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3月23日(金)のABCで読んだ、上田秋成の「夢應鯉魚」の私訳を、23日に勉強したことを踏まえて手を入れ、掲載します。
「夢応鯉魚」 現代語版(木下私訳)(上田秋成『雨月物語』より)
むかしのことでござります。醍醐(だいご)天皇の御代(みよ)、延長(えんちょう)の時代のこと。近江(おうみ)の三井寺(みいでら)※1の住職で、興義(こうぎ)という御方(おかた)がおられました。絵が上手で知られた和尚さんでござりました。お描(か)きになるものは、佛像(ぶつぞう)、山水(さんすい)、花鳥(かちょう)は割と少なく、お寺の仕事の手がちょっと空(あ)くと、琵琶湖(びわこ)に小舟を出して、網を打っている漁師に銭(ぜに)を与え、獲(と)った魚を湖(うみ)に放してやり、魚が喜んで湖へ帰っていくのを眺め、それを絵に描くのを楽しみにしておられました。
そうこうするうちに、画技はどんどん精妙になってまいったのでござります。
或るとき、どんな絵に仕上げようかと思案に耽っているうちに、ふいと眠り込んでしまわれたことがありました。そして、夢のなかで、湖に入り、大小とりどりの魚といっしょに遊んでいるのでした。目が覚めると、それをすぐに絵に仕立て、壁に貼り、自分のことを「夢応(むおう)の鯉魚(りぎょ)」と呼ぶことにしたのでござります。
興義の描く絵を賞(め)で、手元に欲しいと言う人が引きも切らず、そういうとき、興義は、花鳥山水の絵ならば、どうぞと手放すのですが、鯉や魚の絵は、なかなか手放したがらず、「お前さんがた、生き物を殺し、新鮮な肉が旨(うま)いなどと言って食する在家(ざいけ)の輩(やから)に、佛弟子(ぶつでし)が育てた魚をくれてやるわけにはいかんわい」と言い言いするのでした。興義は、絵も評判でしたが、こんな冗談めいた説教語り口でも、よく知られている人でした。
或る年のこと、興義は病に罹(かか)り、七日すぎてまもなく、眼を閉じ息を引き取ってしまいました。門弟やご友人がお集まりになり、法師の死を嘆き悲しんでおりましたが、心臓(むね)のあたりがまだ暖かいと申す者がおります。みんなは、これはもしかすると、と遺骸の周りに集まって、見守ることにしました。そうして、三日めのことでござります、手足がなんとなく動き出しそうな気配がする。と、急に長い溜息を吐いて、興義和尚、眼を開いたのでござります。そして、いま、目覚めたかのように上半身を起し、周りの人に向って、「儂(わし)は気を失っておったようだ、なんにちくらい眠っておったか。」と尋(たず)ねられます。弟子どもは、口ぐちに、「三日前に息を引きとられたのでございます。そこで、寺中の人や日頃の馴染みの深いかたがたが、こうしてお集まりになってご葬儀の相談をしておられたのでございますが、心(む)臓(ね)のあたりが不思議に暖かいので、柩(ひつぎ)にもお納めせずに、みんなして見守っておりましたところ、こうして生き返り遊ばされました、あぁご埋葬などせなくてよかった、と申し合っているところでございますよ。」と答えた。
興義は、それを聞いて頷(うなづ)き、こう言った。
「誰でもいい、ひとつ、檀家(だんか)の平(たいら)の助(すけ)の屋敷まで急いで行ってくれ。そうして『和尚さんが生き返られた、みなさんは酒を酌(く)み交わし、刺身を作らせておられるが、ちょっと宴会を取り止めて、お寺へお出で下さりませんか。珍しい話をお聞かせしたいと、和尚が申しておりまする』と言ってこい。そして、いいか、平の助の屋敷の宴をようく見てくるんだ。儂の言うておる通りのことをやっておるはずじゃ。」
と、興義は、その宴の様子を事細かに説明したのでした。
使いに走った小僧は、和尚の言葉を疑いながら、平の助の屋敷へ行き、興義の言葉を伝えるべく、屋敷の中を覗(のぞ)いてみると、なんと、主人の助(すけ)と弟の十郎、平(たいら)家へ出入りしている掃守(かもり)が、和尚の言った通りに円く坐って酒を酌み合っているではありませんか。
使いの伝言を聞いた平の助を始め屋敷にいた面々は、いったい何が起ったのか、と訝(いぶか)りながら、ともかく箸を置き盃を置いて、十郎や役人共々、お寺へ向ったのでござります。
