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西行150308 報告
(一)
西行について書かれた本はじつにたくさんいっぱいあって、全部に眼を通すなんてとてもできないという感じなのですが、そのいくつかを読んでいて、その著者たちに共通している思い入れのようなものがあるのが気になっていました。
「西行」といえば、「漂泊の歌僧」「無常を生きた偉大な僧侶歌人」というのが無条件の前提になっている。誰もが、この前提から西行論を始めている。そういう意味では、西行という人はすごく神話化されているなぁということだけは否定できない。ほとんどの人が思いこんでいる「西行」像がある。そして、その「西行」像がそのままその著者たちの「西行」観を支えている。しかし、ほんとうのほんとうのところ、西行という人が平安末期の12世紀にいたのですが、その西行という人が、直かに書き遺したもの、置いて遺したものは、ホンのホンの少しです。ほとんどが伝承なのです。
そのくらい伝承として西行さんは偉大だ、ということは判ります。しかしなぜそんなに文句なしに偉大なのか、そんなに神話化されるようになったのか、ということは、すこしは考えておかねばと思います。
西行の肖像というのも、ありますが、これものちの時代に描かれたもので、それをしげしげ眺めてそこから西行の人間像や人柄を思い描くのは、まさに神話化を上塗りしているなにものでもないでしょう。
西行の筆跡も、真筆と現在考えられているものは、四点しかなく、そして、もの凄い数の「伝西行」筆があるのです。この「伝西行」がものすごくある、というところに神話化の謎がひそんでいるような気がしますが、西行の歌集も(今日お配りしたレジュメの1ページにちょっとあげておきましたが)、たしかに、西行自身が編集したといえるのは、晩年の「御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)」と「宮河歌合(みやがわうたあわせ)」だけといっていい。そのふたつも写本で、自筆本ではありません。歌集として、一番有名な『山家集』も、生前から西行自身がそういう集めかたをしていたように考えられていますが、確証はない。
レジュメの歌集のところをみてください。
「山家集」「聞書集」「山家心中集」「西行上人集」「別本山家集」と並べています。二番目の「聞書集」ですが、これなぞ、発見されたのが1929年(昭和4年)です。つまり、明治大正時代の人は、この聞書集に収めてある西行の歌のことは知らないで、西行を語っていたということです。
そして、注目しておきたいことは、山家集に入っている和歌(1552首)と聞書集に入っている和歌261首(+連歌二首/四句)と、全く重複しないのです。かれについての情報量はこんなに変化しているのに、「西行」につてのイメージは、芭蕉のころからそう変っていない、神話化された西行像はずうっと変わらないということは、どういうことなのか。
「残集」というのは「聞書残集」つまり、「聞書の残りの集」という意味で、25首、連歌7首(14句)入っていて、本来「聞書集」と一組だったのでしょう。
これは昔から宮内庁の書陵部に写本がありました。「山家集」と重複する歌が一首混じっています。
「山家心中集」というのは、「花月集」ともよばれていて、これは、伝西行自筆本というのがあります。藤原俊成の巻首の筆跡があり、西行の歌集の写本としては最も古いものです。西行と同時代の人の写本と考えればいいでしょう。(あえてこんないいかたをするのは、現在では西行自筆と誰もが呼べない「伝西行筆」本だからです。)これは、しかし、「雑下九首」以下が欠けていて、計291首。内閣文庫所蔵の写本(筆者不明)もあり、これも完本ではなく、316首。もうひとつ、妙法寺本というのが最近みつかって、これは冷泉為相の写しと伝えられ、これは完本で、360首を収めています。いくつか「山家集」と重複するけれど、もともとは西行から俊成へ贈った歌集だったと考えられています。しかし、「山家集」と「山家心中集」との成立事情に関する問題はまだ謎だらけ。
1906年(明治39年)紹介された「西行上人集」とのちに呼ばれる歌集があって、当時は「異本山家集」と名づけられ「西行法師集」などとも呼ばれていました・これには597首入っています。内容は、「山家集」とダブるものもありますが、ここにしかない歌もたくさんあります。この写本の後書によると、法勝寺に西行自筆の歌集があったが、観応二年(1351)法勝寺が火事になり、その自筆本も燃えてしまった、他の写本から書写したものが残っていたので、それをここに写す、というようなことが誌された古い写本です。
ほかに「別本山家集」というのも出て来て、江戸初期の写本といわれていますが、これは924首収めています。この写本が紹介されたのは、1955年(昭和30年)と比較的最近のことです。
