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蕪村(つづき)
もう二つ史料を押えておきます。
一つは、毛馬村は、当時は「御領」といわれた幕府直轄の所領でした。名字帯刀を許されるのは庄屋だけで、庄屋は世襲制です。「谷口」や「谷」という姓は、旧幕時代の毛馬村には存在しません。
もう一つ。当時、大坂近郊の村にたくさんの奉公人(下女や下男)が丹後国からやってきたという古文書が残っているということです。
蕪村のお母さんは、この丹後の与謝村からやってきた奉公人のひとりではなかったか。そして、誰かに子供を産まされ、いや、ここはわざわざ悲劇的にしなくても、誰かと結ばれてでいいのです。その結ばれた相手も姓をもつことなどできない奉公人であり、蕪村はそんな両親の下に生れ育った。直系の弟子几董が、最初「村長の家に」生まれと書き、それを消しているので、蕪村はそのようなことを言ってたのでしょう。どうやら、村長=庄屋の家で育ったのかもしれない。母親は庄屋の下女だったのかもしれない。もともと姓などなかった。40歳のころ母の生地丹後へ行き、画工として、あるいは俳諧師として、母の生地名「與謝」を名乗った。
享保17年、日本列島の中部から近畿へ、いなごの被害による大飢饉が襲います。このとき、年貢も納められない農民がたくさん「非人」に転落していきます。年貢が納められなければ、田畑を捨てて、ともかく食えるところを求めて行かなければならない。あの大飢饉のときは、関東は豊作だったので、たくさんの人が西から東へと流れたといいます。蕪村そのとき17歳。たくさんの飢えた人にまじって江戸へ流れたと考えるのを否定する史料はなにもありません。
たいていの蕪村年譜は、「享保20年(20歳)この頃までに江戸に下る」とあるだけで、なぜ江戸へ下ったのか、それも「村長クラス」の家柄の子が、という理由を説明している研究書もありません。
小西愛之助『俳諧師蕪村・差別の中の青春』(明石書店1987)は、そういう定説化した通説に反論して、青年蕪村は享保17、8年ころ江戸へ流れた「非人」だったと史料で裏付けてみせる稀少な文献です。
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農地を捨てた農民は「宗門改帳」から籍を抜かれて、「貴・士・農・工・商・賤」の身分のその下の「非人」として扱われる。そんな若い蕪村。江戸へ出て宿もない流浪の暮しをしていても、志は捨てなかったのですね。そして、早野巴人(号は宋阿、1677−1742)に「予が孤独なるを拾ひたすけて」もらったと述懐している。「孤独」を「拾ひたすけ」られたのです。この語の意味も重い。そのとき、非人の身分から足を洗うことができた。
巴人には深い恩を感じていたと思います。のちのちまで、師の言葉を口にしています。絵のほうも独学とか言われてきていますが、師匠はいたはず。しかし、巴人ほど、蕪村にとってこころに滲みる人ではなかった(想像をたくましくしますが、のちに流派にこだわらない描きかたを敢えてするのなど、絵を教えてくれた人にはよい思い出をもっていなかったのかもしれない)のでしょう。
巴人が亡くなると、すぐに江戸を出ます。下総結城の同門の家に世話になったあと、芭蕉五十回忌の年、奥の細道の跡を訪ねる旅に出たようです。このとき、「蕪村」という号を名乗り、生涯これは大事にします。「蕪」はかぶらという意味と荒れたという意味があります。よくこの号を陶淵明の詩句から採ったと説明している本がありますが、もちろんそのことも踏まえて、「荒れた村」の出なのだ俺は、という思いがこもっていることを汲んでおきたいと思います。
「春風馬堤曲」は「懐旧やるかたなきよりうめき出したる実情」と蕪村がいうとき、その「やるかたなき」「うめき」は、とても屈折したものだったと読むべきでしょう。そう読むとき、この詩篇がさらに厚みを持ってよめるのも確かです。
