木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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<友人紹介>
                        宇治郷 毅
     横浜で活躍する木下長宏さん
    −元横浜国立大学教授で、現在私塾を主宰―

[略歴] 木下長宏(きのした・ながひろ)
1939年、滋賀県生まれ、3歳の時ポリオにかかり両足の自由を失う、62年、同志社大学文学部入学、66年同大学院修士課程へ、68年博士課程に入り74年退学、77年京都芸術短期大学に就職、同大学教授を経て、98年から2005年まで横浜国立大学教授、退職後横浜で私塾〈土曜の午後のABC〉を主宰、1992年に『思想史としてのゴッホ 複製受容と想像力』で第43回「芸術選奨文部大臣新人賞(評論部門)」を受賞、著書は単行本、翻訳本を含めて20冊に及ぶ。同志社出身の最大の近代芸術思想史の研究者。
(詳しくは以下をお読みください)

1、 しなやかに強靭に生きる人

(1) 幼少年期―障害をうけとめ、自立への道を歩む
70年という長い人生で多くの良き友人、知人に出会った。しかし親友というものが利害や付き合いの長さをこえて精神的、人格的に影響を与え合う存在とすると、親友と言える人はそう多くはいない。木下長宏さんは、私が親友と呼べる一人である。畏友と言ってもよい。彼とは若い時から切磋琢磨してきたつもりでいるが、のんびり屋で怠け者の自分にとっては彼から教えられ、与えられたものが圧倒的に多かったと思う。今でもそうだが。
彼とは、同志社大学の一年生の時、1962(昭和37)年に初めて出会ったので、もう50年をこえるつきあいとなる。あるキリスト教関係のサークルで初めて出会ったが、それまで私の故郷(岡山県倉敷市の片田舎)では見たことのなかった松葉杖(現在は車椅子)姿で現れたので初対面では少々びっくりした記憶がある。後に親しくなって聞いた話では、1939(昭和14)年に滋賀県彦根に生まれたが、3歳の時ポリオ(急性灰白髄炎)にかかり両足の自由を完全に失ったとのこと。さらにびっくりしたのは、小学校4年生まではお母さんの押す乳母車で小学校に通ったこと、その後は学校には一度も行っていないこと、もっぱら自宅で自学自習したこと、さらに15歳の時発奮して勉強を始め大学認定試験にパスしたことなどであった。知れば知るほど驚くべきことばかりであった。私のように田舎で平々凡々にボーと育った人間から見ると、想像を絶する厳しい生い立ちである。身体上のハンディキャップはもちろんだが、精神的にもどれほど大きな苦労をしてきたのであろうか。でも彼は、それを口にすることはない。
そして18歳で京都外国語短期大学英語科に入学した。

(2)同志社大学時代―人生の礎(いしずえ)を築く
木下さんが同志社大学文学部美学芸術学専攻に転学してきたのは、1962(昭和37)年彼が23才の時である。私の彼との出会いはこの時であった。木下さんと私が同志社で過ごしたのは、1962年から68年までの学部と大学院修士課程時代の6年間ほど。「学生運動」「大学紛争」真っ盛りの政治の季節であった。多くの学生、教職員がその渦に巻き込まれ、右往左往し、また苦しんだ時期でもあった。それ「デモ」だ、それ「大学封鎖」などといってまともに勉強はできなかった。誠実な性格の木下さんはいろんな面で保守的な指導教授と対立し、この時期苦しんでいたようだ。彼は不純、不正なものには妥協できない性格だったからであろう。
木下さんは、その後同志社大学大学院文学研究科哲学・哲学史専攻の修士課程を経、博士課程に6年間在籍した。修論はヘーゲル哲学(「ヘーゲル美学思想の形成」)についてであった。長く大学院に在籍したのは、研究のためでもあり、また職が見つからないためでもあった。
この時期、大学宗教部の一講座を担当した。大学院生の身分で、正規の講座を担当したのは木下さんが初めてであったと思う。またこの時期、「平安教会」(日本基督教団)の教会学校の教師も熱心に努めた。この時の生徒さんは早や古希を迎える年齢となったが、いまでも一年に一回同窓会を持っているという。
大学院満期退学後もなかなか定職がみつからず、会社の嘱託や、私塾の英語教員、予備校の国語教師、大阪の私大の仏語非常勤講師などのアルバイトを続け、糊口をしのいでいる。無職であったこの時期が、心身ともに彼の最も苦しい時期であったと思われる。
ところが彼はこの苦境の中で、『岡倉天心 事業の背理』(紀伊国屋新書、1973年)という労作を出版し、私たち友人をびっくりさせ、かつ喜ばせた。1974年には、アルバイトで貯めたなけなしの金でアメリカのボストンに渡り、3ヶ月ほど岡倉天心とフェノロサの研究に打ち込んでいる(これが、のちに『岡倉天心全集』平凡社の原文校訂に活かされた)。この時期の地道な研究が後年の多くのすぐれた業績の基礎となり、同時に彼の才能を錬磨する機会となったのではないかと思われる。
その後も彼の歩みは決して順調とは言えなかったが、どのような窮地や局面でも、明るく、誠実な人柄と真剣に生きる姿に共鳴した援助者が次々現れ、彼を助けている。
私の目には、彼の生き方は、ある時は未知の真実を明らかにしようとする先駆者のように、ある時は権威・権力に立ち向かう抵抗者のように、ある時はひたすら修行に打ち込む求道僧のように、あるいは「良心に恥じないで生きたい」と願う信仰者のように映る。一口で言って、彼は風雪に耐えるしなやかでしたたか(強靭)な竹のような人だ。


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