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屈原(つづき) その2
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四ばんめとして、見落さないようにしたいのは、メッセージの多重性です。すでに植物がおおきな位置を占めていることを挙げたところでちょっと触れておきましたが、花のことを謡っているようで、それは人間どうし、君主と従臣の関係を語っていたように、よい女を捜すという詩の言葉はよい君主を求めることを謂っている。それは、喩というよりもっと直接的に花のことを謂うことが君主のことを言っていることだった。君主と従臣の関係は、花=植物のこととして語るほうがはるかにぴったりと表出できたということ。自分の、そしてこの詩篇を味合う人びとのいちばん気持に沿ったいいかただったということだと思います。
喩で謡う技巧を使っているというより、もっと自然に、君主のことを語ろうとすれば、花のことを謡う言葉がでてくる、そんな言語のありかたがここにはあった。
語彙は現代よりはるかに少ないですが、少ない分、いっそう、一つの言葉にいくつもの意味とメッセージが含まれていて、その膨らみのまま伝えられていたのではないでしょうか。
<2>で触れておいた、「離騒」が初期段階では朗誦されていたことと合わせて、以下の五つを、ボクは表現[芸術表現]の古代性と呼びたいと思い、もういちど整理しておきます。
1.読誦性。
2.無意味語の重要性。
3.植物が占める位置の重要性。
4.他者に憑くこと。
5.意味・メッセージの多重性。
1と2は、ほんとうは一つなのかもしれません。しかし、われわれは、いまや、「離騒」を声を出して読んだとしても、「兮」を音として読むことができなくなっているので、現代(近代)の立場からは、1と2を、それぞれに立てざるをえないのです。
5も、メッッセージの多「重」性であって、「多様性」ではありません。
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『楚辞』は、中国大陸最古の文学の一つですが、それは、中国古代南方の文学で、中国古代北方の文学として、『詩経』があります。(註2)
『詩経』でも、植物は大きな位置を占めています。というので、「巻耳」(ケンジと読みますが、はこべのことだそうです。因みに、いま辞書を引くとハコベの漢字は、「繁縷」とか書き[やはりボクのソフトでは出てこないので、くどく説明すると、さっきの漢字「繁縷」の繁に草冠(十十)を載せて、婁にやはり草冠(十十)をかぶせた二文字は、平安時代末期に編まれた『類聚名義抄』(るいじゅみょうぎしょう)に出てきます]、巻耳はちょっとちがう種類のはこべかもしれません。それはともかく、その「巻耳」という小詩を読みましたが、ここでは省略。ポイントだけ、拾っておきます。
それは、詩の冒頭に「巻耳」を摘んでも摘んでも籠がいっぱいにならないと謡い出して、一人の女性が夫への思いを歌っていくのですが、古注[古い時代の註釈のことを総称してそういいますが、ここでは『毛詩伝』(前漢)と鄭玄(テイゲンあるいはジョウゲン、127−200AD)のまとめた毛詩の註釈書『鄭箋』を指します]によると、ある君主の妻(后・きさき)が夫に向い、賢人を抜擢しその働き振りをよく知ることを勧める内助の歌だといいます。しかし、朱子(朱熹の敬称、1130−1200)は『詩集伝』で、これは夫を旅に出した妻の歌で、文王姫晶(きしょう)の留守を守る妻太似(たいじ)の歌と推定できるとしました。鄭玄と朱熹とのあいだに一千年もの時間がありますが、ともかく、一篇の詩が異なるメッセージを持って読めることに注目しておきたい[さらに現代では、こういう昔の解釈を批判した説がたくさんあります]。
6月25日には、『詩経』から、もう一篇、「載馳」(さいち)を読みました。古注も朱子も、これは許の国へ嫁に行った穆夫人の作で、故国の衛が滅びたのを知り、衛の国の人たちが亡命した漕へ自ら馳せ参じようとして許の国の大臣らに阻まれるのを嘆いた詩と解釈しています。岩波書店が1958年に出版した『中国詩人選集』の「詩経国風」の巻上では、この伝統的な解釈に則って解説しています。ところが、1997年明治書院から刊行された『新釈漢文大系』の「詩経」上巻では、こうした解釈を「旧説」として斥けて、この詩は無名の婦人の詩と断定しています。その結果、たとえばこの詩の七句目と八句目、「既に我(われ)を嘉(よろ)しせざれば、旋(めぐ)り反(かへ)る能(あた)はず」というところ、伝統的には「許に嫁して后となった私が、故国の滅亡の報を聞いて故国のみんなに会いたいと馬車を走らせたことに、賛成して下さらないのなら、私は国に帰ることもできません」と理解していたのを、現代では、「あなたが私につれなくなったからといって、実家に帰ることはできません」という一人の女の胸の裡の述懐と解釈されるのです。現代は本文批評や史料研究の結果、この「載馳」は四種の異なった詩の「綴合と考えられる」から、伝統的な解釈はすべて「後人の付会」だというのです。
