木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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ミシェル・フーコー (その4)

ミシェル・フーコーは、同性愛を生きた人だというのは、誰もが知っていることですが、一般に[当時はなおさらのこと]同性愛者であるということは、社会から排除される存在であるということです。彼はそういう社会的被疎外者としての自分を生涯抱えてその生きかたを貫きますが、そいう性愛の方法で誰かを愛し誰かに棄てられまた誰かを愛すことは、その生きかたが社会に認知されていないという点で、絶えず、生きていること自体が危機に晒されているわけです。彼は、エコル・ノルマルの時代からひどく苛立ったり友だちと不和に陥ったりしたというエピソードが伝わっていますが、きっとそういう被疎外者の宿命のようなものを自分の裡に感じていたからそんなふうに振舞ったのではないかと、推測します。晩年には、コレージュ・ド・フランスを辞めてカリフォルニアに住もうかと考えたこともあったという話も、伝記に書かれています。

しかし、彼の著述、後年の社会活動、デモや声明、被疎外者たちの手記への序文などをみても、「同性愛者に保護と権利を!」などという活動はしていません。じつは、このことは、ミシェル・フーコーを考える場合、とても大切なことだと思います。

彼はつねに社会から排除された存在へ関心を持ち、その抑圧の歴史と原因究明、その解放へ力を注いだのだけれど、自分が背負っている問題を解決したいという形で発言・行動はしなかった。別のいいかたをすると、自分が抱えている問題を旗に掲げて、この問題は自分の問題だからその切実さを訴える権利と能力があるという提出の仕方はしなかった。自分の問題を抱えつつ、そのまなざしを同質の別種の問題へ移行させ、移行させることによって、それぞれの個別の問題を個別の問題として囲い込まない、つまり普遍化できるレヴェルへ引き上げようとしたのです。

これこそ、ミシェル・フーコーから、いまわれわれが学ぶべき大切な方法と問題意識の持ちかたではないでしょうか。なにかの被害を蒙っている人(たち)がいて、自分はこういう被害を蒙っているのだ、みんなよく理解してわたしたちを苦しみから救いだしてほしい、わたしたちの苦しみを共有してほしいと訴え続けていく限り、いつかその問題が制度的に解決したとしても、その解決は、その問題の範囲内での解決にとどまり、また別の問題が浮上することは避けられない。被害を蒙っている当事者は、もちろんその苦しみで他の世界へ目配りなんかしている余裕なぞないかもしれない、そのことをよく承知しつつも、その自分の問題をこれは自分が苦しめられていることだからこれだけはなんとかと訴えるのではなく、自分の苦しみと同質の別の問題へ眼を遣り、それらに共通する問題を取り出し、また別の問題へも眼を遣って、それらの克服を目指していくとき、もっと大きな解決が訪れるのではないか。ミシェル・フーコーは、その思いを胸にひそめて、精神障害や犯罪者とその処遇の仕方―医者のまなざしの変遷、病院、監獄の制度の歴史を研究していった、そしてそれがセクシュアリテの歴史へと展開していったのです。

今回、≪言葉≫として、「私を駆り立てたのは、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心だ」という『快楽の活用』の一節を選んだのは、この「自分自身からの離脱」という一句はまさに、彼の生涯をかけた方法論と呼応すると思ったからです[くどいようですが、自分が蒙っている被害を、自分は被害者当人だからと解決を訴えるのでなく、自分の背負っている問題と同じ性質の問題を他の領域から見つけ、それを追究すること―これが「自分自身からの離脱」にほかなりません。そしてそれは、ミシェル・フーコーにとってもやはり、容易なことではなかったからこそ、「離脱を可能にしてくれる好奇心」がいかに大切かというのです]。知的好奇心のありかたのモデルをここにみつけられる気がします。

こうして、自分だけの問題に固執する生きかたから<離脱>しえてこそ、「哲学が、思索の思索自体への批判作業」となりうるのです。「自分自身からの離脱」は、また「自分自身への批判作業」でもあること、そのことなしに「哲学にはどんな意味があるというのか」というのです。「哲学」とは、このとき、人間の生きかたの根源を支える行為と思索を指し、そういう批判が成就するとき、かつてミシェル・フーコーが自ら予言した「人間の消滅」のあとの「新しい知の配置」が実現するのでしょう。

