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「『茶の本』と老子」 その1

               (2019.4.20 「岡倉天心市民研究会」で喋った『茶の本』論のまとめです。)

                         木下 長宏

何年か前に『茶の本』を訳して、『新訳茶の本』と題して出版しました。いささか自負もしています。というのも、あまりにも今までの『茶の本』の翻訳が、不勉強で、岡倉覚三が亡くなって皆が「岡倉天心」と呼ぶようになってからのイメージに引きずられて訳しているからです。これまで十何冊かの日本語訳が出ていますけど、誰もやらなくて、誰かがやらなければいけなかったことがあります。その一つは、岡倉が中国の花の文献を詐蓮峅屐廚箸いΔ箸海蹐念用している出典です。きょう初版本を持ってきましたが、そこには岡倉の註で“Pingtze,”by Yuenchunlang.とあります。今までの訳者は、岩波文庫から始まってたくさんの方が訳されているのですが、それを「不詳」としてしまっている。岩波文庫版を訳された村岡博さんは岡倉覚三の弟の英語学者由三郎の弟子筋の人で、最初に『茶の本』完訳を企てられた開拓者だから、まずはこの英文図書を日本語で誰にも読めるようにする使命があるから「不明」としておいてもいいでしょうが、その後の訳者たちもそれに倣って、皆さんこぞって「不詳」としてきた。なかには、こんな註は「天心」を考える上で無用だとばかり、完全無視している訳者もいっらしゃる。ボクもこれはよほど見つけ難い文献で、原典が探せないのだろうか、と思っていました。
ところが、ボクがやっている私塾「土曜の午後のABC」で改めてThe Book of Teaを訳読しようということになって読み進めていったのですが、ちょうど私塾に来ていた東京大学の大学院生で日本文学を研究している台湾の留学生に、このPingtzeという英語綴りからどのような漢字がイメージできるか聞いてみたのです。そうすれば、『大漢和』とか『佩文韻府』とかを調べたら何か手掛かりが出てくるだろうと思ったのですが、彼女は即座に「これは『瓶史』です。著者は袁宏道、Yuen chun lang」とすぐ答えをくれました。長年「不明」だったところをいともかんたんに解明できたのは留学生のおかげであって、ボクもえらそうにできないのです。ただ、それまでの訳者はそういうふうにさえ、努力してこの註を解き明かそうとすることに関心を持たなかったことが大問題と思うのです。先輩が判からない、と言ったら、これは分からないものなのだ、ということでずるずると訳してきてしまった岡倉研究者は怠慢以外のなにものでもない、と叱りたくなります。
もう一つ。ぼくが最初にボストンを訪問したのが1973年です。岡倉は、ロンドンの古物商で働いていた冨田幸次郎さんをボストンに呼び寄せたのですが、その冨田さんがまだ健在でボストンの郊外におられ、紹介してもらったら、すごく歓迎されました。冨田さんの行きつけの中華料理店に連れて行ってもらったり、ご自宅にお茶に招かれたりして、いろいろなお話を聞かせていただきました。そこで聞いた一つが、ボストン美術館でボランティアで働く御婦人たちの集まりがあって、そこで、The Book of Teaの一部をお話したらしい。冨田さんが修復担当の助手としてボストンに来たときはもうThe Book of Teaは出ていたわけです。そのThe Book of Teaを出す頃に助手をしていたマクレーンさんによると、岡倉は講演が終わると下書きをポンとゴミ箱に捨てていた。マクレーンがそれを拾って、しわを伸ばして残しておいた、というのです。冨田さんが見た話ではないのだけれど、近くにいた人たちの話だから、そういうお話は大事に扱いたいと思います。
それと、第犠呂離織ぅ肇襦The Cup of Humanity ですが、これはThe Cup of Humanitea の駄洒落として訳したこと。なぜか、これまでの訳者はそうか解釈してきませんでした。これは、単なる言葉遊びというより、The Book of Tea 全体のメッセージを読み解く鍵になる言葉だと思います。
ボクの『新訳茶の本』の刊行は2013年で、明石書房が明石選書というシリーズを作って月に何冊か出さなければならない。そのためちょっと急がされて十分な校正が出来ませんでした。今日持ってきましたこの本に、ボクはこれだけ訂正の付箋を貼っておりますが、その誤植をどうしても知りたいという人は、おっしゃってください。もちろん、付箋抜きでも読めますし、訂正すべき箇所を探しながら読んでいただくのも、楽しい読書になるかもしれません。
前回は、岡倉の人生・活動を3期に分けて「序」「破」「急」としました。『茶の本』はこの「急」の段階の仕事ですが、その後、彼はまだ5年間存命していて、この間にも考えかたを変えていきます。
