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B.蕪村(1716−1783)
1.
蕪村が亡くなったのは、天明3年(1783)で、それから江戸時代はまだ85年続き、そのあいだ「蕪村」という存在は、どちらかといえば、そんなに大きいものではなかったようです。
近代の短歌や俳句の革新運動のさなか、新しい俳句をもとめて昔の句集を読んでいた正岡子規が、なかなか面白い句をつくるのがいるが、みると「蕪村」と名乗っている、蕪村の句集を探そうといいだしたのが、蕪村再評価・再発見のはじまりといっていいでしょう。
その「子規一派」の蕪村評価は、子規のつぎに新しい蕪村発見者である萩原朔太郎にいわせると、「印象的」「主知的」「技巧的」「絵画的」な特質の俳人で、芭蕉を人生派の詩人とすれば、蕪村は叙景派の詩人だという評価だったというのでした。
朔太郎は、そういうアララギ派評価だけではいけない、蕪村は江戸時代にありながらはるかにモダニストで、しっかりとした自我を持った詩人だった、彼の詩=俳句の味わいは、その郷愁をうたいあげているところにある、と主張して、『郷愁の詩人與謝蕪村』(1935)を書きました。ボクも学生時代にこの本を読んで蕪村を好きになった記憶は鮮明です。
朔太郎を、近代に入っての第二の蕪村発見者とすると、第三は蕪村自筆句帳の発見でしょう。
蕪村は、日頃弟子たちに、自分の句集を編むなんて愚かなことをしちゃいけないといってたらしく、そんな記録も残されていたので、蕪村自選の句集などはないものとみんな思っていたのですが、じつはあったというのです。1970年代、山形県の本間美術館に所蔵された貼交屏風(はりまぜびょうぶ)はじつは蕪村の自選句集の原稿だったというのです。この発見者は、いま刊行中の蕪村全集を担当している尾形仂氏ですが、綿密な考証の結果、自筆句帳の姿が見えてき、そこから制作年の割り出しもできるようになって、蕪村研究は、大きな前進をみせたのです。自筆句帳の発見で、もう一つ面白いのは、蕪村は、自分の句に「合点(がってん)」というしるしを付けていたことです。この合点は、よく歌人や俳人がやっていることですが、近代に入って子規や朔太郎が褒め、われわれが蕪村の句といえばすぐ思い浮かべる「菜の花や月は東に日は西に」とか「月天心貧しき町を通りけり」などには合点をつけていないということです。
どんなのに「合点」を付けたかというと、「名月や露にぬれぬは露斗(ばかり)」とか「いざや寝ん元日は又翌(あす)の事」というのですね。
このことは、近代における蕪村発見がいかに「近代」のまなざしの下でなされたかを物語っています。
朔太郎は、蕪村が自分では合点をつけなかった(朔太郎自身はそのことを全く知らなかったわけですが)一句、たとえば「葱買うて枯木の中を帰りけり」についてこんなことを書いて讃えています。「枯木の中を通りながら、郊外の家に帰って行く人。そこには葱の煮える生活がある。貧苦、借金、女房、子供、小さな借家、冬空に凍える壁、洋燈、寂しい人生。しかしまた何という沁々とした人生だろう。古く、懐かしく、物の臭いの染みこんだ家。赤い火の燃える炉辺。台所に働く妻。父の帰りを待つ子供。そして葱の煮える生活!/この句の語る一つの詩情は、こうした人間生活の「侘び」を高調している。それは人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懐かしく愛しているのである。芭蕉の俳句も「侘び」がある。だが蕪村のポエジイするものは、一層人間生活の中に直接実感した名句である。」
「郊外」だとか「洋燈」だとか、朔太郎のイメージしている「炉辺」も、まったく蕪村の時代にはありえなかった。考証を重んじる研究家は、こういう解釈を許さないでしょう。でも、ボクは、一篇の詩から、こんなふうにイメージを拡げていけるところにこそ「芸術」を味わう醍醐味があると思うので、この朔太郎の解釈をとても捨て難いと思っています。
