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「老子」と岡倉覚三(筆記録)
                                木下長宏

岡倉覚三の思想全体の骨格を作っていたものは何かといえば、ボクは「老子」だと答えようと思います。「老子」というと、老荘思想、道教だなと思われるでしょうが、特に「老子」と言った方が彼の生き方に沿っていると思います。今回と次回(4月20日、7月13日)、三回に分けて、そのことを勉強していきます。そのへんの微妙なところを分かっていただけるようなお話をしたいと思っております。
今日が一回目で、岡倉の仕事と思考過程の中で観察できる「老子」を考えてみたい。つまり、きょうは「『老子』と岡倉覚三」というタイトルをつけた「総論」であり、二回目の次回は、岡倉の著書の中で一番重要だと思われる『茶の本』を読み解く鍵としての「老子」について考える、「『老子』と岡倉覚三」、三回目は、岡倉が書き遺した漢詩から、彼の「老子」へ思索の跡を辿るようなことを試みて、「各論」としようという所存です。
岡倉覚三については皆さん、これまで勉強されてこられてそれぞれの考えをお持ちでしょうが、ボクなりのまとめ方がありまして、それをご紹介したいと思っています。ボクは3三十代の初めに、紀伊國屋書店におられた文芸評論家村上一郎さんと出会いました。熱血の歌人であり、思想家でありました。近代の幕末思想について非常に熱心に勉強されていました。同時に編集者として本の出版にも関わっておられました。そこで岡倉天心のことを、ボクは当時はまだ「天心」と呼んでいましたが、その「天心論」を書くよう村上さんから勧められました。そうして紀伊國屋新書『岡倉天心―事業の背理』を書いたのが、1973年で大学院にいたころです。岡倉との付き合いはそれ以来です。村上一郎さんは亡くなられましたが。
その本を出したおかげで平凡社が岡倉の全集を出すのに際して声をかけていただき、全集のテキストの校訂をボクが担当しました。いま読み返しますと、若気の至りというか間違いだらけです。この全集で研究しておられる皆さんには申し訳ないと思っています。その間違いに気がつかなかったボクの上にいた偉い人たちも問題だなと思っていますが…。岡倉の手書きの判読の難しい文書や手帳や英文の原文を全集に収録するために、印刷用に原稿化したのはボクなのです。全集のテクストの読み間違いは全てボクの責任です。今日の話の関連では、岡倉の書いた孔子と老子についての文章。これは「孔子の時代」と「老子の時代」というふうに別々にまとめていたのを、全集では「孔子の時代と老子の時代」というタイトルで一緒にして第2巻に入っております。その「老子の時代」のところで、岡倉は『老子』の文章を自分で英訳して引用している。それを著名な思想史家の橋川文三さんが訳されて日本語版が全集に入っているのですが、その岡倉の引用の『老子』の本文の第何章かというのが間違っている。いま、ボクは読んでみると恥ずかしい。ボクは校訂のときに気がつかなければいけなかった。橋川文三氏も翻訳しながら気づいていない。岡倉が若いとき、奈良などで文化財調査したときに書きつけたノートは、実物を前に和紙を横向きに綴じたノートを作って、墨でスケッチして、どんどん書きこんでいるのです。仏像などをお寺のなかで見ながら書いていますから走るような草書の崩れた字で、しかも独特の癖のある書体で書いているのですが、当時ボクはとにかく判読しました。ですがいま、改めて読んでみますと、読み間違ってるではないかとも思えるのがある。そのいくつかはミネルヴァの『岡倉天心』で訂正しましたが、切りがないですね。その原資料は残っていますから、もう一度、若い人たちの力を集めて新しい全集が出ればいいなと思っています。
先ほど「岡倉天心」と言いましたが、ボクは、そういう言い方をすると歴史的には問題が多いのではないかと気づき、「岡倉覚三」という呼び方に変えました。それが2005年です。この年、ミネルヴァ書房の日本評伝選から『岡倉天心―物ニ観ズレバ竟ニ吾無シ』を出しました。この時もう一度岡倉を勉強し直しました。そして「天心」と呼ぶのは間違いだと気づき、それから十何年勉強すればするほど、反省することがあり、この本ももう一遍書き直したいと自分で考えるほどです。その2005年から十何年。その意味では今日はボクの「岡倉覚三」に関する最新の懺悔と反省です。
横浜国大を退職しまして、私塾<土曜の午後のABC>を開き、最初にそこでお話ししたことを『美を生きるための26章―芸術思想史の試み』として2009年にみすず書房から出しています。それは、ABCと並べていって「A」は「アルベルティ」、「B」は「蕪村」というふうにテーマを追いかけ、「O」のところが「岡倉」です。そこでは「岡倉覚三」と呼んでいますが、そこでお話した内容もいまでは訂正したいところがあります。勉強すればするほど考え直さなければならないことが出てくる。岡倉という人は奥が深く、それくらいすごい人なんだろうな、ということを皆さんも覚えていてくれればうれしいです。
