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プルースト(その3)
(その2)に掲げた図表の≪「自己=人間」と「世界=宇宙・環境・社会」との関係からみた世界史的な「知」「芸術知」の構図≫は「自己」としての人間が、その人間をとりまく「世界」との関係をどう捉えているか、その変遷を図式化したもので、その関係のありかた・変遷に伴って芸術の歴史が捉えられるというものです。
全体の説明は省略し、ここでは「ロマン(長篇小説)」の成立と崩壊を中心にみておきます。
それまでは、「物語」だったものが「ロマン」になっていく時期があります。17世紀の初め、『ドン・キホーテ』(来週のテーマです)が、その魁の作品ともいえます。これは、遠近法(パースペクティブ)、活版印刷機械の発明と深い関係があります。この時期に「自己=人間」は、「世界」と対等の関係に立ちます。というより、「自己=人間」が、それまで導きの星としてそれにつつまれていることが幸せと考えていた「世界=神」と対峙し、自分の理性で把握しようとします。立場を逆転しょうとするわけです。こういう把握の姿勢は、世界を自分のものにするということです。それは、選ばれた一人の人間が捉えてみせた世界像ですが、選ばれて在る(天才)ということによって、それは「普遍的」な世界像となるのです。「自分」もの(個別的で特殊)であるが故に「普遍的」なのです(こういういいかたをしたのはヘーゲルでした)。
遠近法の発明によって、絵画の世界では、二次元の平面に一人の人間が捉えた世界(立体)の全体像を描きます。同じことが文学の世界で成立するのが、「ロマン」なのです。「ロマン」は、ひとつの宇宙です。そして、活版印刷機械は、この「ロマン」(ひとりの作者が掴まえた世界像)を一人ひとりの読者が持ち運びできる「モノ」にします。絵画が遠近法の発明を機に壁画からタブローへと変わっていくその変化と同じです。「タブロー」は、現在では額縁に入った絵というような意味、あるいはエスキスに対して完成された絵というような意味で理解されていますが、額縁に入ったというところにも含意されているように、タブローという語にはもともと「札」「板」「表」という意味があります。つまり、「持ち運び出来るモノ」という意味が奥底に隠れています。これがとても大事なところです。
世界と対等の位置に立つ「自己=人間」は、自分の掴まえた世界を持ち運び出来るものにしてしまったのです。ロマンも一冊の本として(書物という複数生産される宇宙・世界として)、持ち運びが出来るのです。しかし、タブローにはタブローの構築性(世界がその額縁=フレームの中に閉じ込められたものとしての)と法則性が不可欠であったように、ロマンも構築性と法則性を持たなければロマンではありえませんでした。そのためには作者は強靱な自己を保持していなければならない。
トルストイの『戦争と平和』は、ロマンの代表的な作品のひとつですが、あのなかで、トルストイはナポレオンがロシアを攻め、敗退していく場面を生き生きと描いています。その視線は「神」の眼です。そういう「眼」によって構築された世界がそこに描写される。
しかし、「自己=人間」の理性が世界を把握できるという自信は長続きしません。人間が本当に見、体験できたことだけを描写しなければリアリティをもてないという時代がやってきます。「自己=人間」対「世界」という関係意識は、「自己=主体」が「世界=客体・対象」を観察し把握する欲望によって支えられています。このとき、自己もまた客体に成らざるを得ません。ここから自己が主体でもあり客体でもあるという自己分裂を経験していくことになります。
プルーストは、いわばこういう自己分裂の時代の始まりを生きた人でした。そして「ロマン」では満足できない時代感性を先駆けた作品を書いたのでした。
ですから『失われた時を求めて』のでは、「壮大な人間ドラマ」というようなものは展開されない。当然この作品は、当時のフランス文学界でも厄介者扱いされていたのですが、まもなく、20世紀を代表する文学と称えられ、いまや、フランスでは「イギリスにシェークスピアがいるように、そしてドイツにゲーテがいるように、我がフランスにはプルーストがいる」と胸を張って語れるまでになりました。
シェークスピアやゲーテが古典の大家なら、プルーストは現代文学の地平を切り拓いた大家です。
プルーストから(そしてジェイムス・ジョイスから)、確固とした主体としての「自己=人間」が捉え切った世界像を綴り語る長篇小説=ロマンは過去のものとなってしまったのです。
とりいそぎ、そのプルーストの文学を支えている特質を列挙しておきます。
まず、「言葉」の問題。言葉・言語は文章となってなんらかの意味と像を伝えストーリーを形成していくのですが、プルーストの場合、「言葉」が「言葉」そのものとして、その意味から離れてもつ表現力に注目します。だから一字一句が念を入れて選ばれ書き直され、判りやすさを優先することにこだわらない、「言葉」「言語」そのものの美しさ、「言葉」自体が呼び込んでくる像を作り出そうとします。
今回の≪言葉≫として選んだこの二つのフレーズは、そのことを告げています。
作家にとっての文体(スタイル)は、画家にとっての色彩と同様に、技術(テクニック)の問題ではなくて、もののみかた(ヴィジョン)の問題なのである。文体とは、この世界がわれわれ一人びとりにいかに見えるかというその見えかたの質的相違を啓示すること、芸術が存在しなければそれぞれの永遠の秘密に終ってしまうであろうその相違を啓示することなのである。 (ちくま文庫 第十冊、 p.365-366)
私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡(光学器械)でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろう。 (同上、 p.608)