すばらしい作品というのは、つねに、作者の意図を超えたなにかをその作品に接する者に与えてくれるものです。
じつは、あとでも考えるように、実証的であろうとする態度を執るとき、逆に、その「実証」を支える概念が現代・近代の産物であって(この限りでは、現代の感性で江戸時代の作品を味わい尽そうとする朔太郎と作品に接する姿勢の構造はいっしょです)、一見明快に整理できているのだけれども、そのことによって、蕪村の時代の感じかたや考えかたから外れてしまっているばかりか、そういう感性や思想を生かせていない(朔太郎はどんなに逸脱しても、蕪村の詩を生かしています。そこが捨て難いところです)。そういう研究者であってはならないと自分を戒めて勉強してきました。
朔太郎の蕪村論に関して、もう少し付け加えておきたいことがあります。アララギ派式の蕪村観を批判した朔太郎は蕪村をどんな詩人と規定したか、です。彼は、蕪村をロマンティシズムに溢れた江戸時代には希有な近代的自我の持主で、そういう近代的な郷愁の詩人だったといっています。近代的な郷愁というのは、単に生まれ故郷が恋しいというだけでなく、近代の人間が喪失した魂の故郷への憧憬というものを持っているといういうことで、蕪村はそれをうたいつづけたというわけです。すべての句を郷愁に還元しようとする朔太郎解釈は、現代ではもう相手にされない感じですが、蕪村の代表作とされる「春風馬堤曲」(しゅんぷうばていのきょく)は、蕪村本人が友人への手紙で、「懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候」などと書いているものですから、この代表作の解釈にさいして、朔太郎効果は、現代でも働いているといえましょう。
それよりも、近代的な自我の持ち主、いいかえればその作品に(俳句にも絵画にも)彼の力強い自己表現を読もうという姿勢は、現代のほとんどすべての蕪村研究家の意識を支配しており、その意味では、「朔太郎=蕪村」観はまだ現代を支配しているといっていいかもしれません。
2
「春風馬堤曲」は、蕪村62歳(数え歳)のときの作品ですが、春風が吹く、大坂淀川沿いの堤を、藪入りでふるさとの毛馬村へ向かっていくひとりの女の、その彼女の気持をうたった小品です。女を描写するのではありません。女の自己表白を蕪村が叙しているというスタイルです。
いいかえれば、男の蕪村が若い女に成り変って一篇の詩をつくる。そこにはすでに虚構に遊ぶという蕪村の姿勢がはっきり出ていることを見ておきたい。女の人に成り変ってうたう詩というのは漢詩の閨情詩などでよく作られており、蕪村はその形式にのっとったといえばそれまでですが、しかし、そういうふうに詩を作りうたうことによって、蕪村の<自己>は二重三重に虚構の被膜にくるまれているわけです。もうひとつべつのいいかたをすれば、そういうスタイルを採ることによって、蕪村の<自己>は屈折して表現された詩句の彼方へ隠されているということです。
望郷の念にかられて作った詩だといっても、その故郷の風景を見、謡うのは、自分の眼、自分の声ではないようにしつらえている。他者つまり自分がつくった人物が見、謡っているのを自分は外からみている。そういう<自己>の多重化。それは、<自分>を露出させないで、単純な自己表象をしていないということであり、<自分>を他人の眼で見る姿勢から養う態度だといえましょう。
この姿勢は、蕪村の俳句にも絵にも見てとれるもので、その特質と意義を読みとることが蕪村論の大切な課題だといってもいいと思います。そういう姿勢は、どこから、なにゆえに育っていったか。それは、現代のわれわれにどんな意味とメッセージを与えてくれるか。同時にそのことによってどんな楽しみが、蕪村の作品を味わうときに与えられるか。