そこで「岡倉覚三」、後に「天心」と呼ばれる人が、その生涯どんな活動をしたのだろうと、整理すれば、レジュメにあるように、ボクは活動時期を3期に分けます。まず1期は東京美術学校創設に関わり、欧州旅行をして、美術学校の校長になります。古社寺の実地調査をやり中国にまで調査の足を伸ばします。この経験が彼の美についての思索に大きな役割を果たします。並行して帝国博物館の運営に関わっています。理事であり美術部長でした(これが「序」の時期です)。第2期は美術学校校長の職を追われ、帝国博物館の理事・美術部長も辞め、そこから立ち直ろうとして日本美術院をつくりました(「破」の時期です)。第3期は、その美術院の運営に失敗、インドへ旅行してからボストン美術館で延べ9年間美術館運営に携わり、それに伴う思索と著述の日々が続きます(「急」の時期です)。その9年間、ボストン美術館に務めながらアメリカで考えたことはとても大事です。それはまだ十分研究されていないという気がします。
岡倉の活動を特徴づけまして、この3期にそれぞれ「序」「破」「急」と付けました。たいていの岡倉を論じている書物は「起承転結」にまとめています。亡くなる50歳で「結」なのですね。50歳で「結」は早過ぎます。ボクは岡倉は未完成のまま逝ってしまったと考えます。ですから彼の最後の9年間は「急」なのです。もうちょっと生きていれば、もっといろいろなことが出来たはずなのに、という思いを残して死んでいきました。ですから、「序破急」で眺めると、岡倉覚三という人が生き生きと捉えられる気がします。
そして岡倉が大正2年に死んで、「天心」と呼ばれる時代がやってきます。岡倉の死後の「天心」の時代は2期に分けられます。まず、亡くなった後、「大東亜共栄圏」思想の予言者にまつりあげられます。岡倉が死んだ当初はそうではなかった。横山大観や斎藤隆三たちが再興日本美術院を作り、その時から「天心」という呼び名が広がっていきます。生前、岡倉は漢詩の号だとか近親者への手紙の最後に「天心」という号を使っていた。同じような号として「混沌子」とか「遂初居士」、「碧龕(へきがん)居士」とかもあり、それと同程度の意味合いで「天心」という号を使っていた。亡くなって東京美術学校で大法要が行われたときに、法隆寺の和尚さんが「釈天心」と法名を付けた。それから日本美術院の人たちは「天心」先生と呼ぶようになった。亡くなった時の新聞報道ではすべて「岡倉覚三氏死す」です。そこまではよかったのだけれど、その後、「アジアは一つ」という文言が持ちあげられ、「岡倉天心」は「大東亜共栄圏」思想の予言者として、別の言い方をすると侵略的な「大アジア主義者」と仰がれるようになります。戦後は急転換して、侵略的な部分を消去して近代美術行政の先駆者、日本美術を喧伝した国際人、「東西の架け橋を築いた」平和的な「アジア主義者」と評価されてきました。そうして戦後も「岡倉天心」と呼ばれていきました。戦中と戦後ではまるで別人のように違うのに、呼び方だけは共通していて、しかもそれが、ご本人が生きていたときにはそれほど重要な号ではなかった、というのは「岡倉覚三」自身のまったくあずかり知らぬことだけれど、岡倉を考え論じようとする現代の人間は、きちんと受け止め直しておかなくては無責任だと思います。
本題の岡倉の著述に見られる「老子」に入る前にもう一つ付け加えますと、岡倉が1903年からわずか1年、インドに滞在します。その時、『東洋の理想 (The Ideals of East) 』を出版しました。直訳すると「東洋の諸理想」で、「諸理想」の「諸」がとても大事なのですが、冒頭「Asia is one.」と書いたことで「理想」がまるで「一つ」のように受け取られていきます。と同時に、このインド旅行が重要視されます。これも岡倉没後の岡倉を扱う人たちの問題です。「岡倉覚三」を論じるには「岡倉」を大きく二つに分けておく必要があります。一つは、「岡倉覚三」の時代(岡倉が亡くなるまで)。もう一つは、「岡倉天心」の時代(岡倉没後)。「思想史としての岡倉覚三」という意味でも、この両方を見据えて「岡倉覚三」を考えねばならないようです。
彼はいつも海外旅行で啓発され、次のステップにそれを活用する人でした。10年前の中国旅行でも彼は、すごく啓発され、中国文化の日本に対する重要さを実感として学び、「中国」は一つではない「南」「北」ではまるで違うということを体験として学んでいます。この中国旅行を、従来の岡倉研究家はあまり重視してきませんでした。インド旅行のほうがずっと重視されてきました。それは、「岡倉天心」と言われ出した時代からの日本の近代現代の中国観、はっきり言えば中国蔑視が底にわだかまっているからです。日清戦争が起きるのが明治27(1904)年から28年にかけて、朝鮮併合が明治43(1910)年、それから大正12(1923)年関東大震災の朝鮮人虐殺。日本人全体が中国人蔑視、朝鮮人蔑視の風潮に染まっていった時代。一方でその時代、岡倉は一生懸命中国に思いを込めて美術を観ようとしていて、独自の思想で中国と向き合っていました。中国旅行から得たことが大きかったからだし、その一つが「老子」への取り組みですね。
