦煌遠望』という本を書くことになります。[この機会に、もう一人のソルボンヌの社会学者アルベール・メステルというひとのことをここで思い出しておきたい。アルベールは日本にきているときに急死されたのですが、ボクに(ちょうど敦煌からもどってきたころで、さきに書いたようなことを彼と語り、フーコーを再認識したようなことも彼に告げたりしました)彼はフランスへ留学することを強く勧めてくれ、『敦煌遠望』はパリで書き上げたのですから。]
(以下つづく)
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