こういう解釈を読んでいると、現代の学者は、その作品を「誰が」作ったかといった「事実」ばかり研究していて、その詩篇をどう味合うかについては二の次にしている、そんな「研究」はなんとも貧しいではないか、という気がしてなりません。
ボクは、やはり、伝統的な解釈を、それが「正しい」かどうかを追究するよりも、そういう解釈が二千年以上ものあいだ、ながく慈しまれてきたことを大切にしたいと思います。
昔の中国では他国の君主や使節をもてなす宴会などで、主客それぞれが、詩を謡った。そして、その詩に自国の心持ちをメッセージとしてこめて謡ったといいます。『春秋左氏伝』には、魯の文(ぶん)公が鄭の国を訪問」したとき(620BC)、主人側の鄭の家老がまず歌って歓迎し、魯の臣がそれに応えるように歌ったあと、さらにそれを受けて鄭の家老が「載馳」を歌ったと記録されています。これは、「載馳」が衛の国の滅びたときの穆夫人の歌ということを踏まえて、鄭の国も詩に謡われた衛のように大国の助けが必要なのだということを伝えようとしたのだ、と『中国詩人選集』に吉川幸次郎氏が解説しています。もしそうだとすると、紀元前660年は、衛が滅びて僅か40年。そのときには、この詩篇が故国衛へ帰ろうとする穆夫人の歌だとみんなが知っていたということです。
現代、史料的にそのことが不確かだとしても、逆に、そういうことを裏付ける史料が二千年のあいだになくなってしまっただけなのかもしれません。
その上で、現代風の解釈はもちろん可能です。そいう解釈もひょっとすると昔むかしはされていたかもしれない。確かに、二千年のあいだ認められていたのは、権力公認の解釈だったからです。
それにしても、伝統的な解釈をあんなに軽く追放してしまうのには驚きです。こういう学者の態度には、いつ、自分の説も反証が出てくるかもしれないという謙虚さが感じられません。[いや、こんなことをいっているボクも不遜な物言いしているかもしれない。ほんとうに気をつけようと思う。]
くどくなったけれど、ここでいいたいことは、二つの異なった解釈をじっくり味わいたいということです。その二つをどちらもていねいに解読することこそ、詩を味わう醍醐味と思うのです。『詩経』の詩篇も、意味を多層化しているのです。
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『詩経』は、だいたい、一句が四言から出来ていて、「離騒」と形は異なっています。そういったところからも、北方と南方の伝統の違いが読めてくるのかもしれません。どちらも、のちに発達する五言詩、七言詩の原形のような姿を保っています。
そして、「巻耳」の最終聯の四句が、やはり、「矣」(イ)という字が各句の終りについていることからも推測できるように、現代ではほとんど意味を持たない語をくりかえして使うということを『詩経』でもやっています。表現における古代性というか、古代型が、『詩経』にも共通してみつけることができます。
註2:『詩経』には、いろいろとりくんでみたいテーマがたくさんあるようです。『詩経』の序では、作品(詩篇)を六つに分類して、「風」「雅」「頌」「賦」「比」「興」とし、それを「六義」と呼んでいますが、ほんとうのところ、それは、どんな意味を持っているのか。単に詩の形式とか役割との問題領域に収まらない当時の[古代東アジアの]詩=芸術のありかたを考える緒口として、考えさせてくれるものを隠し持っていそうです。それに、その「六義」を、紀貫之は『古今和歌集』の序で、やまとことばに直してやまとうたの情況に引き合わせるように引用していますが、そのとき、漢語からやまとことばに移されたところで、どんな落差が生じたか。これは、日本語の詩・文学/表出意識と漢語・中国語の表出意識の、それぞれの成立と展開を考える上で大きな示唆を与えてくれそうです。また、韻律ということについて考える上でも―現代人は韻律という問題をつい形式的な問題として処理してしまいがちですが、ボクは現代を生きる人間としてそういう態度を少し反省しなければと思っています。ボクは韻律というのは、作品が成立するとき非常に重要な働きをしていて、意味を持たないけど、作品に不可欠の要素として決定的な役割を果たすもの、作品が作品となるための隠れた規律のようなものと考えているので、『詩経』が提示している「六義」はそんな問題についてどんなことを教えてくれるか、などなど、表現の起源と成立、根拠に関わる問題にいろんな材料を提供してくれる気がします。
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こんにちは。 大道芸観覧レポートという写真ブログをつくっています。 終戦直後の吉川幸次郎(文藝春秋)もとりあげています。 よかったら、寄ってみてください。 http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611
2007/2/7(水) 午前 0:18 [ kemukemu ]