ですから、インド旅行を重視するなら、それ以上に中国旅行を重視しなければならない。その旅で、中国は南と北と異なった文化を形成してきたこと、老子は「南」中国の思想的柱だと気付いたようです。そうして老子や荘子を勉強します。
『東洋の理想』の「Asia is one」に戻りますが、この「Asia is one」という語句は岡倉が書いたとボクは思っていません。序文「The Range of Ideals 諸理想の広がり」と最終章の「The Vista展望」はインド思想研究家のニヴェディタ(本名・マーガレット・E・ノーブル、英国人女性)が書かせたものだとボクは読みます。もともと岡倉が書いた草稿はあったのでしょうけれど、それにニヴェディタが手を入れているのです。そして「Asia is one」は岡倉ではなく、ニヴェディタが書き入れた、とボクは睨みます。ニヴェディタが書いたこの『東洋の理想』のイントロダクション(序文)の最後は「アジアは一つ」で終わっています。” Asia,the Great Mother, is for ever One.”(「偉大な母、アジアは永遠に一つである。」)とあって、原本ではそれと見合うページに ”Asia is one.”で始まる本文があるのです。この“Ideals of the East” の「諸理想の広がり」と「展望」は、その間にある日本の美術史を語る文体と、トーンが違います。『東洋の覚醒(The Awakening of theEast)』として、戦中にでっち上げられた本がありますが、これも、同じで、これは岡倉のノートが遺っていて、岡倉ではない別人の手でいっぱい修正されています。戦中にはその手を入れた方を出版しているのですが、“Ideals of the East”の序文と展望もそんなふうに手を入れられたものではないか。“Ideals of the East”のほうは、残念ながら、もとの原稿が残っていないのです。
岡倉は一度も日本語で「アジアは一つ」と書いたことはありません。アメリカに行っても「Asia is one.」と書いたこともないし、喋った記録もありません。『東洋の理想』に「Asia is one.」とあるのが唯一の例です。『東洋の理想』の序文では、ほかに「if Asia be one,(もしアジアが一つというのなら)」という一句がありますが、それだけです。それに、この一句「be one」ですと「Asia is one.」と先にあるのを留保しているニュアンスがありますね。その「Asia is one.」を戦中の日本人はどう扱ったかと言いますと、今も東京藝術大学の構内にある平櫛田中作の像の後の壁を見ると分かります。「Asia is One.」と「o」を大文字に変えたのです。岡倉に断りもなく。もうその時は彼はこの世にいませんけど。
ともかく、こうしてまで、当時の人は「Asia is One.」を広めたのでした。そのへんはなかなか手が込んでいる。ですからこの「Asia is One.」の扱いは注意しないといけない。これを心得て岡倉を考えるとどうなるかとすると、中国旅行とインド旅行は両方ともその重要度は同じくらいだと考えるべきだと気がついたわけです。
そこで、「老子」ですが、レジュメにも示しましたが、岡倉が「老子」について言及したり引用しているのを拾うともっとたくさんになるのですが、「老子」をテーマにしている文章としてはそこにある通りです。ほかに「道教」と題されたノートなどありますが、今日は「老子」に絞ります。
1899年の「The Confucian Age」「The Laoist Age」は 未完原稿で、どこかで出版しようとしたらしいです。日本語では「孔子の時代と老子の時代」として全集の2巻に入っています。それから、同じ年に「文藝史談解題」というノートに書き散らすようにまとめた、やはり解読するのが大変なノートがあります。そこに、「Laoist Age」というタイトルで、横に日本語で「老教」と書いた英文の文章が入っています。「Laoist」という単語は、岡倉の造語です。現在、英語の使用者たちは老子、荘子と道教をひとまとめにして「Taoism」と言っていて、直訳すると「道教」です。でも、岡倉は「Laoism」と「Taoism」を分けようとした。今日の話の中でもボクの大事なテーマです。ともかく岡倉は1899年、36歳のときに「The Laoist Age」という文章を書いています。
