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敦煌莫高窟(その1)

5月13日 T=敦煌莫高窟(その1)

敦煌莫高窟は、敦煌という街(現在は「敦煌市」)はずれ、街から東南方向25km程離れたところにあります。南北に流れる大泉河という川があって、その川際に絶壁がそそり立っている。その絶壁に何百という石窟が穿たれ石窟寺院が建設されています、それが莫高窟です。(敦煌の街とは大泉川でつながっています。)
絶壁の上(莫高窟からいえば尾根に当るところ)から西へ、シルクロードの砂漠が始まります。小さい白い砂の砂漠で、毎日、風紋が姿を変えて拡がっています。ほんとに細かい小さい砂粒で、そこをボクはちょっと散策してみようと車椅子で乗りこんだら、前輪のベアリングに砂粒が入りこんで青ざめたことがあります。
莫高窟の壁はなべて東を向いております。つまり、石窟には朝日が差し込んでくるのです。午前中に石窟を訪れると自然の光に包まれた寺院の姿を体験できます。しかし、いまは、ここを「寺院」として、つまりここで祈りを捧げようとして訪ねる人は、いなくなりました。25年前、二度にわたって訪ねたボク自身、祈りを目的として訪ねたわけではなかったのです。
現在、この莫高窟を管理している敦煌研究院の方々は、どうなのでしょうか。なかに、きっとここを「寺」として護ろうとしている人がいるかもしれません。しかし、研究院の方々が書いている文章を読むかぎり、そういう人は発見できません。すべて「美術史」の研究対象としてこの莫高窟を見、測定し、分析する報告ばかりです。
4世紀の中ごろに、莫高窟は、開鑿された(註1)という記録がのこっていますから、4世紀から千数百年にわたって、この地方の祈りの場であった莫高窟は、20世紀に入ってからは、美術史の研究の対象となり、観光の対象となって保存されてきたということです。
                      ☆
(註1)のちに述べます、ポール・ペリオが1909年フランスへ持ち帰った大量の敦煌文書の中に「沙州地誌」(「沙州」というのは「敦煌」の旧名、「沙州」が「敦煌県」と名付けられこんにちに至るのは1760年以降です)には、「永和八年癸丑(きちゅう)の年」に創建されたと誌されています。「癸丑」は、東晉の永和九年(353A.D.)に当るので「八年」というのは「九年」の書き損じと考えたい。とすると、「沙州地誌」によると莫高窟の創建は西暦353年ということになります。
ほかに、莫高窟の14窟にあったという「大修李君重修仏龕碑」(「重修莫高窟仏龕碑」とも呼ばれてきている。これは唐の時代、聖暦元(698)年、李懐譲という人が建てた碑文です)には、楽ソン(「ソン」という字は人偏に尊です。ワードではでないのであしからず)と法良という僧が、前秦の建元2(366)年、ここにはじめて岩を穿ち龕像を掘り、伽藍を建てたと誌しています。これに従うと、莫高窟創建は西暦366年。しかし、前秦の建元年間のころ、敦煌地方は前秦領ではありませんでした。
この「建元」は前涼の「建元」(357−361)でなければ話が合わないという説があって、その計算で数えなおすと「敦煌」での「建元2年」は西暦358年です。
行脚の修行を続ける僧が、この莫高窟へ辿り着いて、霊的な体験を得、参籠の穴を穿ったのが始まりだったのでしょう。156窟の外壁に記された「莫高窟記」(咸通6[865]年記。現在文字はかすれてしまっていますが、写本が遺っている)は、14窟にあったという「重修莫高窟仏龕碑」を参考に書き改めたものといわれています。そこには、こんなふうにあります。
「莫高窟は、州の東南25里、三危(さんき)山の上にある。秦の建元時代、沙門(さもん)楽ソン(らくそん)、錫杖をついて修行の旅の末、この地に来た。そして、三危山を拝むと、金色の光が千仏の姿となって現われ、空にかかった。そこで、岩を穿ち、龕と像をつくった。つづいて、法良禅師が東からやってき、楽ソン師の龕のかたわらに一龕をつくった。伽藍が建ち出したのは、このふたりの僧からはじまる。」
三危山というのは莫高窟からみれば大泉河の向こうの東方にある山で、楽ソンや法良は、朝日が神々しく山の上に輝くのをみたのでしょう。太陽の姿はまだ現れないうちに、山の稜線にまぶしく光を放つようすは、まさに、莫高窟の並ぶ岩壁に佇つと拝めます。そして、おもむろに朝日が、石窟にさしこんで、壁画や塑でできた仏像を浮び上がらせます。
現在、この楽ソンや法良の時代の遺跡はのこっていません。最も古いと推定されるもので、北涼期(422ー439A.D.)です。
                     ☆
当時(25年前)もそうでしたが、観光化した現在では、懐中電灯で照らして仏像や壁画を断片的に見せているのでしょう。莫高窟はすっかり観光名所になってしまったわけです。
信仰の場から観光名所へ、莫高窟が変身するのは20世紀に入ってからです。
4世紀半ば、初めて仏龕が掘られたときから1500年、ここが信仰と祈りの場であったあいだは、じつは、莫高窟は人びとにはほとんど知られていませんでした。
敦煌莫高窟が人びと(中国、そして世界の人びと)の眼に晒されるようになるきっかけを開いたのは、近代ヨーロッパです。
19世紀の終り、ヨーロッパ諸国のあいだで急速に、東アジア・中央アジアへの関心が昂まり、探検隊が国家政府によって派遣されるようになります。
