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Y=尹東柱(Yun Dong Ju)その1
ユン・ドンジュ(尹東柱)は、朝鮮半島が日本の植民地になっていた最後の時代を生きた詩人です。
彼自身は朝鮮の解放をその眼で確かめることなく、福岡刑務所で獄死しました。治安維持法第五条違反の罪で、懲役2年の刑をいいわたされ、服役中に亡くなったのでした。日本の官憲に殺されたも同然の死にかたでした。
彼が生まれたのは1917年11月、現在は中国国内になる北朝鮮の北方、当時の呼びかたで間島(カンド)省、和龍(ファリョン)県、明東(ミョンドン)村に生まれました。北間島(ブッカンド)地方は、一種の開拓村で、東柱のお祖父さんとお父さんが移住してきたのでした。彼はそこで幼児洗礼を受けています。家族がカトリック教徒でした。明東村がカトリック教徒の村だったといっていい村のありかたをしていたようで、その村でお祖父さんは長老の役を果たしていました。
東柱が生まれる二ヶ月前に、同じ明東村で、従兄弟の宋夢奎(ソン・モンギュ)が生まれています。宋夢奎の名前は、尹東柱の短い生涯に大きな役割を果たした人物として記録しておく必要があります。
なお、この1917年7月、間島地方における韓人に対する警察権が、中国から日本へ移管されています。尹東柱は、朝鮮半島における日本官憲の権力強化の一つの節目に生を享けたという意味で、なにか象徴的です。
8歳のとき、明東小学校に入学します。その年、日本で治安維持法が公布されました。
彼の年表などを読んでいますと、このころ(1920年)創刊された児童雑誌『こどもの生活』などを購読していたと誌されています。家庭の知的な雰囲気に包まれた環境、彼自身の10代最初の頃の関心のありかたなどを特定しようというのでしょう。幼いときから、知的で内省的な子供だったということでしょうか。従兄弟の宋夢奎が後で触れることになるように、行動的でおそらく激情的な性格だったので、よけいその対立的な構図をつくってみたいという伝記作者の願いもあるのでしょう。
ABCの当日は、略年譜を配布しました。それをここに再掲します。つぶさに読んでいただくと、彼の生涯のアウトラインが浮かんでくるはずです。
17歳のときに書いた詩のタイトルなど、いくつかの詩作品のタイトルを挙げていますが、17歳のは、おそらく彼の最初の作品として遺っているもの、そのほか最初に同人誌に載っけた作(と思われるもの)、公共の雑誌に載った最初の作品など、タイトルを挙げておきました。ここに挙がっているものは最後にブログの付録にします。金柔政訳「尹東柱抄」(もちろん当日お配りしました)に入っておりますので、読んで下さい。
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尹東柱略年譜
1917 11 30 間島(カンド)省和龍(ファリョン)県明東村に生れる。戸籍は1918年生。幼児洗礼を受ける。
09 28 従兄弟宋夢奎(ソンモンギュ)誕生。07 間島地方の韓人に対する警察権が中国官憲から日本官憲へ移管。
1919 03 01 独立運動。 03 13龍井(ヨンジョン)で独立運動宣言大会。
1928 12 (6歳)妹恵媛(ヘウオク)誕生。
1925 04 04 (8歳)明東小学校入学。O5 08 治安維持法公布。
1927 12 (10歳)弟一柱(イルジュ)誕生。1928〜30『こどもの生活』(1926〜44.1)など購読。
1931 03 15 (14歳)明東小卒、大拉子(ターラーズ)の中国人小学校6学年編入学。
1932 04 (15歳)龍井の恩真中学校入学(宋夢奎とともに)。03 満州帝国建国宣言。
1933 04 (16歳)弟光柱(クワンジュ)誕生。11 朝鮮語学会、ハングル綴字法統一案発表。
1934 12 24 (17歳)「生と死」「蝋燭一本」「明日はない」
1935 09 01 (18歳)平壌の崇実中学校3学年編入。「空想」(『崇実活泉(ユンシルファルチョン)』15号)。
宋夢奎は4月頃家出、南京で独立運動に参加、翌年帰郷逮捕。要視察人となる。
1936 03 末 (19歳)崇実中、神社参拝問題により廃校、光明学園中学部4年編入。