その後、1903年にインドへ行きまして『東洋の理想』を書きます。その中身、日本の美術史に当たる原稿は日本で書きました。「アジアは一つ」で始まり、「内からの勝利か、それとも外からの力づくの死か」という非常にアジテーショナルな一文で終わりますが、真ん中の日本の美術史のところだけは岡倉が日本で書いていて、それにニヴェディタが序文と最終章をつけさせてロンドンで出版したというのがいちばん真相に近い経緯ではないか、とボクは思っております。そういう意味ではこの本は勝手に作られた本で、岡倉は不愉快であった。明治44年、亡くなる2年前、東大で「泰東巧藝史」を話した講義ノートは、これは文章になっていないと言っていいくらい杜撰なノートですが、岡倉にもっと時間があったらいい文章になるよう手を入れ、すごいアジア美術史になったはずと思いますが、これの掲載を岡倉はOKしているのです。その「泰東巧藝史」を掲載した『研精美術』の編集長が、こんど“The Ideals of the East” を「東邦の理想」というタイトルにして、翻訳したから出版したいという申し入れをしました。すると岡倉の返事は、あの本はインドにいたときにばたばたと書いたもので、訂正したいところばかりです。どうか出版しないでください、というものでした。「泰東巧藝史」はOKと言っているのに、「東邦の理想」はだめという岡倉の気持を汲み取ってあげたいです。六角紫水の回想にもあったと思うのですが、ロンドンの出版社から増刷の知らせが来たそうですが、岡倉先生は印税はもらっといて、しかし、訂正は返そうともしなかったそうです。表紙の著者名からしてKakasuとなっていて(ニヴェディタも序文でKakasu とやってます)、それすら直そうとしたくないくらい、つまりもう見たくもない自著だったということを、この際ちゃんと見届けて岡倉論を展開しなければならないと思います。
この“The Ideals of the East”の第4章は「Taoism and Laoism―The Southern China」で、老子と荘子を扱い、南方中国をとり上げています。
それから3年後の1906年“The Book of Tea”の第3章で「Taoism and Zennism」を書きます。まず、日本語にすると「道教とゼンニズム」、このZennismも岡倉の造語ですが、いま英語ではzenで通じます。当時の西洋では、まだ「禅」という言葉が普及していなかった、そこでZennismとしたのですね。それをわきまえて日本語に訳し直せば、「道教と禅」です。お茶の話をするのにわざわざこの道教の章を設けて、いくつかの『老子』の文を引用しているのです。ボストンに行っている間はずっと英語で、熱心に老子とアジア美術の関係を文章にしようとしています。亡くなる2年前、1911年にボストンで講演をしました。そのタイトルは「Religion in East Asiatic Art (東アジア美術における宗教)」です。もう一つ、それと対になっているのが「東アジアの絵画における自然」で、この二つは講演でして、それが原稿に起こされ、ボストン美術館の美術館報に掲載されました。
この「Religion in East Asiatic Art (東アジア美術における宗教)」で、岡倉は、東アジアの宗教には、儒教と仏教と老子教(老教)があって、儒教が倫理、仏教が信仰、老子教は芸術にその活躍の場を発揮した、と指摘しています。岡倉の言葉通り引用すれば、「われわれは倫理を孔子に、美学を老子に、宗教を仏陀に頼り切っています」です。宗教をバックに東アジアの芸術は花開いた、とも言っています。
とりあえず、「老子」については、岡倉は以上のような文章を残しています。

では岡倉はどういう「老子」観をもっていたか。最初若いころは、やはり老荘思想と道教を一緒にして理解していました。年を重ねるとともに、「道教」と「老子」、さらには「老子」と「荘子」は違うものであることを理解し、その過程で彼自身は「老子」の世界に深入りしていきます。
岡倉は1893(明治27)年、30歳のときに中国大陸探検旅行をしたというのは先に申しました。清の時代ですから中国人を装って弁髪の鬘をつけて7カ月各地を回ります。そのとき、「シナはひとつではない。南北で異なる文化を形成している」という認識を強くしました。当時美術学校の生徒だった早崎梗吉に中国語を勉強させ、彼の通訳を介しながら、弁髪で中国人になりすまし、大変な現地探検といっていい旅をしています。日記を読むと南京虫に食われたと誌していたり、そんなところに泊って旅行を続けます。そうして、南北はこんなに違うのだということを体感します。それが彼の中国文化観のベースになっていきます。もともと彼は中国の漢籍をかなり勉強していました。その上で現地での体験から、さまざまな新しい知見を得たのです。
その分析は、「支那南北ノ区別」というノートに書いてありますが、まず北方(黄河域)で、中国古代文明が興る。今のように交通機関が発達していないときに行っているということを心に留めておいてください。この後、中国は人民共和国になって、特に1950年以降古代遺跡の発掘が進みます。現在は中国の古代の様子が分かってきました。その結果を岡倉が知ったらどんなに喜ぶだろうと思います。そんなことが全然見えない時代に岡倉は大陸探検に行ったわけです。
