|
中井正一(その3・中井正一「現代日本画の一つの課題」つづき)
それは、実に動いていて、爽かで、しかし、喘(あ)えぐほど緊っているとも云え、又微笑するほど果敢に投出しているとも云える、実にたゝかっている気持である。
自分自身を否定の媒介とすると云う弁証法的世界観の出現は、かゝる皮肉イロニーをふくんでいてはじめて味と彩がついてくるんぢゃないか。
この追いあっている二つの自分が、グーッと自分自身を追い越すように影をかさねるとき、藝術家はほんとうに筆を執るよろこびをもつと云えるんぢゃないだろうか。競争している舟が、息づまる様に、舟をならべている鋭ぎすました時の流れ。こんな時間が作品の中に流れているとき、私達も、畏(おそる)べき自分の内面に吸い込まれる様に、血の引きゆくのを感ずるのではあるまいか。
こんなしびれるような寂かなよろこびは決してゆさぶられる様な疲労に人々を落し入れる様なことはない。むしろ、わきたっているむらぎもの想いの濁りに、明礬(みょうばん)でも落した様に、凡てが沈殿し、澄みゆく思いをさして呉れるに違いない。ふるいたつものがあるに違いない。
中国の壷も、このたゝかいのこゝろの涯(はて)に造られたものであったのであろうか。こんなに考えて見ると、絵の中に、こんなジャンルとでも云いたい藝術の境地がある様に思われる。しかし、それは単に類型的な様式ではなくして、一山越えて憤るものが、耐え練れて、やっと達するところの「門」とでも云いたい様なものを感ずる。弁証法的なキビシイものゝあるリアルな世界である。
現代の日本画には、このジャンルがだんだん少なくなってゆく様に思えてならないのである。
自分が自分に対決している絵がだんだん少なくなって行く。社会の愚劣に深く息を吐いている、自分の愚劣に嗟嘆している自分が、自分を追越そうとして、姿勢を正して追っている眼晴(がんせい)を感じせしめる絵が、数少なくなってゆく。
審査員の眼を追い、展覧会の観衆の眼を追い、批評家の眼を追っている、はなはだしいのは画商の眼を追って、画絹(えきぬ)を、その前面へ、その前面へもち廻っているのが、まざまざと、展覧会の壁一杯に感ぜられて、悲しい。
彼らの意識する眼は、実に多種多様である。万人が変る様に、変り変っている。その多角な変化が展覧会の壁の一つの平面を支配している。一つの絵から、一つの絵に眼を転ずる観覧者にとっては、その度にガクン、ガクンと眼が廻わる思いをさせられる。丁度電車から外を見ているときに、次から次のバラックに、疲れる疲れを、私達は展覧会で味わされるのである。
安価な画商の眼を追うて描かれている絵は、私達を画商の安価な眼のアングルにさしむけるだけであって、その一つ一つの絵が私達の中のいらだつものゝさめゆき、血の引きゆく決意に似た思いを味わしてくれることはない。
あの大阪の名画展といえども、私を疲れはてさせた。そして、一個の支那の壷によって、そのいらだちを医(い)することが出来たのである。このことが、私にとって、未だ解けきれていない課題であるとともに、現代日本画のもつ課題ともなるのではあるまいか、
的の真ん中を射した矢を、裂いて次の矢が更に真中を射す様に、自分自身に対決する眼晴は、万人の眼を貫いて、歴史を貫いて、真直に只一筋、永く尾を引いて、未来にさしつらぬかれているのではあるまいか。
かゝる眼は、只一つであって、それを見ることによって、いよいよそれが同一のものであることをたしかめ、いよいよ人々の疲れをいやすものとなるのではあるまいか。そして、その只一つのものが、その筋道を辿って変化することは、一つの「門」から一つの「門」へ、一つの「品」から一つの「品」へ、と深まって行くことであろう。
芭蕉が死の直前、其角(きかく)嵐雪(らんせつ)から別れて、「軽み」の世界に出ていったとき、この変化は、人々にめまぐるしい思いをさせる変動ではなくして、真すぐに脱落して行った、自在を得てゆく姿である。永徳があんな重い松と梅を書いて、又身を翻えして艶麗の中をさまよって、しかも自在を得ているとき、自分を見ているが故に自分に止っていない無限の豹変と、直実に即(つ)くことの軽さが感ぜられて爽かである。しかし、それを追うものにとっては薄気味が悪いほどである。しかし、一つのものが、もっと、その一つのものをたしかめたことに驚くのみである。
こんなに考えると、現代日本画展が、一巡して何か疲れるものをもっているのは、その眼が、切実なたゝかう眼晴の中に、沈んで行かないことに起因するのではないかと、フト疑って見たくなるのである。
画絹を、何かとんでもない人々の眼の前に持ちまわって、筆を起しているからではないかと、私には思えるものがあるのである。いろいろの人々から、そのことについて教えを受けることが出来ればと思っている。
(一九四六・十一・二)(美術評論家)
☆
絵画・美術というものは、ほんらいどんなふうにあるべきかを語って、なかなか鮮やかです。50年前、「現代」の文体から遠くなったなという思いもありますが…こんな文章には、おいそれとお目にかかれるものではありません。「たん壷(痰壷)」に手を突っ込んで、苦痛をぐっとこらえながら顔はにこやかに微笑しているなんて、現代のわれわれはもう忘れてしまっている(忘れさせられている)心境かもしれません。そんな心境を芸術の境地として想い直させてくれる貴重なことばです。現代のわれわれは、こういうふうに語ることを時代錯誤と思っているのかもしれない。でも、そうじゃないよって語りかけています。
その上に、自分や家族のことについてほとんど書かない中井が、大事な息子を喪くした悲しみを吐露しているという点でも、かけがえのない文章です。この文章を全集に入れなかったのはなぜか、と問い詰めたくなります。
☆
当日のABCではそのほかのテクストも読んだのですが、当日の配布資料リストを掲げておきます。
1.略年譜
2.「現代日本画の一つの課題」(『三彩』15号 1948、1.)