興義は、また横になっておりましたが、枕から頭を上げ、一行を迎え、遠路を急な呼び出しに応じてくれたことを労(ねぎら)えば、助(すけ)のほうも蘇られたことを喜んで祝いの言葉を連ねるのでした。
それから、興義は、こう口を切ったのです、
「皆の衆、まぁちょっと儂の話を聞いてもらいたい。お前さんがたもよく知っておる漁師の文四じゃが、あんたがたは、あいつから魚を買ったじゃろう。」
平の助はそれを聞いて、驚いて、
「はい、その通りでございます。どうして和尚様はそのことをご存知なのでございますか。」
興義が答えるに、
「あの漁師、三尺あまりの大きな魚を籠に入れてお前さんの屋敷へ行ったじゃろう。お前さんは、弟殿と南向きの座敷で囲碁(いご)に興じておられたな。そばに掃守が侍(はべ)っておった。大きな桃の実に喰らいつきながら、囲碁の勝負を見守っておった。そこへ漁師の文四が、どでかい立派な魚を持ってやって来おった。皆の衆、それを見て大喜び、高坏(たかつき)に盛ってある桃を漁師に与え、盃も差し出し三献(さんこん)と参りましたな。それから、料理人が得意気(とくいげ)にその魚を捌(さば)きおったわ。どうじゃ、ここまで、和尚(わし)が言うた通りじゃろうが。」
これを聞いた平の助、弟十郎、家臣掃守は驚きのあまり動転してしまった。そしてなぜそんなに詳しくご存知なのか、お教えくださいとしきりに頼んだ。
それを受けて、興義は語り始めた、
「儂は、このごろ、身体(からだ)の具合が悪うて、もう死んでしまったとも知らずに、熱のある身体をちょっと冷まそうと、杖にすがりつきながら、寺の門を出て散歩してみた。すると、なにやら籠から放たれた小鳥のように、大空に帰ったような、病身じゃいうことを忘れるほど晴れ晴れした気分になって、山へ村へと歩いて行ったのじゃ。そうして、湖の畔(ほとり)に出た。湖水(みず)の碧々(あおあお)としているのを見るにつけ、夢見心地になって水浴びをしたい思いがしきりに起り、着物を脱いで、深い湖(うみ)へ飛び込んだ。そして、あちこち泳ぎまわった。子どものころから水泳は得意ではなかったが、なんだか自由自在に水と戯れておった。いま思えば、馬鹿馬鹿しい夢を見ておったのかもしれん。が、人間が水に浮かんで楽しんでおっても、魚が水の中を泳ぎまわるようなわけには行かぬ。儂は、そのとき魚が羨ましいなぁと思った。と、すぐ横にいた大きな魚がこう言いよった、『和尚さんがいま願っていることを叶えてあげましょう、ちょっとお待ち下さい』と。そしてぐんぐん底の方へ潜って行きよった。しばらくすると、冠(かんむり)を被(かぶ)り装束(しょうぞく)に居住まいを正した人物が、さっきの大魚に跨(またが)ってやって来た。後(うしろ)にはたくさんの魚や亀を従えておる。そして、儂に向ってこう言いよった、「海神(わだつみ)の詔(みことのり)をお伝え申す、貴殿御老僧はかねてより放生(ほうじょう)の功徳(くどく)を重ねておられ、いま、湖(うみ)に入り魚のように水の中で遊びたいと願っておられる。いましばらく貴殿に金の鯉の衣裳を授け、水中の都の楽しみを味わっていただくと致(いた)さん。ただし、忠告致しておくが、餌(えさ)の香(かん)ばしい匂いに騙(だま)されて、釣糸にかかり、身を滅ぼすような愚を犯してはなりませぬぞ。」と言うと、すっと消えて行ってしまった。※2
これはなにごとぞと驚きつつ、自分の身体を振り返って見ると、身体は金色に光る鱗に覆われた鯉になっていた。それを変だとも思わずで、尾を振り鰭(ひれ)を操(あやつ)って、気の向くままに湖を逍遥した。
まずは長等(ながら)の山おろしの風に沸き立つ湖(みずうみ)の波に身を乗せ、志賀の大湾(おおわだ)の波打際へも行ってみた。すぐそばを歩く人が着物の裾を濡らすほど近づいて来て、慌てて比良(ひら)の山影が映る湖(うみ)の底深くまで逃げたり、堅田(かただ)の身を隠すところのない漁火(いさりび)に寄り添ってみたのも、思えば夢のような心持ちじゃった。真夜なか、湖の水面に映る月は、鏡山(かがみやま)のいただきを煌々と照らし、八十(やそ)の湊(みなと)の隅々まで明るく、沖(おき)の島(しま)や竹生島(ちくぶしま)の朱塗りの玉垣が波に映って揺れているのも、得もいわれぬ美しさじゃったわい。伊吹山(いぶきやま)から吹く山風に漕ぎ出てくる朝妻(あさづま)の渡し船に、岸辺の葦(あし)の間のうたた寝を襲われたり、矢橋(やばせ)の渡しの船頭の巧みな竿操(さおあやつ)りの横をすり抜け、瀬田(せた)の唐橋(からはし)の番人に見つけられて危なかったこともあった。※3