中国古代文明が周の時代に入って、孔子が登場して儒学を完成させます。孔子の思想は何かと言ったら、岡倉は「コミュニズム」と呼んでいます。Communismは岡倉の造語です。現代ではカール・マルクスのコミュニズムを思い浮かべますが、マルクスは岡倉よりちょっと先輩ですがまだ一般にはそんなには普及していなかった。おそらく岡倉はマルクスは読んでいないでしょう。ですから彼のいう「コミュニズム」は「コミュニティ」という言葉から得た造語でしょう。彼は英語で新しい言葉を作るのが好きだった。ZennismとかLaoismとかですね。Communismも同じで、ここは「共産主義」と訳すのは避けたい。彼は「共同体主義」のようなことを言いたかったのではないかと推測しまして、ボクは「共同(体)主義」ととりあえず訳したいと思います。岡倉の言うコミュニズムというのは、主君や親や目上の人を敬って仁と義を守り、隣人を愛し、礼を尊ぶことに献身すれば社会は安泰する、という考え方を基盤にした社会のあり方です。一番大事なのは主君を大事にしろ、親の言うことを聞いて敬愛し、隣人を愛せということで、隣人を愛せというとキリストのようですが、ただ愛の形がキリストの教えと全然違います。言葉は同じですが…。『論語』の中で、「隣人を愛せ」と書いてあります。礼をもって献身すれば社会は安泰する、個人の倫理は共同体に捧げられる。それがいいのだ。偉大な君主は皆、それを民衆に広めてきた。それが孔子の教えだ、と岡倉は整理しています。
北方のこの「共同体至上主義」に対して、南方(揚子江域)で「個人主義」思想が生まれたと岡倉は言います。「老子」は個人主義だ、というのが岡倉の捉え方です。孔子のコミュニズムに対して、「老子」はインディビデュアリズムを唱えて南方で広がった。現代の言葉で言うと、個性と自由を重んじ、宇宙と自然の摂理を体現して生きることを目指す。これが「老子」の言う「タオ」で、「道」と書きます。「みち」でもなく「どう」でもなく「タオ」です。これは「老子」を理解する上で欠かせません。
「老子」の言った「タオ」ですが、この「タオ」は同時に孔子も唱えました。こちらは「みち」「どう」の概念に発展していきます。このタオの概念、解釈の違いが多分中国の思想を二分しているのです。
孔子と老子の思想の対立ですが、タオという同じ言葉を使っていながら意味が違うのです。日本では孔子の『論語』で言うタオの方が主流になっていきまして、その「道」が江戸時代に武士道に生かされ、明治時代には柔道、剣道、相撲道にまでに入ってきます。『論語』を読むとき、「道」という漢字を「みち」と訓読しますが、『論語』はそれでもいいでしょうが、『老子』がいう「タオ」は「道(どう・みち)」とは違います。みなさんが『老子』を繙かれる機会があった場合、「老子」の「道(タオ)」は剣道とか柔道とかの「道」よりもっと広い宇宙論的な意味を含んでいると心得て読んでください。
「老子」という人物が本当にいたかどうかは怪しいのです。孔子は確かにいました。前漢時代の歴史編集の家系の司馬遷が『史記』を書き、そこに「老子」がいたということを書いているのですが、そのころ既に『老子』という本を書いたと思われる人物が三人いると誌しています。『老子』と題された本が出て2、300年くらい後でしょうか、司馬遷の時代にはもう『老子』の著者は特定できないほど神話化されていたのです。ボクの考えではおそらく「老子」という名のグループがあってその人たちが「老子」という名で書いたのではないか。「老子」の「老」は偉いという意味で、「子」というのも「先生」という意味ですからニックネームみたいに使われた。「老子」という名をつけておいて皆で書いていったのだと考えてもいいかもしれません。そのころから『老子道徳経』と呼ばれるようになったようです。『老子』を「荘子」が引き継いで、「老荘」思想の考え方から「道教」が生まれます。そうやって生まれてきた老荘思想は「道学」とも呼ばれますが、英語では「タオイズム」と言っております。タオイズムは「物質主義」的と「哲学」的の二つの流れを生んだ、と岡倉は言っています。物質主義は「マテリアリズム」と岡倉は呼び、「唯物主義」と訳したくなるのですが、これもそう訳さない方がいいですね。この物質主義的な流れが、不老長寿などを願う「道教Taoism」を形成し、中国や台湾に道教の廟があちこちにありまして、いまもたくさんの人が長い線香を立ててお参りをしています。もう一方の哲学的な方は「老子教Laoism」で、ここで岡倉は造語を使っています。一般の理解では「老荘」と言って老子と荘子を分離しないのですが、岡倉はその違いに敏感でした。これは、彼の人生後半になってそれを意識し出したようです。
老荘思想と儒教は補い合っている、どっちもお互いが補い合って一つになっている、というのが江戸時代の知識人の考え方なのでした。中国でもそうなのです。「儒道互助」、儒教と道教はお互いに助け合って一つになるという言葉がありました。若い岡倉もその考えで勉強しはじめます。現在も「儒道互助」と考えている人が主流かもしれません。岡倉は江戸時代に伝わっていた注釈書の『老子』を読んでいたはずです。それらはみな「儒道互助」の考えで『老子』を読解しています。『老子』の一つ一つのの文章に注釈を付けていくということは昔から中国でも行われていました。江戸時代、日本の学者が注釈したものが数冊出ております。そのうちの一冊を岡倉は海外へ行くときにも持って行ったのだと思います。そうして、『老子』を深く読み込み、『荘子』と道教との違いを考えたのでした。ですから、もし中国の思想史、哲学史を研究している人たちが岡倉のこの言葉を謙虚に聞いたなら、すごい斬新な日本人の中国哲学理解を展開できただろうけれど、残念ながら誰もやってくれませんでした。
