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尹東柱(その4)

尹東柱(その4)
 「序」の詩の日本語訳で最もやっかいな問題があるのは最後の一行、伊吹郷訳で「今宵も星が風に吹き晒される」となっているところです。比較するために、他の伊吹以降の6人の方々の訳を(先に引用していますので重複しますが)以下にご紹介します。

死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今宵も星が風に吹き晒される。
            (伊吹郷訳)1984


死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥もないことを
葉群れにそよぐ風にも
私は心を痛めた。
星をうたう心で
すべての死んでいくものを愛さねば
そして私に与えられた道を
歩んでいかねば。

今宵も星が風にこすられる。
          (森田進訳)1995、2005


死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥なきことを、
葉かげにそよぐ風にも
わたしは心苦しんだ。
星をうたう心で
すべて死にいくものを愛さなくては
そして わたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今夜もまた 星が風に吹きさらされる。
          (宇治郷毅訳)1995


息絶える日まで天(そら)を仰ぎ
一点の恥の無きことを、
木の葉にそよぐ風にも
私は心痛めた。
星を詠う心で
全ての死に行くものを愛さねば
そして私に与えられた道を
歩み行かねばならない。

今夜も星が風に擦れている。
          (上野 潤訳)1998


死ぬ日まで 天(そら)を仰ぎ
一点の恥ずることなきを、
葉あいを 縫いそよぐ風にも
わたしは 心痛めた。
星を うたう心で
すべて 死にゆくものたちを愛(いとお)しまねば
そして わたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今宵も 星が 風に???むせび泣く。
          (尹東柱詩碑建立委員会訳)1997


死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを
葉あいにおきる風にすら
私は思いわずらった。
星を歌う心で
すべての絶え入るものをいとおしまねば
そして私に与えられた道を
歩いていかねば。

