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網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

内容報告

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反省!

しばらく、ブログの更新を怠けていました、反省!

前回(4月27日)から、金曜日の夜は、集英社の創立85周年記念企画『コレクション 戦争×文学』全20巻に、毎号掲載(連載)している「戦争×絵画」を、紹介するとりくみを始めました。

前回は、ちょうど5月に配本される「オキナワ 終わらぬ戦争」の見本が届いたので、その最新刊と、「ベトナム戦争」の、二冊をとりあげることにしました。

オキナワの巻の「戦争×絵画」は「「戦争」に晒されつづける島で」というタイトル。ベトナムの巻には、「畑を耕すように描く」というタイトルで、ボクは小文を寄せています。ほんとうに短い(限られたスペースでの)文章なので、それを書くために考えたことなど、巻頭の口絵を飾る作品を決定する(した)理由なども説明しながら、話しました。

オキナワの島が戦場になったときの経験、その後の米軍基地のもとでの島の人びとの理不尽な生活を、鮮やかに描き切った作品をみつけるのは、とても、むつかしい。経験があまりにもなまなましくって、「絵」という表現体に昇華できていない、という感じが強く伝わってきます。一つの「出来事」が「絵」になるまで、その「出来事」が「絵画」へと成熟するには、その人の内部で、その「出来事」が「絵画」という表現体へ産まれるための「熟成」の時間が大切なのです(もちろんこれはストップウオッチで計れる「時間」ではありません)。そのことのたいせつさを、この巻の口絵のための作品を探しながら、つくづく考えさせられた、そんな話をしました。

ベトナムの巻では、反対に、銃をかたわらに絵を描いてきた作品がいろいろみつかります。くわしくは、また、べつの機会に議論したいですが、なぜ、ベトナムの人びとはあんなふうに絵を描き続けたのだろうか、と考えることは、現代の欺瞞的な「民主主義社会」をどう生きるかを問いかけるうえで、いろいろ、刺激的です。ここでは、あの日語った「結論」ふうの考えだけを、とりあえず載っけておきます。それは、彼らにとっては、「絵を描く」という行為が「畑を耕す」という営みとほとんどおなじ価値をもつ、そんな生きかたをしていたということです。そこには、「漆絵」の果している役割がとてもおおきい。その描きかた・制作の仕方は、まさに、ながいつらい戦争を戦い抜いたのと同質の「生きかた」なのです。というより、ながい、フランスとアメリカとの戦争を戦い抜いた「強さ」はそこにあったのか、という感動と出会います。でも、ただ、感動しているだけでは、いけません。この「生きかた」を、現代のボクたち(ボク自身)のそれとひきあわせ、ボクたちの生きかたを考えていかなければなりません。

ベトナムの近代絵画を考えていくと、やはり、「絵画」の根源の問題へ、誘われていくというわけです。

とりあえずは、これで、前回の報告とします。
kinoshita




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