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『老子』テクスト最初期形の一つである「帛書」が二種類見つかった馬王堆墓(湖南長沙)は、およそ紀元前160年から170前に造営された墓ですが、その後竹簡の「老子」テクスト断片が三組発見された楚墓(湖北荊門市郭店)は、紀元前300年ごろと言われていますから、さらに150年ばかり、古い。この三種類のテクストの乙本に、通行のテクスト(魏の時代の王弼[226〜249A.D.]が整理した『老子』)の41章に該当する箇所が見つけられます。そこには、「大器曼成」とあるのです。
この、現在のところ最も古いテクスト(紀元前300年より以前)とされる史料に「大器曼成」とあるのですから、われわれは、「大器免成」が正しい最古のテクストだと、大声で言うわけにはまいりません。(ちなみに「大器蔓成」なら、その意味は、「大きな(立派な)器(作品や人物)は、美しい豊かな形(成り立ち)をしている」というところでしょうか。
時の流れの上で考えれば、「大器蔓成」が「大器免成」に変わって「大器晩成」になったように見受けられますが、そう言い切るには、比較できる史料が乏しい。おそらく、初期の頃には「曼成」とも「免成」とも書かれていたと考えておいたほうがいいか。
それが、「大器晩成」にされてしまった、ということが、いちばん問題にしたいところです。前回にも書きましたように、「大器晩成」という成句は、儒学イデオロギーが色濃く染め上げられています。
「大器免成」とすれば、これは明らかに「反儒学」の姿勢が読み取れ、儒学イデオローグたちにとっては危険千万な一句です。「大器蔓成」なら、ことさら問題にしなくてもいい、大人しい主張です。
また、「大器蔓成」なら、この四文字を持ちあげて、独立した成句にするほどのものではない。この41章の文脈の中では、それなりに、前後の句と無理なく続き、しっくり収まっています。むしろ、「大器晩成」としたほうが、文脈の流れの上で、浮いてしまいます。おそらく、ちょっと浮いてしまう四文字になったことが、逆に諺に祭り上げられる要因になったとも考えられます。(とすると、儒学イデオローグのこの仕業は、なかなかに凄腕の技です。)
『淮南子』がまとめ上げられた、前漢時代、つまり紀元前2世紀ごろから、中国大陸の支配者たちは、『老子』を遠ざけ、儒学イデオロギーを信奉するようになっていきます。宮廷では儒学を柱にした「学問」体系のもとで、任官試験なども行われるようになるのですが、人びとのあいだでは、官製思想の「儒学」に対して、『老子』が根強い支持を得てきました。『荘子』とセットにして「老荘思想」と名付けられ、広い支持層を築いていきます。そんななかから、真っ向から儒学と対決することを避ける老子解釈が広まり、他方道教のような民俗宗教に身を変えながら。「老子は何千年を生き延びてきたのでした。
中国大陸の思想、すなわち儒学思想の磁場のなかで、国家建設を進めてきた「日本」(朝鮮も)は、こうして、儒学イデオロギーの枠のなかで、『老子』を読むことが慣いとなって何百年を経てきていまに至っているのですね。
江戸時代の知識人のあいだでは、「老子」と「論語」をたがいに補い合う書として読む姿勢が身についていました。たとえば、森鴎外の『渋江抽斎』で?貎外は抽斎にそんなことを言わせています。
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