今夜も星が 風にかすれて泣いている。
          (金時鐘訳)2004

 議論をこの最終行に限って各訳を比べてみましょう。「今宵」(伊吹、森田、委員会)と「今夜」(宇治郷、上野、金時鐘)のちがいは、議論するほどのことでもないでしょう。

(1)「吹き晒される」伊吹訳、宇治郷訳
(2)「こすられる」森田訳
(3)「擦れている」上野訳
(4)「――――むせび泣く」委員会訳

 一つの原語がこんなにいろんな日本語になるのです。それ自体この語のすばらしさを証明している(一つの言葉でじつに多様な輻輳したイメージとメッセージを伝えている)のですが、この元の言葉は、仮名にしてみると「スチウンダ」と書けるでしょう。その原形は「スチダ」で原意は、
1.すれすれに通り過ぎる。かすれる。触れる。擦(こす)れる。たとえば、枯葉の擦れる音。そこから「袖が振れる」という意味も帯び、仏教で「縁がある」という意味で使われるそうです。次に、
2.かすめる(銃弾が耳元を「かすめる」)。よぎる(考えが「よぎる」など)
という意味もあります。
 森田訳はその意味でいちばんすなおな訳だと評価できます。ただ、「スチウンダ」ということばの持っている多様性を、「こすれる」という日本語は持っていないので、原詩の輻輳した響きが伝えられないという問題がのこります。
 上野訳も同様で、日本語だけを読んでどんなイメージが作れるのか読者は迷ってしまいます。「迷わせる」のと「多義的」とは決定的にちがいます。
 伊吹訳、宇治郷訳の「吹き晒される」「吹きさらされる」は、森田訳の方法と逆の方向から日本語にしようとした成果といえます。つまり、この詩の作者、尹東柱という人とその生涯などのことをあらかじめ頭に入れて、そういう詩人にふさわしい意味を、この多義的な一語から掘り出そうとして選んだ日本語といえます。伊吹さんは一貫してそういう訳をしていて、それが「生きとし生けるもの」という誤訳にまで踏みはずしてしまったのですが、宇治郷氏はもう少し冷静にこの詩を読みながら、尹東柱の気持ちを汲みとろうとして「吹きさらされる」を選んだのでしょう。
 でも、ボクにはやっぱり、この日本語訳は尹東柱の「悲劇性」を少し誇張しすぎるような気がします。
あと二つの訳、委員会の「――――むせび泣く」は、意訳というより、原詩にないダッシュまで入れて、原意からはずれすぎているどころか、思い入れたっぷりの自分好みの訳で満足しているというふうです。でも、こんなふうに訳したいという人たちがいる(尹東柱にについてそんなふうな気持ちと考えで向き合っている人たちが、こうして一冊の本になるくらいいる)ということは忘れてはいけないことでしょう。
 金時鐘は在日歴のとても長い詩人で、その厳しい生きかたをボクは尊敬しつづけていますが、「今宵も星が 風にかすれて泣いている」は、ちょっとオーヴァーランかなと思います。「風と星がかすれる」という表現へ、金時鐘さんが「かすれる(スチウンダ)」という語にご自身のイメージをかぶせられた気配があります。たしかに「ウンダ」という語だけだと「泣く」と意味があることも働いているでしょう。
 ボクは、ハングルは出来ない、ただ尹東柱を読むために少し勉強しただけで(ボルヘスを読みたいためにスペイン語をやったようなこともありました)、ボクの横国時代の最後の学生(大学院生)の一人、金柔政にいろいろ教えてもらってこんなことを書いています。
 それと、韓国語の勉強に関してはもう一人、王信英さんというソウルの大学で日本語と日本文学を教えておられる方が、10年前、こちらに来ておられたとき、いろいろ議論したり教えてもらったことも忘れずに記しておかねばなりません。王さんは、尹東柱の研究家でもあり、尹家にのこる東柱の手稿を全部整理してその写真版を刊行されています(日本の留学が終わったあと)。
 この本はすごく役に立ちます。というのも、尹東柱の詩は方言が強く、ちょっと間違いではと思う表現を(わざとそうしていると思うけれど子供っぽい表現や、明東地方の方言、今となっては古くなった言い回しなど)しており、手稿をみると、そういうところを、鉛筆で直してあります。それが明らかに尹東柱とはちがう手です。たぶん、刊行に当って、手を入れた人がいたのでしょう。
 その他人の手で直された方が出版物には掲載されてきたので、〈生の〉尹東柱を知りたいと思うとき、この写真版は欠かせません。王さんからこれを送ってもらって、ボクももういちど尹東柱の詩と向き直すことができました。
 そんなこんなで王さんとは、とくにこの最後の一行について議論し、教えてもらったことを思い出します。その後、横国大でも尹東柱について話をして、金柔政が修論でとり上げることになって、そこでも議論しました。その金柔政の訳をつぎに掲げておきましょう。

死ぬ日まで天(そら)を仰ぎ
一点の恥のないことを、
一枚の葉にそよぐ風にも
ぼくは心を痛めた。
星をうたう心で
すべての死んでゆくものを愛さなくちゃ
そしてぼくに与えられた道を
歩んでいかねば。

今夜も星が風にそっと触れてゐる。
          (金柔政2006)

 これは、日本語訳最新版でもあるし、そこにいたるまでにボクもいろいろ口を出しているので、ともかくはこれを決定訳としたいのですが、みなさんいかがですか。「今夜も星が風にそっと触れてゐる」ところに旧仮名遣いの「ゐ」を使ってみたところにお気づきでしょうか、「愛さなくっちゃ」というような口語を使ったのも、原文にある口語風の表現を尊重してみたのです。一方で、たとえば「スチンダ」(「スチダ」の現在形)を「スチウンダ」としており、この「ウンダ」はちょっと古語風の響きがあるのです。
 こういったことを金柔政はいろいろ考慮してこんな訳にしています。この「ゐ」が気にかかるかもしれませんが、さっと読むときはいがいと気にならないし、全体の調子を壊さないので、ボクはこれはいいじゃないかと思っているのです。(つづく)


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