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網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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西行(その1−3)

西行150308ノート
(三)
絵巻と歌に入る前に、西行の生きていた時代のことをもう少しみておきたいと思います。(絵巻については4月の<ABC>で、歌は五月にとりあげたいと予定しています。)
西行を考えるうえで、その時代状況を考えておくことが大切だという理由は、二つあります。西行は、佐藤義清だったころ、この時代の中心舞台のすぐ脇役を勤める位置にいたということ。そして、出家したとしても、すぐ朽ちる道を選ばず、数え年73歳まで生きた彼にとっては、こういう状況は、彼の生きかたの地盤として彼を包んでいただろうということ。ほかの遊行僧のように、世間でなにが起こっているかそんなことは知らないよっ、というふうに禅定を組んでただ自ら朽ちるのを待っているような生きかたをしなかった西行です。
時代の姿を、西行は、出家するまでは、肌に直接ピリピリ感じるくらいの位置に居り、出家後も、そういう状況をトータルに理解できる圏(知的な圏域とでもいいますか)から脱出しようとはしななかった。
お寺に所属しない放浪僧=遊行僧でありながら、和歌に秀で、そんな身分で時代の姿をちゃんと心得ていた人??西行は、当時の状況にあって極めて例外的な特異な人物だったことはまちがいなさそうです。
さて、手書きのレジュメをごらんください。
ひとくちに言えば、天皇の系譜なのですが、まんなか、1072年(延久四年)白河天皇が即位したとき、西行となる佐藤義清はまだ生まれていませんでしたが、西行の時代背景ということになると、どうしてもここまで遡らなくてはなりません。というのは、この白河天皇が譲位してから「院政」が始まるのです。
院政は、日本の歴史を考えるうえで、とても重要です。表をみていただいて、一目瞭然でしょう、天皇はどんどん変っていきますが、上皇は変りません。そして、この院政の特質は、天皇が表向き日本の政治体制の頂上に座っているのですが、じっさいの権力を行使するのは上皇、つまり「院」の座にいる太上天皇(たいじょうてんのう、もしくは、だいじょうてんのう。上皇というのは太上天皇の略)なのです。
そこでどういうことが起こったか。天皇という表向きの看板を置いて陰で黒幕が実権を揮う政治構造の成立です。安土桃山時代から江戸時代へかけて、そして現代の象徴天皇まで続く構造は、ここで形成されたということです。
もうひとつは、それまで、つまり白河天皇が譲位するまでは、女系制度がつよくのこっていました。それにつけこんだのが藤原氏で、そんな話はみなさんじゅうぶんご存知でしょう。娘を天皇の后(きさき)にやって男の子を産ませ、娘といったって他人の娘を養女にしてでも籍は藤原家の娘にして、天皇の傍にもっていくのですが、外戚をこうしてがっちり固めて、権力を掌握していたのが藤原氏でした。
平安末期、白河のお父さんの後三条天皇あたりから、なんとかこの藤原氏を外そうとしだすのですね。細かい経過はここでは省略しますが、院政はそういう女系の支えられた権力構造を男系、男の手にわたした構造へ切り替えたのです。
息子の堀河(ここにいう堀河天皇とか白河天皇とかいう呼び名は、みなあとでつけるので、即位した当初はナントカ皇子とか呼ばれていたはずですが、判りやすくするために天皇名で呼びます)に、天皇の位を譲ったとき、堀河は満6歳(数えで7歳)、白河は33歳です。幼い天皇の後ろ盾になって実権を執ったわけです。この時代ほとんどみんな訳も分からない幼いうちに天皇にさせられ、上皇が背後ですべてを動かしているのです。
崇徳天皇がいい例ですが、佐藤義清6歳のとき天皇に即位します。そのとき、崇徳も、数えで5歳です。