3.「唖聾年鑑」(『世界文化』)
4.「絵画の不安」(『美』1930、7月号)
5.「委員会の論理」より、表A1,2,3.(中井の本文より)
表B(中井の表3点を木下が再編)
6.「言葉」
☆
「言葉」は、二つ選びました。
「白い画布それは一つの不安である」「絵画の不安」(1930)より
「たたきつぶすこと、打破すること、ぬけ出すこと、脱出すること、流れ新しくなること、流動するということ、この行動の中に美が生まれ出でることとなるのであります」―『日本の美』(1952)より
若い頃の文章と最晩年の文章を対比してみようとしたのです。この二つの言葉が載っているそれぞれのエッセイを読むと、彼の「若さ」と「成熟」ぶり、そのちがいがとてもよく見えるのですが、こうやって、抽出した二つの言葉を並べると彼の生きかた=美・芸術に対する姿勢がある共通した気持ちに貫かれていることがみえてきます。
思想のありかたは、決して一貫していたとはいえない、戦中は治安維持法にひっかかるような言動をみせ、執行猶予の判決をもらって、敗戦まで「京都新聞」に連載するコラムには転向者の姿が露わです。
戦後、それを裏返しにしたような左翼の立場をとり(多くの当時の左翼系知識人の類型です)、広島県知事選に民主陣営から推されて立候補、落選したあと新設される国会図書館の副館長に任命されます。この国会図書館副館長になった彼を、政府に身売りした知識人というようにいう人もいますが、ボクは、こうして敗戦の日本国家の図書館事業の中枢に身を置きながら思索していく中井に、彼の思想の高まりをみたいと思って『中井正一』を書きました。
そういうふうにみたとき、戦後の中井の生きかたとその思想過程から、現在という公式や教条で割り切ることのできない不透明な力関係の時代に投げ出されているわれわれにとって、いかに生きるか、考えるかという問題を刺激してくると思うわけです。二つの「言葉」は、その集約です。
状況を白紙にかえし、戻せる限り戻して(たたきつぶし、流れ新しくして)、みずからの手で再編していくことの大切さを切実に語っています。
と同時に「絵画の不安」の文体をみても判るように(11回のABCではかなり突っ込んで本文を読んでみました)、ヨーロッパ近代の美学を背景(教養体系)に、正に横の文字を縦にしたような日本語で美・芸術の状況を語ろうとしていた若い中井がそこにみえます。その後、敗戦直後の広島の農村青年とのつき合いを通して知識人が無意識の裡に傲慢に使っている言語がいかに大衆の言語とかけ離れ、彼らの思考回路とは別の回路を空転しているかを思い知らされます。
1951年52年の『美学入門』『日本の美』は、そういうアカデミックな「大学」の中だけで通じ合っている「美学」という学問を、人間の生き暮している現場と交流し合えるものにしようとした努力の成果(果実として成熟したかといえばまだだというしかない。実を育てる交配をしたという段階でしょうか)といえましょう。
それが『日本の美』からの言葉と『絵画の不安』からの言葉の問いに横たわっているものです。
|
中井の48年の文章、声に出して読んでいたら、何ともなく涙が出てきました。当日も参加したかったです。今度またぜひ資料をください。11日は実は横浜にいたのに、場所が定かでなく、行かれませんでした。岡倉もききたかった。。。
2006/2/13(月) 午後 5:42 [ kitaoka ]