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浮世又兵衛(その3)
辻氏の論で、もう一つ注目したいのは、「又兵衛工房説」です。又兵衛作と伝えられる作品の多くはその工房の作だと提起されています。そして、人物の実体としては全く手がかりはないけれど、いろいろな作品を比較して「画家A」というのがいたという仮説を立てておられるのです。又兵衛の手ともちがう、息子の勝重の筆ともちがう、もう一人の高弟の筆の手が認められるというのですね。作品を分析していく上で、とてもスリリングな推理です。仮定の画工を想定すること、そうしてまで「又兵衛」の筆と異なる存在を立てること――これは「工房」の実態をみつけるための貴重な手順といえるからです。
こうして「又兵衛工房」説は、いまやいろんな人が当然のように語るようになりました。これは、とてもいいことというか、当たり前のところに一歩ちかづいたなぁというのがボクの感想です。
絵というものは、とくに「日本」の歴史のなかでは、たいてい工房で作られています。もちろんそうでなくたった一人で下描きから完成まで描き上げるときもあるし、もっぱらそうしていた人もいます。しかし、雪舟ですらボクは一人で描いたと決めてかからない方がいいと思っています。規模はいろいろでも、手伝う人はいて、一つの絵を分担し仕上げるのは当然のことだったのです。極端な例では、酒井抱一が弟子の必庵に急ぎ注文の絵を描いてくれと頼んでいる手紙があります。抱一は出来上がったその絵に落款を押して、注文主に届け、世間では「酒井抱一作」として通っていくわけですね。
又兵衛の場合、そもそも亡くなった直後から「岩佐又兵衛」の名は伝説になっていましたから、その多彩で多様な(波乱含み)の画風をこなした画家を、「又兵衛」という棟梁のもとに組織された「工房」の仕事と考えようというのは説得力があります。しかし、ことさら「岩佐又兵衛」の作品だけを例外として「工房」作品と考えるのはよくないというのがボクの強調したいところです。
ある作品から、それを制作した「一人」の画家の「天才」を読みとり受けとって感心するというヨーロッパ式の「芸術」「美術」観が、ボクたちを呪縛してしまった結果、こんな展開になったといっていいのではないでしょうか。
一人の作家の仕事としてその作品をみると、そのとき「作品」を通過して「人」を感じているというか「人」に興味をもってしまうと「作品」を見ていないことも起ります。
昨日までみんなしてあんなにすばらしいと言い合っていたある作品が、贋作だと証明されたとたん、値打ちが下がり、所蔵主もそれを持っていないという顔をする、こういう出来事はいまではよくありますが、まさにこれは「作品不在」の現象といわざるをえません。
「作品不在」ということは、「作品」を前にして「作品」を見ていないということです。「作品」をしっかりと見て、その「作品」を評価する方法というのは現代ではむしろ崩れているのかもしれません。
もちろんこれは、「作品」に感動してそこから「作者」という「人」を考えてはいけないということではない、そういう作品を作る「作者」ってどんな人かいろいろ思いを巡らし、その「人」に憧憬を持ってもいいけれども、それを「実在」の「一人の人」に帰さなければ安心できないという、狭い実証主義の呪縛から自由でないと、ある「実在の」人が描いたからこの作品は信じられる(本物だ、だからすばらしい)という逆転した鑑賞法(美術作品への近づきかた)に囚われてしまうし、そういう逆転した美術観が現代は支配的ではないかということなのです。
「作品」をみて、その「作品」から読みとれること、考えること、評価できること出来ないこと等をきちんと語られる論理というか、手法を確立したいと思います。
そうすれば、「日本」の絵画(じつは絵画だけでなくすべての「美術品」がそうなんです)が、工房で作られていることが、そんなに問題にしなくてもいい「美術を見る眼」を、ボクたちが獲得できるでしょう。
そういう意味で辻惟雄氏の又兵衛工房説は、ようやく美術史学界で(じつは、これは骨董界でもこの「作家」の作か否かの「真贋」で品物の値打ちを決めるわけですから、この問題に関しては、両者の理論上の対立はなかったのですが)、「工房」の存在を認めて「作品」を考える扉が開かれたということがいえます。