「ひよこ」「ほうき」(『カトリック少年』11、12月号)。
1937 (20歳)「しょうべんたれの地図」「なにをくってくらす」「うそ」(同1、3,10月)。
進学問題で父と対立。祖父の仲介で文系を選ぶ。
1938 02 17 (21歳)光明中卒。04 09延禧(ヨンヒ)専門学校入学(宋夢奎も一緒)。
02 朝鮮陸軍志願兵令公布。 03 朝鮮教育令改定、中学校の朝鮮語教育廃止。
1939 (22歳)「月を射る」(散文)「遺言」「弟の印象画」(詩)(『朝鮮日報』学生欄)。
11 創氏改名令公布、1940 2 11 施行。
1941 12 17 (24歳)戦時学生短縮により延禧専門学校4学年を3ヶ月繰上げ卒業。
「天(そら)と風と星と詩」自費出版の試み。平沼と改姓。
1942 01 24 (25歳)「懺悔録」。日本へ発つ前の一ヶ月半を故郷で過ごす。
04 02 立教大学英文科入学。4〜6「やすやすと書けた詩」他。夏休み帰郷。
10 01 同志社大学英文科入学。 08朝鮮総督府、延禧専門学校を接収、日本人校長を置く。
1943 07 14 (26歳)逮捕。(07 10宋夢奎逮捕。)12 06 検察送り。03 朝鮮に徴兵令公布、08施行。
1944 04 13 (27歳)治安維持法第5条違反の罪により懲役二年の刑。福岡刑務所へ。
01、前年10月実施の朝鮮学徒兵制により韓人学徒兵入営始まる。04 総督府、学徒動員体制確立。
1945 02 18 福岡刑務所内で死去。
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尹東柱は、21歳になる年、明東村を出てソウル(当時は日本の朝鮮総督府によって京城と名付けられていました)へ出てきます。延禧(ヨンヒ)専門学校に入学します。進学問題でお父さんと争った末に獲得した文学へ道を進むのですが、このとき同時に従兄弟の宋夢奎も延禧専門学校に入っています。
宋夢奎は尹東柱と一緒に育った兄弟のような間柄ですが、性格、感受性はずいぶんと対照的だったようで、略年譜にも期しておきましたが、宋夢奎は18歳のとき家を飛び出し、南京(ナンキン)へ行って中国の独立運動に参加していたようです。返ってきたところを逮捕され、「要視察」の身分になっています。おそらくその後も(もちろんそれまでにも)、朝鮮のおかれている情況やなにをなすべきかなどについて東柱のといろいろ議論したことでしょう。宋夢奎は尹東柱の生涯に、その生活に影のように連れ添っています。もし、宋夢奎がこんなふうに尹東柱のかたわらにいなかったならが、尹東柱の治安維持法違反による逮捕はなかったかもしれません。
それほど、夢奎は東柱の傍にいたのですが、それにしては、東柱の遺した詩や文章に政治的なメッセージがないのは不思議なくらいです。
尹東柱が遺したもの、それは詩だけだったといっていい(ほんの少し文章がありますが、それも散文詩といっていいような短い詩的な文章ですから)。その詩はハングルで書かれています。1938年3月、すでに植民地朝鮮での中学校の朝鮮語(母国語)教育は朝鮮総督府によって禁止・廃止され、翌年には「創氏改名令」が公布され、朝鮮の人たちは朝鮮という土地に生まれ住んでいながら日本語で読み書きし日本式の姓を名乗らされ、日本語の発音で姓を名乗らなければならなくなっていました(尹東柱は平沼東柱と名乗ります)。ハングルで、授業をやり文章を公表すれば、日本軍の憲兵がやってきて引っ立てていく情況におかれたのです。
そんななかで、ハングルで詩を綴るということは、きわめて危険なことですが、詩自体に直接反日本支配へのメッセージを籠めたものはありません。尹東柱が遺したものは詩だけだった、というとき、その詩は叙情詩だけだったといいかえることができます。
彼の遺したものといえば、ほかに蔵書があります。日本語の本で、当時の昭和十年代の哲学、キルケゴールとか(ゴッホの伝記や画集ももっていました)、堀辰雄、三好達治ら四季派の詩集、その堀や三好の背景だったフランシス・ジャムやリルケの訳詩集などありますが、マルクス・レーニン主義関係の本はありません。(つづく)
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