蕪村は、40歳前後に上京し、丹後宮津へ行き、「與謝」という姓を名乗り、「とも」という名の女性を奥さんにして再び京へ出てきます。そのあと讃岐へ、画の仕事でもあったのか出かけ、しばらく滞在しますが、50歳になったあとは、もうずうっと京都で暮します。ほとんど、旅らしい旅をしません。蕪村は、若いころは放浪の旅をしましたが、後半生は旅の人ではありませんでした。
京都という土地は地方から入ってきた人をなかなか受け入れてくれないところがあって、蕪村もその思いをいくども味わったでしょうから、京都を第二の故郷とは考えていなかったと思います。それでも、京に住みつくように居座ります。四条烏丸東入ルから室町綾小路下ルへ、そして仏光寺烏丸西入ルへと、なんども家を変えていますが、ほんとうに落着くところはなかったのかもしれない。しかし、引越した先はすべて京の町のまんなか。人々の往き交う騒めきのただなかです。この辺に芭蕉を尊敬しながら芭蕉とはちがった生きかたをしようとする蕪村の意気地のようなものが感じられます。当時は、芭蕉の直系を看板にする蕉風俳諧師が全国あちこちにいて、いわば蕉門が幅を利かせていた時代でした。
蕪村は、そういう、たとえば鬼貫(おにつら、1661−1738)の「まことの外に俳諧なし」なんてことばに象徴されるような蕉風のまじめ振りに対して、あらためて「俳諧」のありかたを考え実現しようしていたようです。「はいかい物之草画」というような略筆の絵をものしはじめるのもそのころです。
蕪村は、俳句と絵をひとつの営みのなかでのそれぞれの現われとして、実践しようとしていたといえます。
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「夜色楼台図」という絵を蕪村が描いたのもそのころと推定できます。「横物」と呼んでいる横長の巻物風の絵を何本か試みているその一つですが、いろいろと蕪村の思いや試みが読みとれる絵です。それでいて、絵そのものは、見ていてうるさくなく、すっきりと且つじーんと感じる印象のなかへ観る者を沈めてくれます。
絵の右端に「夜色樓臺雪萬家」と賛が墨書され、「謝寅畫」(畫は画の旧字)と署名があります。「謝寅」は蕪村が60歳台に入ってよく使った画号です。
「夜色楼台雪万家」と旧字を新字に直しておきますが、これは「夜は楼台(家々のこと)を色どり、雪は万家(すべての家)にふる」と読みたいと思います。
胡粉(板甫牡蠣の殻を焼いて作った白い粉末。白の絵具として昔から使われてきた)を、画面に下塗りのように施し、その上に墨を刷き、空などその墨が乾かないうちにさらに濃い墨を落して、たらし込みの効果を出しています。そのたらし込みがすっかり乾かないうちに、胡粉を含ませた筆先をちょんちょんと置くように散らしたりして、雪片の舞い落ちるさまを描き出しています。このたらし込みは、宗達たちが得意とした技法です。
山も白く胡粉を山の峰にかたどって塗ったあと、墨で輪郭をとり、雪のかぶった山肌に仕上げています。その筆運びはいかにも南画風で勢いがあります。しかし、白を胡粉を塗って表すのは、文人画や水墨画の正統な技法ではない。文人画や水墨画では、白は紙や絹の地を塗らないままにしておくものです。
もちろん蕪村は、別の絵ではそういう描きのこしの方法で白を出していますが、この「夜色楼台」では胡粉をさかんに使っているのです。山の胡粉がしかっりと乾いてから、山裾のほうから這い上がるような影を薄墨で塗っています。これで、山頂の白い雪がいっそう映えきわだっています。雪をかぶった樹々は塗りのこした下地の胡粉の上に樹木の影を太く濃い墨でぐいと描きます。
山裾に拡がる家々は、薄墨の地の上に濃い墨で輪郭をとったあと、屋根は胡粉をひと刷け塗り、ところどころ屋根を描き加えたりして雪を載せた屋根が重なりあっている町を風景にしています。この絵の視点は、ちょっとふつうの家の二階の窓からでは無理ですから、これはもう想像力の産物です。
楼閣や家々の屋根の下に代赭(赤鉄鋼から作られた茶味を帯びた橙色の顔料)がさっと塗られ、灯の影が家々に映っているところを描いています。