一人の作家が、一つの作品を自分一人で全部作らなきゃいけないという考えは近代になって定着する考えで、近代以前の作家にこの基準をあてはめても意味がないということですね。こういう考えは岡倉あたりから定着していきます。その意味で岡倉は旧時代の骨董家の「美術」鑑識を西洋学問の「美術史」の方法でまとめようとした最初のひとだったということになります。
1900年の『稿本日本帝国美術略史』は岡倉の抱えていた骨董鑑識眼を大事にする眼を整理処分してしまいます。のちの美術史学者(瀧精一とか大村西崖とか)が岡倉を毛嫌いし排除しようとする事情も、こういう問題に戻してみると面白いです。明治40年、岡倉が東大で講義した「泰東巧藝史」は、骨董鑑識をベースにその材料を西洋学問(としての美術史)の方法で処理しようとした最後の議論でした。つまり、その後対立関係に入る両領域の近代的融合を測ろうとした試みなのでした。
辻惟雄の「岩佐又兵衛工房説」をきっかけに、新しい「美術史観」とその方法が育っていくことを願うばかりです。ある本に(悪口になるので著者の名前は伏せておきます)、「まことに意外で理解に苦しむのは、それほどに重要で威儀を正した制作ならば、常識的には下描きから彩色まですべてを××(人名)が一人で行ったとみるのが普通であるのだが、彩色はなんと△△なる弟子に任せている」など書いているのがあります。これは江戸美術の専門家が江戸美術について書いている一節で、著者は、「江戸美術」を前にしながら現代の(つまり、ヨーロッパの学問から習得した)美術の見方で、「江戸」を処理しようとしている。だから「常識的には」「普通である」なんて書きますが、「江戸」の人にとってはどっちが「常識」だったのでしょうか。こんな書きかたをしてしまうところに現代の「美術史学」のヨーロッパ美術史からしか学んでいない弱点が出ているということです。
「日本美術史」は、もういっぺん「岡倉覚三」と彼以前へもどって出直さないといけないようです。
藤懸説もそうですが、欧米の学説から身につけた方法論(もちろんその西洋の学問も当世勢力をもっているとその人が信じている学説の場合が多い)を公式のように使っていて、すべてをそれで推し量るというやりかたは、「歴史」の方法としては大いに問題があるのですが、美術史の研究家は、まだそのことに気が付いていないかのようです。
大切なのは、「歴史の中で思索すること」です。(日本の学者が欧米の当世流行の学説を鵜呑みにしてそれを尺度にしていると批判しているボクが、じつはいま「歴史の中で思索すること」というミッシェル・フーコーの言葉を引用しているのですから、これはお笑いです。これくらい欧米の思想と言説がわれわれのなかに滲み込んでいる証拠だといっておきますか。ボクもやっぱり<近代>の毒で育った一人です…で、ここで、欧米の知識人の言説を使わないで、もういっぺん同じことを考えてみましょう。)
藤懸静也教授は、「浮世絵」というのは「版画」の作品に限定すべきだと主張して、「肉筆」を「浮世絵」と呼ぶことをやめようとしました。こういうやりかたはいかにも精査な「概念限定」「定義づけ」をしているようで、「学問的」です。
たしかにそうすることによって、そうして定義され限定された世界の中で「秩序」や「法則」がはっきりしてくるかもしれません。しかし、そうすることによって研究者の立っている「現地点」から「歴史」を処理することはできても、すでに江戸時代にたとえば大田南畝が『浮世絵類考』なんて本を書いたときに「浮世絵」と書いてどんなもの(作品)を思い浮かべていたかという考えかたは無視し捨て去って平気でさえいるのです。
こういう「近代」の方法を許さなかった人として、Rの項でとりあげた幸田露伴を挙げておきましょう。近代学者の自分の「現代」を基準にしてすべてを枠づけ整理する不遜さは、ラスコーのときも大きな問題として取り上げましたが、露伴が大切にした「校勘」の方法は、つねにそのときの現場でそれがどんな息づかいをしていたかをみようと努力すること、その結果その現象に「名前」(定義づけ)を与えればいいというのです。
ほんとに、これは大切なことだと思います。
(つづく)
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こんにちは。
「大田南畝評伝」のようなもの書きました。
ご覧ください。
わくわく亭
2007/9/20(木) 午前 0:48