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L:ラスコー(その5)
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そんな単純な稚拙な人物像に突っ立っているペニスはしっかりと描いています。拡げている腕と手、硬直するように延ばした両脚などの線は稚拙(ていねいでない)なのですが、やはりその線は生きています。それが勃起するペニスにも伝わっています。
じつは、他の部屋に描かれた動物たちの中にも、ペニスを立てているのがいます。描かれている動物、牡牛も野牛も犀も、鹿も、みんな跳躍している姿で、跳躍しながら勃起しているのです。人間だけ、唯一の例の縦穴に描かれた人間だけ、倒れています。
跳躍といえば、後の左脚を腹の上まで蹴り上げて、ものすごい跳躍振りを見せている牛もいます。跳躍するということに、ラスコーの人たちは、動物=獣たちの「聖なる」状態、人間にとても及ばない力を発揮している状態をみていたのでしょうか。
動物たちは、そういう状態でペニスを立てている。ということは、性の行為の頂点をなんとか絵にしようとしたのだという気がします。セックスをしているときの頂点の感覚を、人間は自分たちも経験し、動物たちがそうしている姿も目撃していたのでしょうが、そういう交尾の状態の姿を描いてはいません。二頭のバイソンが激しい姿勢でお尻をつきあわせている絵がありましたが、これも交尾の形ではない。それどころかこの二頭がともに雄で、ペニスを突き立てています。
インドのエローラの石窟に、ヒンドゥーの神が交接しているさまをなまなましく彫り上げた像がたくさんあります。昔の人が交接するさまを像にしたり絵にしたのはほかにもあります。浮世絵の枕絵やヨーロッパの近代の画家たちにもあるし、それは現代のポルノにつながっていくものです。
古代の人たちは、おそらく、こうした交接の場面を描いて、その性行為という絶頂を表出したかったといえましょう。しかし、それはラスコーより技巧的には展開していますが、同時にその感覚をストレートに表現しえることからは遠ざかります。
こうして、ポルノに至る流れの表現は、それをみて、あらたに性への欲望を駆り立てはするけれど、その歓びの直接の表現ではないわけです。
こいう感覚、歓びの絶頂感は、性行為に限らずあります。その歓び、絶頂感、それは、極限の美の感覚でもあるわけですが、絵も彫像も言葉(詩)も、音楽(曲、歌)も、それをとらえきって描写することはできない。直接には表現できるものではない。しかし、それをなんとか表現したいと悪戦苦闘して作品を作ろうとする。それが芸術と呼ばれる営みだといってもいい。その悪戦苦闘は、結局、間接的な象徴的な表現しかできなく、また新たな表現を試みるわけです。ヴェルレーヌやランボーの詩なんか、まさにそんな戦いの痕跡という感じがします。こうして「芸術」は無限なわけです。
ちょっと余談めきますが、ランボーやヴェルレーヌから例をとってもいいのですが、芭蕉の「あらたふと青葉若葉の日の光」という一句など、そんな挑戦にかなり成功した一句ではないか、とかねがね思っています。青い若葉をとおして五月のまぶしい陽の光がきらきら輝いている美しさ、そのまぶしさが、みごとに言葉にとらえられています。もっとも、この一句、これは日光で詠んだ句で、「あらたふと」は、徳川将軍のご威光を「尊い」といったのが表向きの様子で、そうなると「日の光」は「日光」「東照宮」を指しているという解釈に収束するのですが、そういう表出を表立てておきながら、初夏の太陽の光が葉裏を通して踊っているサンサシオンを、見事に汲みとってみせています。
これは、メッセージとして二重であるから可能になったことを忘れてはならないと思います。ただ直接的な歓びが表現としてそこにあるということはできない。そのとき、別のメッセージの形をとりながら、いやとることによって、それが姿を現してくる。これが、原始の衝動を高度な芸術の技巧へと追い求めて得られるものでしょう。
これは詩の例ですが、そんな感覚を、なんとか直接に表出したいという願いと試みが原初の画家たちにもあり、この勃起するペニスの絵にそんな思いを汲みとることができます。それが、ラスコーの絵から、つよく感じる生命力、生命の躍動と通じ合っているのでしょう。
少なくとも、交接の場景を描くことによって、性の歓びを表現するという技巧的には一歩前進したが、直接的な表出からは逆に遠のいた方法以前の表現技法を、ラスコーはもっていたのです。それが「生命の躍動」の絵という印象を支えているのです。