崇徳天皇は、系譜上は堀河の孫、鳥羽の息子なのですが、レジュメの下のほうにある系譜をみていただくとお判りでしょう、崇徳は、曽祖父白河上皇と待賢門院とのあいだに出来たということは、誰もが知っていることだったらしい。鳥羽天皇は、父の堀河が亡くなって天皇に即位しますが、そのとき彼は満4歳。もちろん実権は祖父の白河上皇が握り続けていました。そして、鳥羽は20歳のときはやくも譲位しようとします。そのとき、第一皇子の崇徳を即位させますが、祖父の白河上皇がなくなるまで6年半、じっとがまんの生活をして、祖父がなくなると、上皇に就き、崇徳いじめを始めます。
まず、崇徳を天皇位から降ろさせようとします。お前が上皇になるんだよ、と甘いことをいって、崇徳が22歳のとき、天皇を廃めさせます。崇徳天皇は、自分が天皇位を降りたら当然自分の子の重仁が跡を継ぐはずと思って退位すると、鳥羽上皇は鳥羽と美福門院(待賢門院のあと皇后になった)との間に生まれた子(近衛)を即かせました。そのときに鳥羽上皇はいろいろ策略して、崇徳は上皇にはなれず、近衛天皇の時代になって13年間、鬱屈した宮廷暮しをしていたのでしょう。その間和歌をつくり管弦とかに身を入れていたようです。
そして、ついに鳥羽上皇が亡くなり、自分の実の弟の後白河が天皇に即位すると決まっていたのを知ったとき、とうとう怒りが爆発して、やはりいまの体制に不満を持っていた藤原為家らと組んで、叛乱を起します。これが、保元の乱です、1156年。
崇徳側はあっけなく破れ、崇徳は讃岐(四国)に流され、そこで悶々として死んだと伝えられています。西行はのちに四国へ旅行して、崇徳天皇の墓参りをしています。
余談ですが、この配流され悶死するまでは、リアルタイムに即していうならば、「崇徳天皇」ではないのですね、「崇徳」という称号は、彼が死んだのち、京にいろいろと不吉な出来事がつづき、讃岐で死んだ男の怨霊のせいだと占いが出て、鎮魂のために与えられた称号です。
こうした、天皇家の争い、藤原一族が絡んだ争いに、大きな役割を果すのが、平家と源氏の武士階級で、平清盛、源頼朝は、この保元の乱をきっかけに勢力を伸ばし、まずは平家が天下を取りますが、源氏が逆襲して鎌倉幕府を樹立する??これはもうみなさん、よくご存知の話です。その間に、平家物語が謡われ、義経物語が語られる出来事が続くわけです。お配りしたレジュメの一番下にいる後鳥羽天皇とその上の安徳天皇は兄弟ですが、安徳天皇は平氏に担がれ、源平の戦いに敗れて、壇ノ浦の海に幼い命を終える話も平家物語の有名な一節です。安徳天皇の即位は3歳のとき、亡くなるのは、数えで8歳です。
後鳥羽天皇は4歳で即位させられ(安徳天皇が連れ去られていったので、後白河上皇が神器なしのまま即位させます)、18歳で譲位し、のち上皇として60歳まで長らえ、「梁塵秘抄」などを編集したり、鎌倉文化の形成に活躍します。後鳥羽院政を23年間に亘って維持しました。
後鳥羽院まで話が行ってしまうと、もう西行はこの世のひとではありせん。かし、西行神話は、まさに、この後鳥羽院政のもとで育てられていったというべきでしょう。政治は鎌倉幕府に任せ(しかし実朝と微妙な関係があり簡単に政治を棄てたとはいえません、実朝暗殺のとき討幕を企て失敗、隠岐に配流されます)、「新古今和歌集」の撰集や「梁塵秘抄」など、芸能文化の開拓に精力を注ぐ、その過程で「西行神話」は固められていくからです。後鳥羽上皇がいなかったら、「西行神話」もまたちがうかたちをとっていたとも考えられます。
いずれにしても、こうした「院政」に象徴される日本独特の「天皇制」??まず「女」系の権力を完全に抑え込んで、父と息子の関係の中にある「男」支配の政治社会構造をつくり上げたこと。そしてその権力のメカニズムは、本当の実権を握る権力は陰に隠れるように、表向きの「天皇」を拝ませておく。拝まされる側からいうと、「お天子様」(天皇のことを昔はそう呼んでいました)は、庶民の目の届かない高いところで政りごとをなさっていらっしゃる、ありがたいことだ、政治のことはお天子様にお任せしておこう、という意識のありかたを内実化させられていく??そういう意識と制度が、この「院政」の確立のなかで成熟していきます。