まとめますと、岡倉は、「老子」と「荘子」と「道教」の三つの流れを「老子教Laoism」と「道教Taoism」に分け、北の思想(儒)と南の思想(老・道)は対立しながらも、妥協して溶けあったりして、中国の思想の歴史を形成していると考えたのでした。「儒教は倫理に、仏教は信仰に、老子教は芸術に」その活躍の場を発揮した、とボストンで言ってます。

つぎに、ちょっと岡倉から離れて『老子』はどんな書物かと考えておきましょう。いつ現在読まれているような形になったのかは、不明です。いま、『老子』を読みたいと思ったら大きな書店の文庫本の棚に行けば4、5冊はすぐに見つかる。その本文はたった5000余語から成り立っています。「余語」と言ったのは、伝わっている版によって文章が微妙に違うので5000と言い切れないのです。ある本は5011だったり、あるものは5004だったり、4950だったりです。だから5000余語です。その5000余語が81章に別れています。ですから『老子』は5000余語、81章だと言えば間違いはない。それに解説を付けたのがいまは手に入るわけですけど、この81章に分けられ、整理されたのは漢代以降です。紀元前2世紀〜紀元後1世紀ごろ。それからずっとその形が伝えられてきました。司馬遷によると老子は孔子と同時代人、周の頃の人ですが、その後『老子』は漢の時代に成立したという説が有力になってきました。確実な証拠がないから絶対そうだとは言えないのですが、江戸時代の日本でもそう考えていました。
ところが1973年に、紀元前200年くらいの前漢の貴族の墓から絹布に文字が書かれた帛書(はくしょ)の『老子』写本が、1993年には紀元前300年から400年ころの楚墓から、竹の札に写書した竹簡(ちくかん)の『老子』写本断片が発掘されました。竹簡は断片的ですが、帛書の方はかなり全体像が見える、でも腐って読めないところがあったりして完全ではなかった。中国の人たちがそれを研究しまして、その成果が20年ほど前に公表されました。その結果、紀元前5世紀、戦国時代から春秋時代にかけて、既に『老子』は生まれていたことが分かりました。もちろんこれは岡倉が知らないことで、岡倉が生きていたらさぞびっくりしたことでしょう。
もう一つ大事なことは「老子」は『老子道徳経』と呼ばれてきたことです。その書名はおそらく漢の時代につけられたと先ほど申しましたが、その呼び名が漢の時代以降、ずっと続いてきた。もちろん『老子』と書いた写本もありますが、大体『老子道徳経』と呼ばれている。だから73年と93年に帛書と竹簡が出てくるまでは、『老子』は『老子道徳経』の略称と受け取られていました。岡倉は『老子道徳経』という名が後世につけられたことを気付いていたようです。本当に確信していたかどうかは分かりませんが…。早くから自身の造語で「老子教」を意味するLaoismという語を用いて、「老子教」と「Taoism道教」を区別しようとしていましたから。内容を区別して命名しているのです。『老子道徳経』というのはその後の「道教」ですから。今となって、「そうだろう。おれの考えた通りだろう」という岡倉の声が聞こえてきそうです。「老子教」と「道教」を区別した岡倉でした。
ところで岡倉が持っていた『老子』の書がどこにもないのです。そもそも岡倉が遺した蔵書やコレクションが全然ないのです。どこに行ったか。岡倉がどんな『老子』の版本を持っていたか知りたいところです。ボクが全集の仕事をしたときには覚三の遺族の演出家の岡倉士朗さんのお宅だったと記憶してますが、インドの詩人プリヤンバタ・デヴィ・バネルジー女史が送った手紙がどさっと出てきたのですが、出てきたばかりの書簡を手にしたときはちょっと興奮しました。封のところに赤い蝋で封印してありました。なかなか味のある筆跡で、ボクはそれを開けたときに立ち会った一人なのです。それより前、ボクが生まれる前に出てきた『東洋の覚醒』という名前を付けられたノートがあります。さきほどもちょっと触れましたが、そのノート自体は、これは戦争の時代、「天心」を「アジアは一つ」の宣揚者として褒め称えていた時代ですから、都合よくその文脈の中で編集されておりました。岡倉はその文章を確かに書いているのですが、その文章に別の人の筆跡でかなりの書き込み、直しがあります。それを浅野晃が校訂して『東洋の覚醒The Awakening of the East』と勝手に名づけて出版します。その前に遺族が『理想の再建』というタイトルで日本語に訳して出版したのですが、すぐに書名を変えて出すのです。ここも何か変なのですが…。本当に岡倉は戦中のファシズムの犠牲になったという感じがします。そして時代の流れに沿った『東洋の覚醒』というタイトルを創作して、これは“The Awakening of Japan” という著書があるからそれにつなげるようにして意図的に捏造したのですね。平凡社が全集を出すときにも、まだ、岡倉の著書として扱われ、浅野晃が勝手につけた書名への疑いが、編集者の間でも問題にならないで出版されました。これも多分岡倉が聞いたら、「本にしてくれるな」と言ったに違いないと思います。ノートとして入れるのならいいのですが、単行本として英文四大著作の一つとしてとして扱うのは問題です。校訂に携わった者として猛省しています。