ずいぶん時間をかけて西行の歌集の写本を紹介しましたが、要するに、自筆本がまったく遺っていないことを、あらためて認識しておきたいと思ったからです。ですから、たとえば、レジュメの西行略年譜をみていただきましょうか、その1151年(仁平元年)のところ。勅撰和歌集『詞花集』に初めて西行の歌が一首選ばれたということを誌しています。勅撰集というのは、天皇が指示して選ばせた精選歌集という意味です。「古今集」から始まってたくさんの勅撰和歌集が編集されていきます。これに選ばれるということは、とても名誉なことです。歌人にとっては、これ以上に威張れることはない、その選に、西行の一首が入ったのです。西行、数え年で34歳のときです。しかし、まだ、「よみびとしらず」として収録されていて、当時の西行の知名度が推し量れます。選ばれた歌は、「みをすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ」というのでした。これが、のちに「西行物語絵巻」にも紹介されています。絵巻の始めのほうの詞書にあるのですが、そこでは「み(身)」という文字が「世」に変っています。「世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ」です。
西行絵巻や西行物語は、西行が亡くなって後、つくられていくものですから、後世の人が「み」を「よ」に変えたとも考えられるし、西行自身がのちに変えたかもしれない。よく判らないけれど、ひとつの歌が二つのヴァージョンをもっていることだけは確かです。つまり。西行の歌の原文というのもこういう伝わり方をしてきたということです。
筆跡については、さきに申しましたが、真筆というのは、現在四点しかないのに、「伝西行筆」はいっぱいある。それだけ、西行は伝説化されている・神話化されているということなのです。この神話化は、かなり早くから行われてきました。レジュメの1ページ、歌集の下に、「伝著書」という項目を入れておきましたが、まさにこれは、「伝著書」なのです。おそらく、最初は、西行が書いていたものかもしれない、そうして、西行が集めておいたものが、のちに、西行が亡くなって、どういう人の手をとおってか解りませんが、集め直され、人びとに読まれるようになった本なのでしょう。『撰集抄』という表題も、いつ・だれが付けたのか、確定はできません。ただいえることは、これは西行が書いた本としてなが〜いあいだ言い伝えられてきたということだけです。
この撰集抄という本の主題というのは、旅をしているあいだに西行が聞き集めた話をまとめたもの、とまずいうことができます。それも、お寺へ入って修業してお坊さんになる人たちではなく、武士だったりした人たちが、ある日突然髻(もとどり)を切って出家し、乞食頭陀の身となって山中などに禅をくみ、ひたすら成仏を願う修行者たちの「発心、遁世、往生」の姿、そんな話がたくさん集めてあるのです。西行は、そういう遊行僧や放浪僧にとても興味をもっていたのですね。というよりも、彼自身、武士としてとても恵まれた境遇にいたのに、突然発心して頭を丸め(剃髪し)、草庵を結んで物乞いをし念仏を唱えて暮らす生きかたを選びます。ほかに、詩歌にまつわる説話もたくさんあり、自分と同類の生きかたをした人たちの話を、それも同時代の人たちの話を集めようとした本です、『撰集抄』は。ただ、この『撰集抄』には、西行自身の臨終の話も入っていたり、西行ならやるはずのないまちがいもあって、そんなことから、この本を西行の著書ではないとされてしまいました。明治に入ってからのことです。で、「歴史」を語ろうとする人はみんなこの本を避けます。『撰集抄』から引用して西行の言葉とすることはできないというわけですね。
西行がなくなったあと、いろんな人の手が加えられたものであることは確かでしょうが、だからといって、西行のものに非ずと決めていいかどうか。どこかに、西行の息はかかっているにちがいない。と、もういちど、考え読み直す必要がありますね。「伝西行」と考えられ長く伝わってきたこととの意味と重ね合わせて、そういう虚構のミルフィーユとでもいっていいもののなかに、「西行的なもの」がみつけられるのではないか、それこそが、神話の上塗りで自己満足している西行論??そういう西行論がとても多い、ある意味でこれらは、「西行信仰告白」です。??そういう信仰告白に陥らないで「西行」を考えていく、つまり今回のテーマ<「西行」の再検討>の課題のような気がします。<「西行」を再検討する>ということは、「西行神話」とはどんなものか、なぜ「西行」は神話化されずにはいられなかったのか、考えることだと思います。「西行神話」の形成史は、また別の仕事で、ここでは、それにはあまり深入りしないでおきます。むしろ、なぜ「西行」は神話化されずにはいられなかったのかを考えることによって、現代を生きるということはどういうことかを考える問題とにらみあわせることが出来ると思うのです。
もちろん、西行の実像を明らかにしようという問題にも、興味はありません。実像を明らかにしようとすればするほど、神話化された像に神話化を重ねるだけだということははっきりしていますから。
(つづく)
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