この山並みと折り重なった屋根々々の組み合わせは、京都の東山連峰と山麓を思わせますが、山並みは実景よりはるかに凹凸が激しく、実景の東山を描くというより、蕪村は想像上の街(みやこ)を描こうとしたといったほうがいいのかもしれません。山に囲まれ雪が積もる町。その山や家の描線は、彼が手本にしただろう中国の手引書、清代の初め頃作られ、日本にもたらされ、文人画家たちに特に大切にされた『芥子園画伝』(かいしえんがでん)という本ですが、蕪村もそれを手に入れいっしょうけんめい写して練習したにちがいない、その本に出てくる山や家並みにいちばん近い姿です。
蕪村は、こんな万家に雪が降る京の町のなかにひっそりと暮していたのでしょうから、そういう意味では、この絵の中に蕪村は住んでいる。しかし、決して積もる雪の下、灯に囲まれた暖かな暮しではなかった。この絵から響くように出てくる一句は、「宿かさぬ火影や雪の家つづき」ではないでしょうか。
若い日、宿なしの彼に、誰も泊るところも貸さなかった、その苦渋を彼は忘れることはできないでしょう。とはいえ、彼は、その苦しさをうらみがましく吐き出したりはしない。さらりと、流して、一幅の絵に塗りあげ、素知らぬふうに眺め、他人といっしょに笑っている。これが、俳諧というものだ。
この絵に宗達風のたらし込みや『芥子園画伝』伝来の筆法を使っていることを指摘しておきましたが、彼は文人画としての絵を描くだけでなく、おおげさにいえば、いろんな流派の描法をなんでも真似し勉強し、自分のものにしようとしたようです。いま描いている絵は「北宗」風に「華人之筆意」でやっている」とか書いている手紙もあるし、じっさい彼の作品を見渡すと、さきほど言ったいろんな流派の筆法をそれぞれに試みているのが見えてきます。底にあるのは、もちろん、南画ですが。(「北宗」というのは漢画のことで、雪舟や狩野派が身につけた中国北宋画に代表されるような画風です。「北宗」とか「北画」とかいいました。それに対して、中国南方に起源があると考えられていた画風を「南画」「文人画」と呼びました。この南北二派はきびしい対立関係にあると当時の人は思っていました。で、蕪村はそんな情況のなかで、その両方、さらに大和絵のやりかたまでやってしおうとしたのです。)
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『春泥句集』という彼の友人で彼より先に死んだ俳人の遺稿集を出すとき、蕪村は序の筆をとり、こんなことを書いています。
召波(先に死んだ友人の号)が以前、私に尋ねたことがある、昔から俳諧の先生がそれぞれ自分の門を立てて、それぞれの風調の句を奨励しているが、いったいどれがその奥義をきわめているのだろうか、と。私はそれにはこう答えた、俳諧に門なんてないんだよ。もしあるとすれば「俳諧門」だけさ。あの画論(『芥子園画論』のこと)に言ってるだろう、「名家というものは門を立てたり分けたりしない、門は自からその中にある」と。このことばは俳諧にも通用するのさ。
俳諧は、俗語を使って俗を離れることを旨とする。そのためには、詩(漢詩)をうんと勉強することだ。俳諧と漢詩とはちがうって?そう、ちがうさ。ちがうから大切なんだ。画論にもいうだろう、「画を描くには俗を去らねばならぬ。多くの書を読めば、書に満ちている気が昇ってくる」と。漢詩と俳諧とは決して遠いものではないのさ。
先生に教わるのも大事だが、ちょっと逸れて林や庭や川に遊び、酒を酌んで談笑することも大切だよ。「句を得ることは専ら不用意を尊ぶ」のだ。
「不用意」というのは、ある一つの定まった門(道)に固執しないという意味、型にとらわらないということを、まず言っている。俗に住み俗のことばを使いながら、俗をはなれようとするにはそういう「不用意」が大切なんだと、蕪村は考えていたようです。(まだつづく)
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tbさせていただきましたよろしく
2008/1/30(水) 午前 9:27