                      ☆

あとがき:
ミシェル・フーコーの前半期と後半期の転回時点に書いたのがコレージュ・ド・フランスの教授候補に上がったとき提出した「研究内容と計画[資格と業績]」(『「名文」に学ぶ表現作法』明石書店所収)です。予め読んでおいてほしいと宿題にしておいたのですが、当日はそのテクストにボクのコメントをいろいろ書き入れたコピーを用意しました。それを読んでもらえばいいことなので、くりかえすのはやめます。
いつもより時間をくって5時ごろまで喋ってしまいましたが、そのあと質問があったのは記録しておきます。

一つは、フーコーは、社会的な弱者被疎外者へのまなざしをもちつづけ、その調査研究の成果をヨーロッパの知の歴史の解読へ組み込んだが、そのフーコーの社会的弱者被疎外者へのまなざしと、前回のテーマであったエロシェンコが持っていたという<汎生命主義>とは共通するところがあるでは、という質問でした。これは、フーコーは、この社会的被疎外者の問題を<自分の問題>という出しかたをしなかったということによって<哲学>になしえている。エロシェンコは、逆に、どこまでも<自分>の問題とつなげて書いたという点で、決定的に二人の構えかたはちがうと答えました。

つぎに、「研究内容と計画」はフーコーの前半期と後半期の転回点に書かれたもので、そこでの計画自体「未公刊」となっているということだったが、方法論として、そのペイパーで提出していることは構造主義からの決別と読んでいいか、という質問で、そういう方向へ向っていることが読めるだろう、フーコー自身の文章は端的にそうはいってないけれども、と答えました。

もう一つ質問がありました。ボクはフーコーが亡くなる直前の著作で文体が急に変ったと言ったけれど、すでに『言語表現の秩序』や『監獄の歴史』は、『言葉と物』や『狂気の歴史』とくらべると平明で読みやすい、そのころ(70年代)から文体は変わってきたといえるのではないか、というのでした。
この点、たしかに『監獄の歴史』などは読み易いのだけれども、その時期やその後に書いているエッセイなどやはり凝った文体だし、『快楽の活用』にいたって急速に変わったという印象がボクにはつよい。しかし、すこしづつの変化というのは、そんなに型どおりではなくあるのは確かだろうといったことを答えました。


以上でもって、第6回Fの報告といたします。

閉じる コメント(3)

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遅くなって申し訳ございません。感想を書こう、そして書きたいと思っていたのに時間がなく申し訳ございません。 M・フーコーの段、興味深く聞かせていただきました。この勉強会を聞いて帰る新幹線の中で思い浮かんだのがボブ・ディランの”My back pages”です。毎回のさびのところにbut I was so much older then. I’m younger than then now.(あの頃の僕はふけてたよ。今のほうがずっと若いさ)と歌っています。

2005/9/28(水) 午後 2:58 [ ほりけん ]

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その歌われている姿とフーコーの姿はどこか符合する感覚にとらわれました。どこかに安住しない、常に自分を捜し求めているそういうある意味<younger>な姿。それがフーコーにはあると思いました。 自己に当てはめてみても常に動き続ける、常に若手でい続ける。それは社会的な責任や組織的関係性の中で100%の達成は難しいかもしれない。しかし、帰結としての安住をよしとしないという感覚は持っていなければならないと思いました。

2005/9/28(水) 午後 3:00 [ ほりけん ]

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ディランはこうも歌っています。Lies that life is black and white, Spoke from my skull, I dreamed(白か黒しかこの世にはないなんて嘘っぱちだと、そう僕は嘯いたよ)。いやはや、社会人というのを何年かしていると、それはそうだろうけどもと思いますが、若くありたい!歳をとりたくない!勉強会を経て、今はそう思っています。 また近々参加させていただければと思います。

2005/9/28(水) 午後 3:01 [ ほりけん ]


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