その考えを変えていっている間に、岡倉のことを理解していく上でとても重要なことがあった。岡倉はその思想を結局熟すことなく死んでしまった。50歳とまだ若いですから、まだ熟し切らない「序」「破」「急」の「急」の頂点で死んでしまったという気がしています。そういう高みにいこうとするときに書いている。これからその波に乗ろうとする直前の段階で書いているのがThe Book of Teaです。その後、著書はありません。ちょっとまとまったもので言いますと「白狐The White Fox」と『国宝帖』です。『国宝帖』は、「没後の岡倉」の翻弄されていく運命を象徴しているようなところがあります。中川忠順という岡倉の忠実な弟子がいますが、じつはこの人はとても食わせ者、とボクは思っています。この人が岡倉没後の全集の英文関係を全部整理して行きます。「日本美術史」も整理するのですが、かなり勝手な判断でもとの原稿を切り刻んでいます。岡倉は彼を信頼していたのですが、岡倉の死後ひどい裏切りかたをしていきます。岡倉がボストンで考えていたことを全く考慮しないで、「天心」神話形成に貢献していくのです。「日本美術史」などは平凡社で岡倉の全集を出すまでは、中川忠順編集版が岡倉の「日本美術史」の定番として流通していました。『国宝帖』は、岡倉と中国思想、とくに老子との関連についての岡倉最晩年の思想を教えてくれる貴重な仕事の一つです。筑波大学の林みち子さんの報告によると旧全集収録の『国宝帖』では、岡倉の老子関係の記述がごっそりカットされているということです。それをカットしたのは中川忠順なのです。とにかく「天心」として岡倉覚三を祀り上げた人々の言説は、息子も弟も横山大観も、みんな見直していく必要があります。
岡倉の中に流れているものの中で一番大事なのは『老子』だと、前回申しあげましたが、その「老子」が『茶の本』の中でどんなふうに活かされているか、ということを今日のお話のテーマにしたいと思います。
 原題は“The Book of Tea”で現在は『茶の本』で通っています。岡倉覚三によって英文で書かれ、1906年にロンドンとニューヨークで出版されました。今日その初版本を持って参りましたが、扉を開くと、まずはThe Book of Teaとあります。この時代の本はそうなのですが、すごく手触りが良い、クロス装です。大げさなクロスではなく、タイトルは金箔押しです。造本は軽くて、開いても戻りません。今の本は開きっ放しにするとすぐ戻ってしまいます。この本は古本で買いましたから、所有していた人の蔵書票が扉の裏に張り付けてあります。原題の下にBY OKAKURA-KAKUZOとあって、さらにその下に3行に並べて、一番上がG.P.PUTNAM’S SONS、二行目にLONDON AND NEWYORK、その下に1906とあります。ところが扉の裏にはCOPYWRITE 1906 by FOX DUFIELD & CANPANYともあります。別に初版本と言われているものがあって、平凡社の岡倉天心全集ではそっちを使ったのですが、そこではFOX DUFFIELD&COMPNYとなっていました。これはアメリカの出版事情の歴史とか細かいことを調べていくとわかるのでしょうが、多分フォックス・ダフィールドという出版社がニューヨークにあって著作権はダフィールド社に属し、出版販売はプットナムがすることになった、ということのようではないか。プットナムはプットナムとその息子の合資会社で、ロンドンとニューヨークに店があったのではないか、と思っています。
歴史というのは、複数の原因から一つの出来事が起きて、それを解明して真実は一つということで落着するかもしれないが、解明する人たちにとっては一つの事実として限定できないのですね。別な見方から調べていくと必ず別の事実が浮かび上がる。これが事実だと思っていても、またそこに隠れていた事実が浮かんでくる。だから歴史を書く時気をつけないといけないのは、いまわれわれが持っている史料ではこれが事実と考えられる、と受け止め記述することです。そういう態度で歴史を書き考えないといけないと思っています。こんな小さな本の出版一つでも、出版元はどちらなのか、決めかねます。が、それは『茶の本』というテクストを読む上でそんなに重要なことではないだろうとも思っております。『茶の本』に関して言えば、ともかく1906年にロンドンとニューヨークの出版社から出たということさえ押さえておけばいいことだろうと思います。
ボクの興味はどういう経緯でその本が出版されたかという事実の探索以上に、この『茶の本』がどんな内容で、岡倉が何を言いたくて、この本をどういうふうに書いたか―ということです。
