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網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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西行(その1−2)

西行150308 報告
(二)
さて、「西行」の実像については、判っていることよりわかっていないことのほうが多い、というより、判ったとして流布していることが現代のわれわれの「西行」像の前提をつくっているらしい、というところを、まず、お話しました。
そこで、いや、そんななかで、もしこれだけはまず、まちがいないと思われるところ(事実)をとりだすとしたら…それが、レジュメの略年譜です。
生まれは、元永元年西暦1118年です。誕生日は分かりません。よく、彼の家系のことを云々している人がいますが、家系については、疑っておいていいと思います。当時、上皇だった鳥羽院を守護する武士、それも下っ端の兵卒ではなく、もっと部下をなんにんも抱えた武将だったらしいので、財産もあり、それなりの家柄の息子であったでしょうが、平安時代の貴族との家系上のつながりを持ち出して、だから西行は…と展開するのは、そんな恵まれた人間が出家などして、とその出家という出来事を大げさに彩るだけで、「西行」という人を考える上では、なんにも意味をもたないでしょう。どんな家柄の出身であろうと、それで彼自身の生きかた・彼の歌の価値が変わるものではないし、それで変わるような歌なら、始めからつまらない歌です。
判っていることは、とにかく鳥羽上皇の御殿の北面を守護する武将だったらしく、18歳のときからその職に就いていたことが当時の史料から裏付けられ、それは1135年の事項として出しておきました。そして、つぎは、もう出家(1140年)です。
24歳の項(1141年)、「そのころ洛外に草庵を結ぶ」と記しましたが、嵯峨の辺り雨露を凌ぐ小屋を建てたか、そんな庵を見つけて住んでいたというのです。これは、山家集なんかにある西行の歌とかから推測してそうだろうというしかないのですが、とにかく出家してどこかの寺に入らず、しかも京のみやこからは離れようともしなかった。この二つの事実がここから読みとれるわけです。そして、この二つの事柄が、「西行的なもの」を浮びあがせらることに役立ってくれそうです。
撰集抄は、西行と同じような境遇の武士(もののふ)が、ある日突然この世の無常を知って、髻を切落し出家した話をたくさん集めてあるといましたが、撰集抄に出てくる人たちは、ほとんど、出家のあと、つまり「この世」を捨て、京(みやこ)を離れ、ひたすら「死」へむかっていく生きかたをしています。
出家した日から、物乞いも控え目に、野原や木の下で、禅定を組み、そういう僧をみつけた村の人が食べ物を持っていってあげ、それは感謝して食べるのでしょうが、そんな村人がある日食べ物を持っていってあげると、もう死に果てていた、そんな話ばかりなのです。こういう「この世」の捨てかたは、当時流行していました。流行していたといういいかたは変ですが、当時は天台浄土仏教が盛んで、異時同図法の日本篇でもお話しましたが、「この世」と「あの世」の考えかた感じかたが、現代のわれわれとは、まるっきりちがいます。ですから、この世は無常だと観得したら出家して、「あの世」へ行こうという生きかたのひとつのスタイルとして、こういう野ざらしになって朽ちていくというのが、パターン化されていたようです。
西行は、その流行の真似はしなかった、ということです。そして、寺にも属さず、すぐ朽ち果てていく方向も選ばず、僧服を着て、京の町を往き来していました。僧服を着ているということは「この世」のすべての制度から脱却しているという意味を自己表現しているので、たとえ、生きていていても異界に属する者として扱われていました。「西行物語絵巻」(次回ゆっくりみます)にもでてきますが、子供たちからは、気味悪がられ、大人からは、この世の社会のしきたりには縛られない特別扱いを許されていました。僧服を着ているということは、この世にいても、すでに異界(あの世)の人だったのですね。
西行は、この僧服を着ていることの世俗的な特権を利用しようとして出家した、ちょっと意地悪ないいかたをすると、そんな出家のしかたをします。当時、パターン化されていた「出家」のいずれにも属さない方向を選んだのです。
