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網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

内容報告

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2017820日横浜トリエンナーレの会場で、このトリエンナーレに出品している、小沢剛さんとのトークイヴェントに参加。その時に配ったメモをアップしておきます(当日配ったものに少し加筆しています)。
                                  
 
小沢剛「帰ってきたK.T.O.」から読める「岡倉」像
それは「挫折者OKAKURA」である。
その挫折は、当時の日本近代化の主流からはぐれた・外されたことにある。
東京美術学校の主導権を剥奪され、国立博物館の主導権も奪われ、「日本美術史」出版の
構想編集執筆の場も奪われた。
それに代わる事業として、日本美術院を設立したが、
経営はうまくいかなかった。
日本は、自分は、どこへ行くのだろうという不安と問いへ、答を探す旅。それが、唐突に思いついたインド旅行だった。その旅の内面のドラマを、歌と映像と看板絵による大きなインスタレーションに仕掛けたのが、小沢剛作「The Return of K.T.O. である。わたしたちは、この作品の前で(作品に囲まれて)ひとりの挫折者の心の動きに共鳴できればいいので、それ以上の理屈は要らないかもしれない。しかし、このインスタレーションは、見る人に、岡倉覚三–天心をモデルにしていることを否応なく考えさせ、同時に「岡倉覚三–天心」とは時空的に直接関係しない人びと(現代のインドの若い歌手たち、インドの町や村に暮らす人たち、そこの風景、息遣い、それを観、聴いている現代日本列島に生きるものetc.)のことへも思いを誘い、そちらの方へどんどん思いを広げさせながら、再び「岡倉覚三–天心」をめぐる歴史上の問題を考えるところへも連れていってしまうことも確かだ。
また、そのタイトルの「帰ってきた…」という言葉も、いろんなことを考えさせる。
現在、もはやわれわれは、シンプルに「帰って行く」ところなどないからである。
今回の小沢さんの作品は「帰ってきた」シリーズの4作目である。
その問題についてもいろいろ考えたいが、今回は、この作品の「K.T.O.」が指し示す
「岡倉覚三―天心」に注目する。
岡倉の挫折は、紛れもなく、歴史上の出来事であるからである。
もちろん、そんな歴史上の出来事を知らなくても、わたしたちは「K.T.O.」の挫折とその回復の
ドラマを、この作品から堪能できる。
が、また、そういう事実をさらに追求し学んでみることも、
小沢剛作「帰ってきたK.T.O.」の作品が持つ磁場のうちにある。
歴史の問題としての「岡倉覚三―天心」をめぐる問題について、少しメモする次第である。

 

 岡倉覚三 OKAKURA KAKUZO と岡倉天心 OKAKURA TENSHIN
  
  20170820                            木下長宏
 

いまでは「岡倉天心」が通称となっている「岡倉覚三」。「天心」という呼ばれかたは、亡くなって法名につけられたのが始まりだった。
その後、弟子たちが日本美術院を再建(再興)しようとして、「岡倉先生」の祠を谷中の新しい敷地に建立。これを「天心霊社」と名付けた。彼らはそれまで「岡倉先生」と呼んでいた習慣を「天心先生」と呼ぶように改めた。そのころ日本は戦時体制に入り、満州国の建国に介入、中国大陸侵略から対米英戦争へと戦線を拡大していった。その時に掲げられた国家スローガンが「大東亜共栄圏」「八紘一宇」などで、岡倉が明治36年(1903)に英文著書(邦訳名は『東洋の理想』原題 Ideals of the East )に書いた「 Asia is one. 」が「 Asia is One 」(東京藝術大学前庭の「天心」像の背板)、「アジアは一なり」(茨城県五浦旧岡倉邸の中庭にある碑)と改作され、「大東亜戦争」の正当性を明治時代に唱えた先覚者として称揚され、戦争を賛美する文化人たちにもてはやされた。これは創作と言ってもいい。なぜなら、岡倉は生前Asia is one.と一度書いたが、Oneとは書いてないし、日本語で「アジアは一なり」とも「一つ」とも一切書いていない。この句をその後の10年亡くなるまで再び口にすることもなかったからだ。
戦後になっても、「天心」という呼びかたは撤回されなかった。戦時下の「国粋主義者」「大アジア主義者」は消去し、「近代日本美術の開拓者・岡倉天心」「美と芸術の国際化に貢献した先駆者・岡倉天心」etc.として今日に至っている。戦中から戦後へ、「天心」と呼ぶことによって、岡倉覚三を神格化し神話化していることには変わりない。ここにはどんな問題が隠されているだろうか。それを考えるには「岡倉覚三―天心」という人物を、「岡倉覚三」の時代(生前)と「岡倉天心」の時代(没後)の二つの時代に分ける必要がある。
 
□岡倉覚三の時代
●第Ⅰ期(18631880[文久三〜明治1317年間)
誕生、少年時代から東大卒まで。新時代「明治」のために胸を膨らませ勉強に励んでいた時代。
●第Ⅱ期(18811889[明治143118年間)
文部省に就職。帝国博物館(現東京国立博物館)の運営と東京美術学校(現東京藝術大学)の創立に従事。古社寺調査のため日本列島の諸社寺を歴訪。「日本美術史」記述を試みようとした(これは東京美術学校で「美術史」の講義をし、帝国博物館から「日本美術史」を出版する計画へと展開。そのために中国大陸横断する美術調査旅行(1893)を敢行するまでに至った)。
東京美術学校創設に当ってはフェノロサ、狩野芳崖、橋本雅邦らとの出会いがある。菱田春草、横山大観、下村観山らがそこから育つ。
●第Ⅲ期(18981901[明治3134]3年間)
日本の伝統工芸美術を近代化させて新しい「日本美術」を創生する教育機関としての東京美術学校校長(創立時の幹事職から在職期間約10年5ヶ月)の座を追放され(同時に、帝国博物館理事・美術部長の職も奪われ)、私立の日本美術院を創立、新しい「日本画」を創生しようとしたが、結局思い通りにいかなかった時代。
●第Ⅳ期(19011903[明治3436]2年間)
経営芳しくない日本美術院を放置してインドへ旅行。一年間滞在。日本文化(美術)の源泉が「儒教(孔子)」と「道教(老子)」「仏教」の三つにあるという考えに到達。アジア文化の大きな広がりのなかで、「日本」を見つめる眼を確立した時代。
●第Ⅴ期(19041913[明治37〜大正2]9年間)
ボストンへ渡り、ボストン美術館に勤務。日本とアメリカを5回往復(船で)。日本とアジアの美術のありかたを世界的な拡がりのなかで考え始めた時代。
        (次に、続く)   


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