 『茶の本』の本文は7章から成り、The Ideals of The East(『東洋の理想』)1903年刊のように他の人の序文や著者紹介は一切ない。目次と本文だけです。これは注目しておいていいことで、前回お話しましたが、『東洋の理想』ではインド思想研究家のニヴェディタさん (本名・マーガレット・E・ノーブル=英国人女性) が序文を付けて、それにより『東洋の理想』は一種の思想的色付けをさせられた、というのがボクの考えです。そういう意味では無垢な岡倉が書いただけの文章ではない本に作られた本です。またThe Awakening of Japan 1904は『日本の目覚め』とか『日本の覚醒』と訳されていますが、こちらはニューヨークのCentury(センチュリー)社から出版され、Publishers’ Preface〔出版社による序〕が巻頭に付けられ、岡倉はどういう人か紹介しています。日本人でとても東洋の美術に精通した鑑識家で英語がとても達者な人、としています。
『茶の本』では、1904 年にセントルイス万博で講演したり、ボストン暮らしも三年目に入り、そういう著者紹介が一切必要なくなった、ということでしょう。
この本が出来るまでに、いろいろな経緯があったようです。富田さんからうかがったように、最初は美術館に奉仕するご婦人たちに話したものでしょう。それから当時の雑誌に日本や中国の紹介をしているのがあまりにもでたらめなので、岡倉が怒って「ぼくが代わりに書きましょう」と書いたのが詐呂「花」の元になったようです。その後、第1章The Cup of Humanity〔人間主義茶の一碗〕と第2章The Schools of Tea〔茶の諸流派〕も雑誌に載りました。これが美術館で話したあと岡倉が捨てた原稿を拾ったマクリーンがセンチュリー社に渡し、雑誌に載せられたと考えていいでしょう。センチュリー社という出版社はかつてリチャード・W・ギルダーという人が編集長で、そのギルダーと岡倉は古い知り合いでした。岡倉が23歳の時、最初に欧米旅行に行った時にアメリカでとても親切にしてもらった人です。
『茶の本』の初版本は全7章に分かれていて、その初版の目次には、各章ごとに数行の要約が載っています。これは編集者が付けたものでしょう。ここでは、再掲いたしません。
犠The Cup of Humanityの「ty」は、「tea(茶)」の音にかぶせた言葉遊び、駄洒落だとさきほどもうしました。岡倉は多分この講演をする時、茶のカップを手にしながら、ご婦人たちを笑わせたのでしょう。でもこの「–ty」を「tea」と掛けているのは大事な岡倉の狙いどころで、後ほど説明します。翻訳するならこの洒落を何とか訳さないと岡倉の真意が伝わらない。そこはかなり考えました。十何種類考えた挙句、「人間主義茶の一碗」としました。でもまだ満足していません。「一杯の人間主義茶」のほうがいいかな、と最近は考えています。もっと面白い訳がないか、ぜひ皆さん考えていただきたい。Humani–teaとしたよき、ウーロン茶や焙じ茶と同じように受け止められるどんな日本語があるか、いろいろ考えるだけで楽しくなります。
Humani-teaなどと言葉遊びを楽しみながら、地球上で西洋と東洋はいかに理解し合わない歴史を辿ってきたか、と語り出し、敵意を煽ったり誤解を応酬するのは16世紀以降だが、同時にその時期にteaは、東から西へ伝わっていて、東でも西でも人々を慰め喜ばせてきた、茶こそ東西相互理解の妙薬と言える―と話を進めます。現代の『茶の本』を語る人は、ここで躓いてますね。東西の対立と融和は、本当に言いたいことを始めるための前座噺のようなものです。犠呂任禄个世靴鳩襪咾某┐譴討い襪世韻任后2倉は、外交官になるつもりはなかったし、文化使節という自覚も持っていませんでした。なによりも芸術を愛する人だった。その「芸術」を愛することを、この地球上でどう全うすればいいか、これが、彼が一生を賭けた課題であったし、『茶の本』でも、その問いが貫かれているのは、少し丁寧に読んでいけば気づくはずです。「茶」を愛し合うことで東西の調和を図りましょうなどと唱えているのではなくて、茶という東でも西でも誰もが楽しんでいる飲み物には、人間的に生きることはどうしたら実現できるか、真に人間的な芸術となにかを考えさせてくれるなにかがある、ということを、岡倉は語りたいのです。
蕎The Schools of Teaは、「茶の流派」とか「茶の学派」とか訳しています。中国大陸で誕生した「茶の歴史」が語られます。「茶の歴史」とは、「喫み方」の歴史です。団茶、粉茶、煎茶と展開していく、それぞれの喫み方が、時代精神のようなものを裡に隠して日本にもたらされていることを語ろうとしています。岡倉は、陸羽の『茶経』に力を入れて語っていますが、この『茶経』は、まさに老子の思想を糧に成立した書物です。それを伏線にして、珪話磴竜覆瀛が儀式化されていく背景に、禅という仏教と道教が大きな働きをしていること。老子の思想を簡潔にリライトしてみせる章です。
