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《つづき》
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アルベルティは、そういう絵画はhistoria (ヒストリア)であるべきだといっています。ラテン語の historia は、フランス語の histoire (イストワール)、英語の history (ヒストリー)に当ります。フランス語の histoire などいまでも辞書を引くと「歴史」という意味のほかに「話」「物語」という意味があることが判ります。ですから、この histria は「歴史画」と訳すより「物語る絵画」とでも訳したほうがいい。(註2)一つの平面に封じ込められた「世界」は、その「世界」を物語っていなければならないのです。
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「光線」概念も現代の理解とちがっていて、むしろ幾何学で引く「線」という意味で使っています。「色」についても、現代の理解とまったくちがいます。黒と白は色ではないと彼はいいますが、それと、「四原色」論も深いつながりがある[つまり一つの哲学から産み出された考えだ]ということに気づいておきたい。「色」の現象を、彼は「自然」のありかたとの密接な関連のなかでとらえようとしている点です。物には色なんてないんだ、脳がそう判断してるだけだという説があるくらいの現代で、もういちどアルベルティの考えを検討してみることは大切かもしれません。
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『絵画論』では、アルベルティは、空間を数学[幾何学]の方法で説明したいと書いています[そしてそれは、この本の最大の成果だというのが後世の評価です]が、しかし、彼は、この本のなかでまったく図表とか数式とかを使っていません。後世の研究家はそこで、彼の言説をなんとか図式化しようとして、いろいろ試みています[その一端をペンギン・クラッシクスの英訳本からコピーして、当日はお配りしました]。けれども、これまでの諸家の試みは、完璧にその図式化に成功したとはいえないところがあるのです。それはなぜか、考えておきたいところです。現代のわれわれは、とにかく数式化できることを最高の表現[表明]だと考えがちですが、アルベルティの言説をパーフェクトに図式化できないのは、その言説が不備だからと断定していいのかという問題でもあります。逆に、むしろ、現代人は、彼らの散文をもはや完全に解読することができないところに来ていると考えたほうがいいのではないか。
現代の立場から、数式化しきれないから問題があると考えるまえに、あの時代は「数学」をもっと「散文」で考えようとしていたのではないかと考えてみたいということでもあります。数式化し図式化すれば理解が透明になると信じている現代人と対抗する考え方と表現力を、当時[つまりルネサンス初期]の人々は備えていた、それはどんなものだったのか、これはもっとよく見つめ探ってみたいところです。
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Book2の冒頭には、絵画という表現手段の高貴さ、それを創る画家という職業の尊さを説いていますし、Book3では、そういう画家はただ絵が上手だけではだめで、教養学問をしっかり身につけ他人の意見に耳を傾けることが大切だ、そうしてこそ優れた histria が創れると力説しています。この時期は「神」を「職人」と呼び、天地創造は神による最初の芸術作品だといい(フィチーノ)、「神は最大の画家である」(ブッツバッハ)と言った学者もいたり、「画家は神とその神が創り給うた世界を描く」というので、最も尊敬すべき地位を獲得しようとした時代です。
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アルベルティの理論は、画家を工人から人文学者の地位へひきあげるのに大いに役立ったことは確かです。遠近法は、理性を最大武器として神と世界を把握する「人間」の誕生に不可欠の思想だったのです。神を把握する=理解する、ということは、すでに、神と対決関係にあるということにほかならないのですが[ルネッサンス人はそこまで気づいていなかったけれど]、こうして自分[=人間]を取り囲む世界[=神の被造物]を、人間は自分の力でとらえられるという自信を持つようになるのです。そのとき、人々の生きかたは、「幸福」を求めることから「自由」を求めることへと転換したことも見落してはいけないと思います。アルベルティは、「幸福」から「自由」へと人間の根源的な欲望が転換する分岐点に立つ人でもあったのです。
分岐点に立つ人として、現代のわれわれの生きかたに大きな影響力を持つと同時に、彼の裡には、さきほどの散文と数式の例からも示唆されるような、すべて近代・現代へと汲み上げられなかった思想もあったことも、分岐点の人だからこそ、よく見つめたいと思います。
<4>
現在のわれわれが「美しい」と感じるもの―その判断は、自分が自分の好みと自分自身が蓄え磨いた教養、つまり「自分」の「判断」でやっていると誰しも思っているけれども、ほんとうにそうなのか。じつは、意外に自分で知らないうちに自分のものだと擦り込まれ操作されていたものではないのか、と疑ってみることは大切です。
アルベルティを考えることは、また、そんな問いかけへひとつの材料を提供してくれると思います。
ABCのAとして、まずアルベルティを採り上げましたが、それはAの頭文字を持っている人物だったということのほかに、彼が考えたことをもういちど現代のわれわれの位置から見つめ直すことによって[ということは、ボクにいわせると、もういちどその時代の「彼」の位置へわれわれがどれだけ戻って彼の言ったこと考えたことを考えられるかということでなければならないのですが(註3)]、現代のわれわれが抱えているいろいろな問題に光りを当て直してみることができる―それがこの「土曜の午後のABC」の集まりの隠れテーマでもあり―そういうふうに考えていく最初の一歩を提示してくれるに相応しい人物でした。なにしろ彼は、「近代」の「人間」のものの考え方の基本的な骨格を作ろうとした人だったといえるからです。彼が考えたことは、彼はローマとフィレンツェの周辺の人にだけ語りかけたつもりだったでしょうが、時を経て、ヨーロッパだけでなく、この地球上をおおいつくすほどの拡がりと威力を発揮していくからです。
ボクの「…ABC」も、これを発端に、いわば彼の投げかけた石の波紋を辿るように、問題を追いかけていこうと思っています。
註1)この考えは、当時つまり初期ルネサンスの神学者たちのあいだに起こってきた「人間の尊厳」[「神」をどのように認識するか、「神」に対して「人間」をどう位置づけるかという問い―そこから理性を持った人間こそ、その理性によって、神を認識できる、いわば「神の代理人」であるという考えが生まれてきます。このとき、「人間」は、「神」と対等の立場に立てたわけです。そういう「人間の尊厳」であって、現代でいう「人権」とか「人格の尊重」という概念はまだ成長していません]の認識[ニコラウス・クザーヌスとかマルシリオ・フィチーノとかピコ・デラ・ミランドラとかアルベルティの同時代の神学者がいっしょうけんめい議論しています]の拡まっていくことと軌/機を同じくしていることを見逃してはいけないでしょう。
註2)その意味では印象派と呼ばれる絵描きたちが登場するまで、「絵画」は「物語る絵画」でした。
註3)歴史を勉強するということの基本は、そこにあり、その意味で歴史を勉強することは現代を考え直すことに他ならないと思います。
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