「春風馬堤曲」は、18首から成り立っている小詩篇ですが、その18首のうち、6首は発句体、つまり5・7・5からなる句。4首は漢詩体、五言絶句とよびたいのですが、平仄(ひょうそく)を厳密には踏んでいないので、五言漢詩と呼んでおきます。のこりの7首は漢詩読み下し句とでもいえばいいか、漢詩に仮名をつけて読んだ文章の形をそのまま書いていくというスタイルです。17首はこうして三種類のスタイルをこもごも並べながら、藪入りのため故郷毛馬村へ帰っていく途次の若い女の行動や観察振りを女自身が記述していく形式ですすみ、最後の一首だけ、漢文読み下し風片仮名混交文に蕪村の友人の発句を一句引用して、娘の表白というより、この詩篇を詠じてきた作者がひょいと顔を出して「終り」の幕が下りるという趣向をこらしている感じです。
詩篇全体には、音遊び、字句の尻取りなど、ことばの作品であることの面白さがいろいろあって、それを読んでいく楽しみもあるのですが、この作品を行を追って読んでいくのはまた別の機会とします。
漢詩のほかには、17文字の俳諧、31文字の短歌、あとは都々逸(どどいつ)とか端唄(はうた)とか、すべて少ない字数でひとまとめにした「歌」にするしかなかった時代、こんなふうに明治時代に入って登場する「新体詩」のような作品を蕪村はつくっていたというので、近代の眼から蕪村は清新な詩人として見つけ直されたのです。
もちろんそれはその通りでしょうが、ここで押さえておきたいのは、一つの詩篇をつくるのに、蕪村が発句体や漢詩体や漢詩読み下し体やと、いろんな詩体を使いこなそうとしていることです。先ほどの<自己>の虚構化と並べて、この作品から、ボクはここにいちばん注目しておきたいと思います。
ところで、この「春風馬堤の曲」。本篇に入る前に、その作品が出来た由来を書き添えていて、そこで蕪村は「自分はある日故郷の老人を訪ね、淀川を渡り毛馬村へ行こうとすると、たまたま帰省する若くなまめかしい女と一緒になった。相前後して行くこと「数里」、自然ことばを交すことにもなり、藪入りしようとしている娘のけなげな気持を、彼女に成り代って歌ににした」と書いています。
研究家によって、これ自体虚構で、このころ蕪村が故郷へ帰るはずがない、だいたい淀川を渡って毛馬村へ行く堤が「数里」も続くはずがないとか言われてきています。
なんらかの理由で、蕪村は、故郷の情景を歌いたかったのでしょう。その理由とはなにか。それを単に「郷愁」とだけいったのでは、説得力に欠ける。「故郷」に対しても、彼はまた複雑な屈折した思いを持っていたのではないか。
3
蕪村は最近出回っている本、画集でも俳句集でもいい、そういう本を見ますと、大坂郊外毛馬村で生まれたとあり、「村長クラス」の家柄の出のように書かれているのが普通です。そのころは「谷口」という姓だったのが、のちに40歳前後のころ、丹後の宮津へ移住し、そこで「與謝」と名乗るようになったというのも通説のように書かれています。
蕪村が亡くなったとき、弟子の几董(きとう)という人が「夜半翁終焉記」というのを書きました。「夜半翁」というのは蕪村の別号です。几董が書いた終焉の記は、じつは草稿と定稿がのこっていて、それを比べることができます。草稿には、「難波津(大阪港)の辺りちかき村長の家に」生まれと書いて、村長を消し「郷民」と直し、定稿ではその「郷民」も消して、「浪速にちかきあたりに生たちて」となっているのです。おそらく生前、蕪村は、弟子たちに「ワシは浪速の生れで姓は谷口というたが、京へ上る前に與謝に変えたんじゃ」とか言ってたのでしょう。しかし、当人が亡くなったあと、「事実」が明るみになって、村長の家はおろか、郷民でさえないことが判った。そういう過程がこの書き変えていくプロセスから推測できます。
では、それはなにを意味するのか。(つづく)
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面白いですね。
つづきを楽しみにしております。
2009/12/7(月) 午前 8:55 [ hara46 ]