僧服を着ているということは、「この世」に属さないのですから、洛外に住んだのですが、洛中に出入りは自由にしています。京都は、北に一条通、南に十条通り、と十本の道が東西に走っていて、東の端は東大路(ひがしおおじ)、西は西大路(にしおおじ)、そのまんなかに大極殿につうじる朱雀大路といった道からなる碁盤目の条坊からできています。その碁盤目のなかが「洛中」で、伏見とか、嵯峨とか、北白川とか、嵐山、のちに光悦が住んだ鷹峯(たかがみね)とかは、「洛外」というわけです。こういう「洛中」「洛外」意識というのは、京都に住んでいる人にじつに長きにわたって染み込んでいたようで、ボクがこどものころ京都の伏見にいたことがありますが、この伏見になん世代かにわたって住んでいる人たちは、四条とか三条とかの都心部(繁華街)へいくとき、「ちょっと京都へ行ってくる」っていうんですね。ボクは、ここも(京都市伏見区ですから)「京都」やんか、とふしぎな疑問をもったことがあります。もっとも。西行の時代には、京のみやこを「洛」とよぶ慣わしはまだととのっていませんでしたが…
ちょっと脱線しました、略年譜にもどります。
1142年(康治元年)の項ですが、ときの内大臣藤原頼長のところへ、西行は、直接会いに行って、みなさんに「一品経」を詠んで勧進していただきますからよろしくお願いします、と言いに行っております。これは、頼長が、日記をつけていて(「台記」とよばれています)、そこに頼長自身が書き遺していますので、歴史的に裏付けがとれる出来事なのです。そのとき、頼長は、西行の年令をきくと25歳(もちろん数え年)とのこと、と誌しているので、ここから生年も判明するわけです。かつて北面の武士だった、というようなことも、頼長は誌しています。
それにしても、たとえかつて北面の錚々たる武士だったとしても、いまや出家の身。それでいて、内大臣に会っているなど、やはり、独特の位置を西行はとっていた/とれた人物だったということです。
西行が出家した理由として、むかしから二つがいわれてきています。一つは、院政の支配下にあって、血腥いこの世に嫌気がさしたという説。院政のことは、(三)でもうすこしお話したいと思っています。ともかく、この世に無常を感じて出家したという説と、もうひとつは、鳥羽上皇の后(きさき/中宮)だった待賢門院に失恋して世をはかなんで出家したという、この二つです。西行神話が生まれるとすぐこの二つの説が登場しています。どちらが本当か、もちろん、いまさらそれを裏付ける史料はありません。
魅力的なのは、失恋説のほうで、これは願ってもないエピソードですから、これに喰らいついて、西行の歌をことごとく(ちとおおげさですね)その失恋の傷手とそれを思い切るための決意というかそういう解釈に持っていこうとする西行論もあります。そういうのは、そりゃぁお好みで、としかいいようがないと思いますが、逆に、これは、西行神話形成のうえで、おおきな陥し穴になっていると思います。
皇后に失恋した若武者というエピソードに嵌り込めば、いくらでも神話は紡げます。しかし、これはどこまで行っても、あったかもしれない虚構物語(つくりばなし)を超えることは出来ないし、西行の歌の読みかたも、そのために歪曲しているかもしれないということを忘れないようにしたいと思います。
とにかく、なるべく、いま手元にある最少の西行に関する資料から考えようとすれば、出家して(動機はなにか明確ではないが、出家は出家だ、この世の地位も名誉も境遇も捨てて)しかし、中央の(京の)和歌をつくる集まり(人間関係)からは離れなかった、ということです。
これは、晩年までそうです。
その後、高野山へ行き、四国や奥羽地方、吉野山、大峰山、伊勢志摩と、旅をしたり、庵を結んで何年か滞在したりしますが、やっぱりしょっちゅう京へ戻ってきます。臨終は、弘川寺でしたが、この弘川寺、今回の略年譜では河内としておきましたが、異説もあります。没年はまちがいないようですが、どこで亡くなったかも、じつは、絶対確証はない、ということのほうが大切なことなのです。
この略年譜を眺めて下さい。40代なんか、記載することはなにもない、というより、なにも確実なところは判らない。
これこそ、「世を捨てないで」「世を捨てる」生きかたといっていいのかもしれません。

(つづく)


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