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2月11日 N:中井正一(その1)
中井正一については、ボクは二年前に平凡社ライブラリーから『増補 中井正一』を出しています。これは、1995年(もう10年も前になるんですネ)リブロポートから「民間日本学者」というシリーズの42冊目として書き、出してもらった本を増補・加筆したのです。これを読んでいただくのが、ボクが中井正一(ナカイショウイチ)(註)について考えていることを知ってもらうのにいちばんまとまっていると思うので、それと重ならない面から報告をしたいと思います。
なお、平凡社ライブラリー『増補・中井正一』については校正をしているあいだにさらに加筆したいと思ったところが出てきて、出版された当初、それをコピーして、貼り付けた本を身近な人にはプレゼントした記憶があります。ボクの手元にあるのもそんな貼込版なのですが、みなおしてみると、意外にそれが大切なことを言っている(自画自賛ですみません)。たとえば「京都学派」なんて呼称の無意味であることを、中井自身の言葉から裏付けようとしているところとか、ありますので、もしそれをご希望される人がいらっしゃったらどうぞお申し出ください。コピーして差し上げます。
(註)中井正一は戸籍上は「ナカイマサカズ」と訓まれていたようで、『美学入門』河出市民文庫(1951)など、初刷の奥付で、ショウイチだったのが二刷のあとマサカズに直していたりします。中井を研究している人の中には、その呼称の問題にひどくこだわっている人がいまして、中井没後、国会図書館が英文で中井を紹介する文章にShoichi Nakai と書いているのをみつけて、副館長だった国会図書館がこの始末、けしからんと怒っている人もいました。
これはある意味で、大事な問題で戸籍上マサカズと呼ばれていたからマサカズと呼(読)んであげましょう、とここまではいいでしょう。しかし、歴史を扱う(考え研究する)人が、マサカズと呼ばれていたし、自分でもそう名乗っていたはずだからマサカズと呼ぶ(読む)のでなければ、中井正一の実像に迫れないと主張するのは、どうかと思います。
国会図書館の英文記事にたまたまShoichi と書かれたことはとても象徴的です。みんな彼のことをショウイチと呼びならわしてきたということです。
ボクも1970年代「中井正一」を知るのですが、ずっと「ナカイショウイチ」といってきましたし、鶴見俊輔先生も「ナカイショウイチ」といっていました。そんな状況で「ナカイマサカズ」っていわれたらかえって別の人かと受け止めるくらい。
つまり、現代は、中井正一をナカイショウイチと呼びならわすなかで、彼の生きかたや仕事のことを考え議論してきたわけで、そういう、中井正一をどう議論してきたかという問題も含めて彼のことを考えようとするなら(そうしなければ中井正一を論じる意味も減少する。生まれてから死ぬまで中井正一氏はこんなことをしましたと事実を拾って記述しても中井正一の遺したことは伝わらない、それでは歴史を勉強したことにはならない)、それならナカイショウイチと呼ぶことによってかえって「現代」という視点に立って中井正一を論じる立場がはっきりできるとさえいえます。
ま、どっちでもいいけど、ナカイマサカズにこだわるより、ナカイショウイチと呼んだ方がより柔軟に広い視野から、中井正一の思想像に迫れるというものではないか、というのがボクの立場です。
名前をどう呼びどう書くかっていうのは、考え出すとなかなかやっかいで、結構重要な(それこそ「言葉と物」に関わる)問題になっていくようです(次回の岡倉でもこれが問題になります)。
ゴッホにしても、Vincent van Gogh をどう日本語で表記するか、結局いちばん通じやすい表記にすればいいと思うのですが、オランダ語に詳しい人は、よりオランダ音に近いカタカナ表記にこだわります。そのカタカナを、日本語を生活言語としている人が発音して、もしVincent van Gogh 氏がいまここにいてそれを聞いても自分の名前を呼ばれているとは思わないでキョトンとしているでしょう。そして、私の名前はこうです、と彼が発音を直して言ってくれても、日本語の体系のなかのどの記号を使ってもそれと同じ「音」は表せないのです。
それなら、誰もが一番通じる表記にすればいい、ということになります。
しかし、ここにも問題があって、どうも名前というものは一人の人間にとって「一つ」でなければならないという考えが現代人の頭にこびりついているということです。
昔は、日本でも「あざな」や「いみな」「おくりな」など、さらに幼名、号などもあって一人の人間がたくさんの名前をもち、また名前を変えることがふつうだったのですが。この辺の問題も含めて人の名前についてどう考えるか? おっと(註)が長くなってしまいました。
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『中井正一全集』全四巻が美術出版社から出ています。これがまったくいいかげんな全集で、折に触れてそのことは言ってきましたが、「全集」というにはあまりに恥ずかしい。とくに以下の二点。
1.全集収録にさいして、文章を読みやすくするための原則がなっていない。
2.洩れている中井の文章がいくつもある。
その後、中井のアンソロジーがいくつか出て、この十年の間にも、岩波文庫『中井正一評論集』(1995)、こぶし書房『中井正一エッセンス』(2003)と出ていますが、どちらもテキストを選ぶときは、底本に美術出版社の全集を使っているようで、これでは中井正一の文体の味が伝わらないという問題が見のがされています。
中井正一をこれまで論じてきた多くの人たちは、中井正一の文体について蔑ろにしてきたといえます。中井正一のメッセージを捉えることだけに焦点が絞られすぎてきたといいかえてもいい。
その好例が「委員会の論理」の扱いかたですね。彼の代表的論文として、どの本もこれにいい場所を用意し、いろんな人が書き書こうとしています。しかしどのテクストも(全集をはじめ「評論集」も「エッセンス」も)この「委員会の論理」という論文を、彼が1931年に『世界文化』に三回にわたって掲載したその機微(未完成であることの思想の震えのような味わい)を拭いとって、一挙に書かれた完成論文のように収録しています。
これは、未完成の草稿として読めるように収録して、そこから読者が読みとっていくものをみつけるようにしなきゃ意味がないし、「中井正一」を初めから歪曲してしまっている(少なくとも校訂者の解釈に塗り込められたテクストになっている)というボクの主張は『SAP』10号(2003)に書きましたのでここではほどほどにしておきます。
ただ一言だけ?。そうやって(未完成であることをふまえて)読んでいくと、この「委員会の論理」は、もっと現代社会の生きかたの論理(と倫理)の問題提起として読めるということです。
「委員会」といういいかたを中井正一はしていますが、これは人間(まさに「人」と「人」の「間」に成立する関係存在)が、なにかを決議し行動していく「過程」に生じる、その決議のしかた、組織や集団のありかたはどうあるべきか、歴史的にはどうだったか(1931年の段階では中井はその歴史のモデルをヨーロッパにしかみていませんが)を考えようとしています。
狭い意味での「組織論」や「経営」論を超えた読みかたができる示唆を隠した論文です。それが中井自身にとっても「草稿」段階なので、われわれはより自由に読むことができるのです。いつか、じっくり精読してみたいと思っています。
(つづく)
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現在、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で、「中井正一プロジェクト」と称して、彼の作品を系統的に入力しようと企画しています。「美学入門」など校正中ですが、「日本の美」「『土曜日』巻頭言」などは入力したいと思っています。トラックバックにあるように、ご紹介のあった、「現代日本画の一つの課題」をまとめて掲載しましたが、よろしかったでしょうか?当方、浅学で恐縮ですが、プロジェクトなどにご意見、ご助言があれば、お寄せください。
2006/3/2(木) 午後 2:54 [ dro*at* ]