こういう制度と意識が形成されていく時代状況の下、西行は、そういう制度の外へ逸れる生きかたを選んだということです。「西行的なるもの」というのは、まさに、この生きたかの選択に発端をもち、そこから考えを始めていかねばならないと思います。
院政に象徴される社会組織のありかたは、現代の日本にまで引きずってきているので、その意味では、この平安末期、権力構造の「日本的」ともいえる特質が準備されたといえます。それは、いいかえると、「古代的」なものを廃棄・喪失していく過程を一歩すすめたということです。一歩といいましたが、それは、いままでにない決定的な一歩、でした。西行が院政体制の外へ逸脱しようとする生きかたを選んだということは、別のいいかたをすれば、廃棄される「古代的なるもの」に執着する生きかたを選ぼうとした、ということができると思います。お寺に所属するのでもない、遊行僧をして野原で朽ち果てるのでもない、僧服を着て公家たちと交流し、歌を作って生きながらえていく、という同時代のなかで例のない「出家」のしかたを選んだのには、そんな理由があった。そこに「西行的なもの」をみつけたいと思います。
西行の歌の魅力は、そういう西行の生きかたを詠っているところにあると思います。
古代的な政治社会構造とその意識、つまり「女」系社会構造に支えられた権力のありかたとその意識です。待賢門院への失恋と出家が結びつけられる伝説が生まれたのは、西行が「古代的なるもの」に執着した生きかたをしたことをいち早く嗅ぎ取った人びとが、「古代的なるもの」の象徴代理を待賢門院に与けて西行伝説に仕立てていったのかもしれません。待賢門院との恋の苦しみに耐えかねて世を捨てたとか、で彼の和歌の核心を詠むというのでは、西行が小さくなりすぎです。
西行という人の実体(実像)は、ほとんどなにも判らないのに、神話がどんどん増殖してこんにちに至っているのも、そういう時代との緊張関係の、西行のみごとさが、神話化せざるをえなくさせた、と考えてみたいと思います。
☆☆☆
これで、「西行」を考えるための、西行像の基礎作業はできたかな、と思います。
つづいて、4月は絵巻を眺め、5月には和歌を少し読みたいと考えています。
もちろん、西行の和歌を一回で読み切るなんてまったく不可能なんですが、現代をわれわれひとりびとりが生きていくうえで、なにかいい刺激を与えてくれる、そんな西行に出会うための彼の歌を読む緒をつかんでみたい、というふうに取り組んでみます。
その間三ヶ月に及びますが、みなさんご自身が、西行を考えていただく参考になる本を、すこし挙げておきます。
もちろん、「山家集」などの歌集はいわずもがな、です。
『西行物語 全訳注』講談社学術文庫で、西行物語が気軽に読めます。解説が実証主義に徹しているのが気になりますが、他に現代語訳がないのが現状。
絵巻は、角川や中央公論社から出ている絵巻全集を、ぜひ開いてみてください。なかなか本物をみる機会がないのが残念です。3月、出光美術館で、「西行の仮名」展が開かれ、そこに宗達筆の西行物語絵巻の写本が展示されることになって、これはいいチャンスと思ったのですが、ちょっと裏切られました。というのは、宗達が写した絵巻と同時に、その元になったという写本、宗達のを写したと考えられる光琳の写本も展示され、その宗達が手本にしたという写本は「津軽写本」などといわれていて、宗達筆のより、ずっとすばらしい出来映えの絵巻なのです。しかし、こちらは参考程度に一部だけしかみせていなかった。「宗達」や「光琳」ならお客がくるという浅ましい、美術館の下心が透けて見えるようでした。
西行論としては、吉本隆明の『西行論』(講談社文芸文庫)と小林秀雄の「西行」(新潮文庫『モオツアルト・無常という事』所収)、この二つをじっくり読まれたら充分です。小林秀雄は短くて手頃です。このエッセイ、彼一流の逆説が陰を潜めていて(高飛車な物言いは相変らずですが)、小林秀


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