岡倉は、『老子』をおそらく江戸時代に何種類か作られた注釈書のどれかを読んでいたのだろうといましたが、それを懐に入れ、愛読していた。『荘子』を持ち歩こうとすると何冊もあって大変なのですが、『老子』だと薄いから簡単です。一冊の和綴本を、彼は、ボストンに行くときも鞄に忍ばせ、五浦で釣り舟を浮かべているときも、懐に入れて繰り返し愛読していたに違いないと思います。
岡倉の「老子」認識は当時のレベルの「老子」研究から見ましても極めて高い。ただ岡倉が「老子」は当時の中国南部で生まれたというのは言い過ぎで、もうちょっと北の方になります。揚子江と黄河の間くらいのところです。司馬遷は、老子が生まれたところは苦県(くけん―河南省鹿邑県)だと言っています。揚子江と黄河のちょうど中間のところです。そういう間違いもありますけれど、そういう事実上の間違いを越えて、文章の行間を読んで、タオイズムとラオイズムの違いを見つけているところなど、本当に鋭い読みだと思います。
わずか500余語で81章に分けられている、とても短い本だとさきほど言いましたが、そこに中国思想を二分する大きな思想を読むことが出来るのです。中国の古典は、じつにたくさん、ありとあらゆる種類がありますが、その中で『老子』は唯一、一切固有名詞が出てこない書物です。ただ、「かわ」という字は「河」「江」と使い分けていますが、一般に「河」は黄河だし、「江」は揚子江で、これは固有名詞と言えそうですが、その「河」も「江」も『老子』本文の中では、大きな川という普通名詞として使われていると読めます。そういうわけで、『老子』は、抽象的な思考を促してくれるのです。それにも岡倉は気がついていまして、「『老子』は抽象への愛に満ちている」と言っています。そして「抽象された純粋なものを重んじ」「ひたすら自我のうちに閉じ籠り、俗世間の束縛にとらわれない個人主義の精神が『老子』の精神だ」と言っています。
「文藝史談」と題したノートには、興味深いメモが残っていました。「文藝史談」の中で文章の流れを起こしていきますと、そのメモはどこにも組み込めないのです。で、全集には収録されず、欄外にあったメモとして巻末の「解題」に入れておいたものです。いま、ボクは、これは、岡倉の自筆で書かれていて、とても重要な、岡倉の中でも熟しきっていない、しかしとても示唆的な図式だと思っております。(図式はレジュメにあります。それを見てください。)
まず一番上に「易」とありまして、そこから二つの線が出て、片方は「(孔教)」。孔子の教えですね。それが「和合―儒」。これは「孔子の教えの内容を表しています。もう片「(老教)」とあって老子の教えです。その内容が「自主―道」と書かれている。その下方に「道」とあって、その「道」に集まる二本の線は、片方は「(老教)」の「自主―道」につながり、もう片方は「(老教)」から少し離れるようにして並べられた「古妄信仙」につながっています。孔教つまり儒教は「和合」で、老子教は「自主」が最大の特質だと言っているのです。「古妄信仙」の「古妄」は古い迷信という意味で、「信」は「神」の書き間違いでしょう。まあ「信仰」の「信」でもいいのでしょうけれど、ここは「道教」のことを言っているので、「神仙」とあるべきでしょう。このミスはいかにも急に岡倉が思いついてメモしたという機微が感じられて微笑ましいです。この「神仙」は下に書かれた「道(タオ)」につながっています。「自主―道」の「道」といちばん下の「道」は同じ文字でも意味の含みが違っている。下の「道」は「道教」の流れと合流しているというのです。いま「道教」とか「道学」とかいうけど意味の襞が重なっている。その違いが大切だ。と、なかなか深く繊細な解読です。もし、これにもう一つこの流れに追加するならば、「禅」がありまして、それは「自主―道」の下に来るでしょう。  