人間と動物(獣)とを別かつ一つの徴として、次のようなことがいえます。たいていの動物は、性活動の終息と共にその生命活動も終えるが、人間は性活動機能が衰退したあとも生命活動を続ける。
ラスコーの人たちは、この性活動と生命活動の不一致を自覚していなかったのかもしれない。生命活動には性活動と別の価値があるということにまだ気が付いていなかった。生命活動を性活動の上位に置き、そこに精神的な価値をみつけるようになって「人間」の歴史は始まります。その意味でも、ラスコーの人たちは、まさに「動物」から「人間」へ、その転換点(ながいながい転換期)にいた。まさにその意味で、「人間」の最も初原的なありかたを見せてくれるのです。
その初原性の意味の大切さを、この「性表現」のラスコー的方法はわれわれに告げています。
その意味でラスコーは、絵画表現の原初の姿、その生ま生ましさを見せてくれているのです。
その初原性をもう一つの例で抑えておきたいと思います。それは大広間の左端にある「一角獣」とよばれてきた動物のことです。(これもスケッチを入れておきます)
じつは、現在、ラスコーの洞窟の入口からこの大広間にはいると、入ってすぐ左手の端に、広々とひろがる部屋の隅の方へ向って駆けていくようにしてこの動物がいて、そういう情況からは、この想像上の動物が、ラスコーの動物たちの絢爛たるパノラマの案内役を買って出ているようにみえます。しかし、本来の入口は、現在の入口とはちがうところにあったようで、そうすると、ここはどうも大広間のいちばん奥まった場所になる、つまり、ここへ入って来る人たちを奧で迎えている本尊のような位置にいることになります。
「一角獣」と呼ばれてきましたが、歴然と角は二本あります。しかし、現存するどの動物とも同定はできない想像上の動物です。ボクは、この動物を想像上の動物とし、他の野牛と牡牛とか同定できる動物と別扱いしない方がいいのではないかと思っています。つまり、他の動物たちも、決して写実的な描きかたがされているわけではないのです。「想像」と「現実」という、現代のわれわれがつい使ってしまう概念分けを、ラスコーの人たちはしていなかったと思います。そういう概念がなかったのです。
想像的なものは現実であり、現実は想像的な存在だったのです。
そういうみかたと感じかたにこそ、表出の原初性があるといえましょう。ラスコーの美術を語るときの快感でもあり、スリリングでアドヴェンチャラスな点は、あのヘーゲルもニーチェも、全く知らなかった世界を語っているというところにあります。そうして、こうした絵画の原初性を確認し、同時にボクがラスコーを訪ねたあとに撃たれた感想をもっていえることは、20世紀まで、「美」の基準(「美」の始源としての基準)は、ギリシァ・ローマの古典美術にあった、ヨーロッパ文明が世界を席巻して、アジアの人間も南アメリカの人間も、アフリカの人間も(一部の人たちを除いて)、その基準を絶対視してきたけれど、いまそれをラスコーにシフトする必要があるのではないかということです。
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ラスコーの絵は、洞窟の中の壁に描かれています。ということは立体空間の中の絵です。大乗寺ほど計算されていないにしても、洞窟の天井と壁から成る空間に描かれた絵としてのありかたは、非常に重要です。ボクが訪ねたときの最も大きい感動の一つは、あの大広間にバイソンや牡牛や馬の走る脚音が轟いている、その蹄の音が聴こえてくるという印象でした。これは、もう、複製写真をみていては決して感じとれないものです。
それは、ちょっとかんたんに訪ねられる所ではないので、置いておくとして、それでもなお、その絵の持っている意義は大きい。今回はそれをできるだけ多くの写真をお見せして、その絵の初原性(これからの現代の人間の新しい「美」の基準となるべき原初性)を確認し合いたいと考えたわけです。
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ラスコーには、文字はありません。おそらく言葉はあったでしょうが、書き付けられた言葉はありません。したがって、今回は「言葉」はお休みです。代りにボクがラスコーをみたあと心底撃たれたというその感想をくりかえしておきます。それは当時のノートにこう書きつけてあります。
「ラスコーが現したもの、それを再び自分の手にしようと、人類はそれ以来、空しい努力を続けている―それが美術の歴史だ。」
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