その書物を読んで、著者の文体とそれが繰り広げるドラマに圧倒的にひきこまれて我を忘れる、というのとはちがう。読者が作者の文体へ参加して、その作品を再構築するように読んでいく、そこに生まれる快感。プルーストが読者に差し出すのはそれです。
これは「言語」の担い手である「主体」の「客体」(対象)に対する結びつき・関係づけが、もう一義的な強さを持ち得なくなったから起こってくることなのですが、プルーストはそういう理性/理知に支えられた「主体」の働きを信用できなかったのでした。
人間というのは、「記憶」を貯めそれを操作する存在ですが、プルーストにとって「人間」を形成するのは、理知が呼び出す記憶(それは記憶ではなく「回想」である)に限界がある、意志の力ではどうしても呼び起こせない記憶が、人間を作っているので、その記憶は匂いとか触感とか、理性の及ばないところから来る刺激によって導かれ蘇ってくるものだといいます。
プルーストといえば「マドレーヌ」と連想するくらい、マドレーヌの挿話は有名ですが、パリの冬の夜、母親が出してくれた紅茶に添えてあったマドレーヌのひとかけをスプーンにのせ、紅茶に浸して口に入れてみたとたん、身震いするような感動に襲われ、この感覚はなんなのだろうと、同じ事をなんどもやってみるが、その感覚の謎は解けない。ああ、だめかと諦めかけたとき、突然、それは幼い頃、田舎で病気の叔母がティヨル(西洋菩提樹)の花のお茶に浸したマドレーヌをスプーンに載せて口へ入れてくれたあの感触だと気がついた。と、そのとたん、田舎のコンブレーの景色が、教会が、町を行く人びとの姿が、その全体像がありありと浮かんできた。??こうしてコンブレーの回想が綴られていくのですが、この無意志的回想と呼ぶべき心情の働きは、この長篇で随所に出てきて重要な役割を果し、長い作品の最後にも決定的な役割をします。
この長い長い作品は、巻頭「temps」(「タン」英語の「time」「時」)という語から始まり、最後の最後、dans le temps.(「時の中へ」)と「temps」で終ります。これも作品のメッセージ・テーマの上ではなんの重要性もないけれど、スタイル・ハーモニーの点では大いにたいせつな役割を演じるわけです。
これも「言葉」自体の美意識の問題というしかない。こうした言語感覚や形式感覚を研ぎ澄ますようにして作られた作品なのです。
これは、絵画のありかた、とくにプルーストの同時代に力を発揮しはじめた印象主義の絵画のありかたと深いところでつながっている表現思想です。
『失われた時を求めて』の中には、まるで印象派の絵のようだと嘆声を挙げたくなる風景描写や風物描写があちこちにあります。ぜひ読んで楽しんでください。(ちくま文庫第一分冊p190〜191、さんざしという平凡な花がくりひろげる豪華な官能の世界の記述、第二分冊p381からの列車の窓からみえる朝焼けの景色の描写など、みなさんご自身で味わってください)。
もっとすごいのは、彼はこの作品に架空の芸術家、小説家ベルゴット、音楽家ヴァントウイユ、画家エルスティールを登場させていることです。プルースト研究家はこのモデルを探し当てるのにやっきになっていますが、探し当てたから彼の文章が新たな輝きをみせるというものではないとボクは思います。
むしろ、架空の芸術家を登場させ、その作品をつぶさに描写する、この世のどこにもない作品(絵や音楽)を記述するその想像力と言語の力に酔いたいと思います。(まず、エルスティールの絵の描写を、ちくま文庫なら第三分冊p247から読んでください。)
もう一つ、プルーストが持っている重要な特質があります。それは「病」の視点から「人間=自己」対「世界」の関係をみつめる位相です。
彼自身、幼い頃から病気がちだったことも関連していると思いますが、彼は「人間」を精神的にも身体機能的にも完全な存在と認めない視点から世界と人間をみています。
(接吻の考察からその問題を書いているのを、ちくま文庫第五分冊p96からお読みください)。
人間をア・プリオリに不完全な存在、本来機能不備な動物とみなすということは、近代が完成させた「自己=人間」の拠りどころをいったん放擲(てき)することに等しい。
そういう孤独な地点に現代人は立っている/立たざるをえないし、そこから歩み始めてなにができるかと彼は考え、問いかけているのです。
この長い作品は、原著の第7巻、訳書のちくま文庫第十分冊「見出された時」の最後で、自分は小説を書こうと決意するところで終わります。
「時」という単語でもって円環構造を作っているのではなく、プロット(構成/筋立)が、こうして決意して書いたのが、いままで綴られ読んできたこの作品なのだという円環構造をつくっているわけです。ここにも「ロマン」を壊す方法意識が生まれています。
理論的には、人びとは地球が回転していることを知っている、しかし現実にはそれを眼に見はしない。人びとが歩む大地は動くとは思われず、人びとは静止の上に生きている。一生における<時間>に関してもまたその通りである。 (?ム1)
こんなプルーストの言葉が、この方法意識を支えているといえましょう。
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原著の第七篇(ちくま文庫第十分冊)などは「乱雑な清書ノート」しか遺されていないという意味でも、この長大な作品は未完なのですが、そういう表面上の問題でなく、この作品は作品のありかたとして未完であるといえます。「完全」という言葉、「作品」と「完成」の関連性の概念は「近代」の産物ですから、(コメント1へ)
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(プルースト・その3・つづき) それにたいする「未完」性というのが、また、現代の文学/芸術のありかたへ示唆を投げかけているわけです。そういう「未完としての完成」作品をプルーストは書いたのでした。
2006/3/9(木) 午前 8:53 [ kn_*e*hien ]