シルクロードの探検家の系譜をみていけば、最初にその冒険を企てたのは、ロシアのブルジェワルスキーですが、彼は1870ー73年、甘粛省・チベット・モンゴルを探検します。その後も第二次は1876ー77、第三次1879ー80、第四次1883ー85年と、天山山脈からロプ・ノール、ホータン、タクラマカンなど旅をしますが、ついに敦煌へは行きませんでした。
『さまよえる湖』(岩波文庫)で知られるデンマークのヘディンも五次にわたってシルクロードを探検します(第一次1893ー97、第二次1899ー1902、第三次1906ー08、第四次1913ー16)が、敦煌へは行きませんでした(のちものち、1934年9月やっと訪ねています)。
ドイツのル・コックもグリュンウェーデルと共に(分担して)1902年から5年へかけて二次にわたり、さらに1905年から07年、1913年ー19年とクチャやトルファンを中心に探検しています。その1905年の旅行のとき、敦煌で文書が見つかったという話を商人から耳にし、訪ねようとしました。折悪しく、引継隊長のグリュンウェーデルを出迎えねばならない事態になって、敦煌行きは断念したのでした(彼は、このときのことをのちのちまで悔しく思い出しています、『中央アジア発掘記』昭森社、のち『中央アジア秘宝発掘記』角川文庫と改題)。
敦煌に行って、そこに蔵われていた文書や絵画を、最初に買い取ってヨーロッパへ送ったのは、イギリスのオーレル・スタインで、1907年2月のことでした。
ヨーロッパ列強の中央アジアへの関心は、いうまでもなく世界制覇への帝国主義的野心に基づくものですが、学問(とりわけ歴史にかかわる学問)は、なべてこのヨーロッパ帝国主義の躍進と開拓のために身を捧げていたのです。
国際東洋学会というのが19世紀末に組織されます。その第13会大会は、ドイツのハンブルグで開かれましたが、そこで「中央アジア及び極東の歴史・考古学・民族学研究国際学会」が設立されました。そのとき、すでにそこで敦煌のことが報告されています。
スタインは、それを聴いて敦煌訪問への旅程を組んだのでした、彼にとっては第二次の中央アジア探検のときです。(スタインは三次にわたって旅行をしており、第一次は1900年ー01年、第二次が1906年ー08年、第三次は1913年ー16年です。あとの二回に敦煌を訪ねているのです)。
当時、莫高窟は、王円ロク(竹冠に「録」を書きます)という道士(仏教の僧侶とは言い難かったのでしょう)が守りをしていました。彼は、莫高窟近くに居を構え、誰に頼まれたというのでもなく、この莫高窟の管理をしていたのでしょう。
ただ守りをするというのではなく、お金が出来たら材料など買って(人も雇って)、崩れた壁画や塑像をこつこつと修復もしていたのです。彼がこの17窟(もちろんこういう番号はのちに敦煌文物研究所がつけたもので、われわれは便宜上これを使っているにすぎません。石窟に番号が付けられたときから、莫高窟は信仰の営みを剥奪されたのです)に経巻が埋まっているのを発見したのは、1900年5月(光緒26年6月25日)のことだったと伝えられています。
スタインは、この王道士と交渉して、大型馬蹄銀四個と引替えに、漢文文書50包、チベット語文書5包を手に入れます(王道士がこの窟をみつけてから10年目のことです。彼はそれまでにも経巻を少しずつ持ち出して金に換えていたでしょうが、こんなに大量に売ったのはこれが初めてだったでしょう)。スタインは、いったん引き上げたあと、四ヶ月後、最初に同行していた通訳の蒋孝ワン(王偏に「宛」)を、莫高窟へとって帰らせ、さらに230包程の文書を手に入れ、ロンドンへ送りました。これらの文書資料は、1909年1月ロンドン着、翌1910年6月公開されます。
1919年3月の第三次探検のときにも敦煌を訪ね数百巻に及ぶ教典を手に入れていますが、その経緯は彼の著書『中央アジア踏査記』(白水社)や『考古学探検家スタイン伝』(六興出版)などに書かれています。
彼の集めた美術品は『西域美術大英博物館スタイン・コレクション』全三巻(講談社)などで見ることができます。
スタインには、探検のたびにまとめた『古代コータン』、『砂に埋もれたコータンの遺跡』(第一次)、『セリンディア』、『キャセイ沙漠の廃墟』(第二次)、『内奧アジア』(第三次)などの著述もあります。
そのコレクションは、大英博物館(美術品)、大英図書館(文書)、ほかにニューデリーのインド博物館に収められています。
彼は、ヨーロッパにおける最初の敦煌文書発見者という栄誉を獲得しましたが、ついにこの厖大な文書が蔵われていた石窟(17窟、一般に「蔵経洞」と呼ばれています)の扉を開けてもらうことは叶いませんでした。王道士は、スタインを石窟へ招き入れなかったのです。
(つづく)

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はじめまして 記事が紹介でこのブログを知りました。興味があるのでやってきました。私は旅と歴史好きで、歴史のある土地を中心に世界のあちこち旅しています。私は子供の頃からシルクロードにあこがれていました。2005年に西安からトルコ・イスタンブールまで63日かけて、バス・ラクダ・馬で旅しました。その後引き続き、シルクロード各地を合わせて二百日間ほどひとり旅しました。そのときの人びとや文化、自然との出会いやふれあいの様子を継続的に写真とコメント紹介しています。よかったら訪問してみてください。

2009/4/19(日) 午後 1:56 [ moriizumi arao ]


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