こうして、昼間の温かいときは水面に浮び、風が吹く荒天の日には、水底深く潜って遊んでおった。
急に空腹を感じてきた。なにか喰い物はないかとあちこち漁(あさ)ったが、なんにもない。あぁ腹が減ったと狂おしい気持になって餌を探していると、文四が釣針を垂らしているのが見えた。いい匂いだ。思わず口に入れそうになったが、そのとき湖(うみ)の神の使いの言った言葉を思い出した。そうだ、儂は、御佛(みほとけ)の弟子なのじゃ、しばらく食(もの)を喰わないくらいで、どうして、あんな餌に飛びつくような軽々しいことをするものか。と、いったんは釣針から離れた。しかし、空腹はますます激しくなる。あぁ腹が減った、と思うと、もう我慢ができなくなった。よしんば釣り上げられたとしても、なんとかなるのではないか。文四とは顔見知りじゃ、と考えると、もうたまらん。ついに餌に喰らいついた。文四は、待ってましたと釣り糸を引上げ、儂を捕まえよった。『こりゃ、なにをしよるか』と儂は叫んだが、奴(やつ)めなにも聞こえないふりをして、儂の顎(あご)に縄をかけ、舟を葦の間に繋(つな)ぎ、籠(かご)の中へ儂を押し込んで、お主(ぬし)の屋敷へ持って行きよった。
お主は、弟殿と南向きの部屋で囲碁に興じておった。掃守が傍(かたわら)に坐って桃を頬張(ほおば)っておる。そこへ文四が大きな魚を持って来たのを見て、皆の衆、大いに歓声を挙げおった。儂は、そのとき皆の衆に向い、声を張り上げて、『おのおのがた、興義を忘れたのか。儂じゃ、興義じゃ。縄を解いてくれ。寺へ帰してくれ。』としきりに叫んだが、皆の衆は誰も知らん顔して、手を拍(う)って喜び合っておる。そこへ、料理人がやって来て、まず儂の両眼を左手の指でぎゅっと?拙(つか)み、俎(まな)板(いた)の上に儂を放り投げ、右手には研ぎ上げた包丁を振り上げた。儂はもう苦しさのあまり、あらん限りの大声を挙げて「佛弟子を殺すとはなにごとぞ。助けてくれぇ。助けてくれぇ。」と喚(わめ)き叫んだが、誰も儂の声を聞いてくれない。あぁ、ついに包丁が、と覚悟したところで、眼が醒めた。」
これを聞いた平の助始めみんなは、これは不思議なお話だと感じ入り、「和尚さまのお話で、心当りがござります。あのとき、鯉は大きな口をパクパク、なにやら話しているふうでした。しかし、声は少しも聞こえませんでした。こんなお話を聞いて、いやはや、なんとも恐ろしいことで」と言い、平の助は、すぐに従者(じゅしゃ)を走らせて、残っている刺身を湖に捨てさせたのでござります。
興義は、この病癒(い)えたあと、長寿を全うなされました。死に際に臨んで、興義が自分の描いた鯉の絵を湖水に散らすと、絵の中の鯉は紙を離れて、水の中を泳いで行ったそうでござります。そういう次第で、興義の絵は、いまに遺(のこ)っておらないのでござります。
興義の弟子の成光(なりみつ)という者、興義のこの神妙な画技を継(つ)いで、当時は知られた画僧でありました。彼は、左大臣(さだいじん)藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)のお邸(やしき)に鶏(にわとり)の絵を描いたことがありましたが、本物の鶏がこの絵を見て蹴り上げたということが、古いものの本に誌(しる)されてござります。※4
※1 「三井寺」は「園城寺」の別称。
※2 この人物は、中国に伝えられる「琴高(きんこう)仙人」を彷彿させる。日本でも、室町時代以降、狩野元信、雪村周継、尾形光琳、酒井抱一と、「琴高仙人図」の作例は多い。
※3 この辺りの記述は絵画の伝統的主題「近江八景(おうみはっけい)」を下地にしている。「近江八景」とは、琵琶湖南部の風景を中国の古画「瀟湘(しょうしょう)八景(はっけい)」に見立てて名付けたもの。「比良(ひら)の暮雪(ぼせつ)」「矢橋(やばせ)の帰帆(きはん)」「石山(いしやま)の秋月(しゅうげつ)」「三井(みい)の晩鐘(ばんしょう)」「堅田(かただ)の落雁(らくがん)」「粟津(あわつ)の晴嵐(せいらん)」「唐崎(からさき)の夜雨(やう)」の八種。
※4 「古い本」とは『古今著聞集』のこと。
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