孔子教が「和合」「儒」で、老子教が「自主」「道(タオ)」で、その「タオ」にもう一つ「古妄神仙」が集まって「道教」が出来た。そういう図式の上、頂上に、つまり(「孔教)」と「(老教)」の上に「易」とあります。これは『易経』のことで、孔子が大事にした「六経(りくけい)」の一つです。「当たるも八卦当たらぬも八卦」の占いの原典です。内容は深遠難解で宇宙の原理のようなものを考えている書物です。『易経』は孔子が大事にしましたが、『老子』の考え方の中にも『易経』から学んできたものがあることに岡倉は気付いていました。でも岡倉の文章、レジュメに挙げました「老子」を語った文章ではそのことは書いていない。でもそれを直感で感じていて、これからもっと考えるべき課題としてメモしたのでしょう。この『易経』との関係をもっと考えなければならない、と思ってメモに遺して、死んでいったのでしょう。このメモを作っておそらく7年後『茶の本』を書き、そこで、ちょっと、「老子」の起源としての「易」のことを言っております。でもまだ、じゅうぶん理論を展開してはいません。そういう意味でもは、岡倉50歳で死にましたが、もっと生きていたら、さらに展開があったかもしれないと思います。『老子』の起源に『易経』があることは、現代でも非常に説得力があります。
最後に、もう一つ、岡倉と「老子」の関係で重要な漢詩を取り上げておきます。

仰天自有初(天を仰げば自ずから初めあり)
觀物竟無吾(物に観ずればついに吾なし)
星気揺秋劒(星気、秋剣を揺るがし)
氷心裂玉壺(氷心、玉壺を裂く)

 2行目の「觀物竟無吾」はボクがミネルヴァ書房から出した本の副題にしております。ミネルヴァの本は伝記シリーズの一冊でいろいろ決まりがありました。その人の名言を副題にするというのもその一つでした。で、ボクはこの一句を岡倉の思想を最もよく体現しているとして選びました。「アジアは一つ」は選ばなかったのです。岡倉は晩年にこの漢詩を書きましたが、これを大変気に入っていていくつも書いております。ペンでも書いていますし、頼まれて揮毫までしています。晩年の岡倉の心境をいちばん表明している詩といっていいいでしょう。その揮毫のところに「天心」という号が書いているものがあります。
2行目ですが、全集では、京大中国語学者の方が「物を観(み)れば」と訳しています。そう読むと岡倉の気持が伝わって来ない。「物を観(み)て」どうして「吾なし」などという心境になれるでしょうか。「観(かん)ずる」と読まなきゃいけない。ただ物を見るだけでなく、もっと宗教的な、心の中にその物のありようを入れ込む、あるいは物の中へ自己を溶け込ませるというニュアンスがある。ここは「物に観ずれば」と訓じたいと思います。物に観じてその物と一体になれれば、ついに自分は無くなり、対象と同化するという意味です。1行目の「天を仰げば」の「天」は星空のことを言いながら世界を生み出した「天」、いまで言えば「宇宙」を示唆していますね。ここもとても「老子」です。満天の星空を仰ぐと宇宙の始まりを感じるという表現ですね。
そういう気持、心がけで万物に接すれば、ついに自己を超越した心境に達するだろう。
「仰天自有初觀物竟無吾」の10個の漢字のうち「天自有初觀物無吾」の8つは『老子』の中にあります。このくらい岡倉は「老子」を消化し、自分のものにしていたということを知っておいていただきたいと思ってこの漢詩を最後に取り上げました。
とりわけ、この漢詩を岡倉が大変気にいっていたことを考えると、「老子」思想が岡倉の思想形成にいかに大きな働きをしていたか、実感していただけると思います。
漢詩というのは大体2行で一つのメッセージを作っていて、最後の2聯ですが、「星氣」の「氣」は『易経』の中に出てくる言葉で、「秋剣」の「秋」は季節の秋というより研(と)ぎ澄まされたという意味でしょう。星の放つ氣は愛用している自分の刀を研ぎ澄まし、震え揺るがし、それが大きな宇宙と交感している、刀の刃の閃きに宇宙の霊気を感じる。そして氷のように透き通った心の精気が、中国の宝である玉で作られた大きな壺をも切り裂くかのようだ、といった意味です。天を仰ぐと自ずからこの世と宇宙の始まりが感じられるという初句と「星氣が研ぎ澄まされた剣を震えさせる」の第三句が対応し、「天」と「星氣」が「宇宙」、「初めがあると感じる」自分と自分の愛用する劔はこの世のちっぽけな「個」という対応です。第四句「氷の境地になった時、玉壺が裂ける」というのは、無とならなければ吾は物を観じたことにならない、「物を観じる」という境地は「吾が無になる」ことであり、「玉壺のような聖なる壺が裂ける、罅(ひび)が入る」という比喩こそ相応しい、一種激烈な体験なのだ、ということでしょう。「氷」と「吾」は「個」として通じ合い、「玉壺」は「物、万物」の喩と読めます。第一句と三句が対応するように、第二句と四句が対応しています。全体が「宇宙」と「個」の対話という構図です。こうして、前の一聯と後の一聯が響き合って、一篇の詩を形成しています。大体、そんなふうに鑑賞していただければよろしいかと思います。本日はありがとうございました。
                                2019年2月23日 於横浜開港記念会館
追記:レジュメでは、総論と各論でせい二回と記してありますが、その後主催の岡倉天心市民研究会から、岡倉の
漢詩と老子との関係についても話すようにとのご依頼があり、各論は二回に展開することに相成りました。で、記録のほうでは、「老子と岡倉」というテーマで「三回」と書いた次第。


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