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網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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張彦遠(その1)

<土曜の午後のABC>          Z                            09 09 06

                 張彦遠 Zhang Yanyuan

<土曜の午後のABC>も、今日で第一期の最終回です。Zの回ですが、Zは、当初の予定通り<張彦遠>。その主著『歴代名画記』を取り上げたいと思います。先日、ブログのインフォメイションでお知らせしましたように、今日のサブテーマをつぎのように出して、話を進めていければと願っています。

  『歴代名画記』――作品のない美術史
   あるいは、作品がみられない/作品で実証できない美術史

こういういいかたをすると、そんな美術史は成立しえないのではないか、美術史というのは作品があってこそ可能なのだ、とまなじりをつりあげて怒る人がいるにちがいありません。それは、まさに「美術史」の専門的な教養を身につけた人ならではの発言といえます。まず作品があって、その作品を味わい、分析するところから「美術史」は始まる、作品のないところに「美術史」はありえない。――それは、そのとおりです。
しかし、そういう「美術史」という学問は、近代に入って誕生した、人類史の長い歴史のなかでは、極めて若い人文科学の一分野です。そういう情況と歴史を担った学問の方法意識に、「美術史」ととりくむ人間はいやおうなく且つ無意識のうちに呪縛されています。「作品のない美術史など成立し得ない」と怒るひとの頭脳は、そういうふうに呪縛されていることに無自覚で、現在の自分たちの会得している方法と概念に頼り切っている発言であることに気づいて欲しいと思います。
さらにいえば、そういう近代の学問の方法と概念から自由になった「美術史」は可能か、と思いを馳せてみることを、現代の「美術史」に関心を持っている人たちに呼びかけてみたいと思い、こんなテーマを立ててみました。
作品がまずあって、それを検証することから学としての「美術史」は始まるというとき、眼に見、見た=観察したという方法を基礎に、分析実証された事象の実例と論理を構築して「歴史」は書かれねばならない、これが「歴史」を記述することの根源的な方法であるという信念がその発言を支えています。しかし、この信念は意外にもろく裏切られます。手元にある実例を充分に吟味し調査分析して組み立てられたある歴史上の「事実」が、たった一つの新しい「事象」の発見のためにすっかり書き換えられねばならなくなる、というようなことはよくあります。書き換えられるということは、いま、自分たちが普遍的に共有していることと信じていた「事実」と「概念」が崩れるということです。僅か一つの新事実の発見でそういうことが起りうるのです。それは、いま、「普遍的な真理を語っている」と思っている「美術史」にもいつ振りかかかってくるかもしれない問題です。
とくに古い時代の歴史については、眼にし得る事象(作品)だけでは<歴史>にならないと心得て「美術史」に取り組むべきだといえます。いつ、どこから、せっかく組み上げた論理を裏切るような「新事実」が発掘されるか、わかりません。それでも、われわれは、<いま>の時点で<美術史>を語らねばならない。現在手にし得た史料(事実)でもって、考えられ得る事柄を、責任をもって語らねばならないのですが、そのとき、いま、自分が語っていることを、少なくとも、<近代の呪縛>に埋没し安住しているところから、ちょっと身をずらした姿勢で<美術史>を考えることができれば、「美術史」はもっと豊かになると思います。(これは、すべての「学問」についていえることでしょうけど…。冥王星が惑星の一員から外されたということで、このあいだはマスコミが大騒ぎしていましたが、そんなに騒ぐことはないない、13番目の惑星といわれようといわれまいと、その星――自分で光を発光できないで輝いている星――は、太陽の周りを回り続け、その質量の構成にはなんの変化も及びません。
だから、われわれに必要なのは、作品がみられなければ美術史を書けない、考えられないという立場から、自身(美術史を考える者)を解放することであります。そのとき、「作品のない美術史」の意義が浮上します。
「作品のない美術史」とうのは、作品を実見できないけれど、その作品について記述された言説を読んで美術史を考えることです。書かれた文字からだけで作品を想像復元することといいなおしてもいい。これは、同時に、そういう見ることのできない作品がある時代のある人間によってどう語られているかを考えることにほかなりません。
じつは、われわれは、ついうっかりそのことを忘れていますが、眼に見える作品による美術史(現行の美術史です)を読みながら、じつはたいていの場合、いまや見ることの出来ない作品について書かれた言説を読んでいるのとほとんど変らない読みかたをしています。「見える」という安心感に支えられて、じつは、ほんとうは「見て」いない。「見える」ことができるということで、逆に「見る」ことを放棄している、あるいは怠けて平気でいられる――これが、現代です。
その意味で、「作品のない美術史」を考えるとことは、現在という情況のなかで<美術史>を考えるときとても重要であり役に立つはずです。われわれはいつでも、作品が見える状況にいても、作品が見えない位置で美術史を読み、美術史を活動させているのですから。それを、しらずしらずのうちにやっているのですから、そのことにもっと自覚的にならなければ、ということです。そうすることによって、現状よりはるかに批判的な、豊かな<美術史>を手に入れることができるにちがいありません。
(つづく)


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