珪蓮Taoism and ZennismのTaoismもZennismも岡倉の造語で、「道教と禅」と訳していいでしょう。Zennismを禅教と訳している人もいますが、「禅」という言葉が普及していなかったころなので、岡倉はZennismと分かりやすく造語にしたもので、今なら”zen”で通じます。現代の禅はまた違う意味でも使われていて、クールで格好良く落着いているというようなニュアンスで使われています。だから、現代ではまた、zenは多義的で、仏教の一流派の禅とクールな「ゼン」を区別しなければなりませんね。
絃The Tea–Roomは「茶室」です。簡素さと質素さを極限まで空間化した場でこそ、「美」の行為が実現できる、そんな営みの器としての建物が茶室の理想なのだ、と語る岡倉の思考の軸に、のちにお話します『老子』11章の「無Vacuum」の一節が活かされています。
江Art Appreciationは「芸術鑑賞」と訳しましたが、フランス語版では“Du sens de l’art”と訳しており、「芸術の意味について」という意味です。フランス語の訳者が本文を読んでこの章全体をとらえた、いい訳だと思います。岡倉はArt Appreciationというタイトルをつけておいて、話し出していって芸術とは何か、という問いを深めていった章です。『茶の本』というのはそのように、初めからきちっと構成を作って書いていったというより、話をしつつインスピレーションが湧いて、次に飛んでいく、というようにして作り上げられた本で、そのような展開をボクたちも楽しみたいと思います。そういうノリのある文体です。「芸術の意味」を考えるのに「芸術鑑賞」というタイトルを建てたのは、「芸術」という出来事は「鑑賞」という行為がまっとうされてこそ完結する、この鑑賞がほんとうはいちばん難業だ、ということを岡倉は言おうとしていたからだ、と読めます。
詐蓮Flowers「花」です。これも複数形です。先にも申し上げましたが、「花」を一章独立してさせています。ひょっとしたら彼は『花』というタイトルで、『花の本』The Book of Flowersを書く可能性があったかもしれない。最初「花」の本を書くイメージが生まれ、最後にやっぱり「茶」、に変えようとしたのではないか、と思います。これはボストンでガードナー夫人といった人たちと茶会をやったり、ラファージやビゲローと話していて、「茶」が持つ芸術的意義の大きさ、芸術だけでない宗教の域にも及び、一種の東洋哲学を実践している営みを改めて認識し、「花」も大事だが「茶」で語ろう、「茶」を語れば「花」の問題も語り切れると考え『茶の本』にした、第讃呂呂泙気砲修譴鮗汰している、と考えることができるからです。それほど、この本のなかで「花」は大きな位置を占めています。ですから、ひょっとしたら『花の本』になっていたのが『茶の本』になった、という言い方をしてもいいかもしれないと思うのです。そう読むとこの本にさらに近づける気がします。次の章で、利休が切腹するところを語って『茶の本』の最後の幕が降りますが、この利休の死と詐呂虜の<生贄>は重なっています。利休は、桜の花が散るように自死を遂げるのです。
最終章の讃呂Tea Masters「茶の宗匠たち」と「宗匠」を複数形にしながら利休一人が主人公の章です。「利休」という一人の名前にすべての偉大な茶人たちが奉仕しているという感じです。
つぎに、『茶の本』を構成するいくつかの要素を見ていきましょう。
まず「文体」です。全体にちょっと気取った洒落っ気のある、語り文体になっていて、厳粛な文章ではありません。
『茶の本』はこうして7章で構成されています。一般に、本というものは文章が書物という形に収められ、その文章は、内容、構成、などの要素から成り立っています。また、文章にはいろいろな「文体」がありまして、その文体がその本を特徴づけています。その本のために著者が選んだ文体で、何かの話題主題を読者に伝えようとしているわけです。
構成要素のもう一つは「素材」、つまりその本が展開する話題のことです。そういう話題を拾いながらその本独自の文体で語っていって、文章が出来てきます。この本では「茶」にまつわる歴史と哲学とでもいうべきものが「素材」として選ばれています。
その「文章」は、何かを伝えたいという「目標」を持っています。そうして何かを語っていくことによって、大抵の著者は、いい本の場合、もう一つの隠した主題をそこへ忍び込ませていきます。或いは、著者もひょっとしたら気付いていないかもしれないのですが、大抵の著者は気付いていると思いますが。表向きの文章で語っていることの奥に、もっとこんなことが言いたかったというのが忍びこんでいます。
その時、何か言いたいことを、こうしたら言えるだろう、ということ。何か言いたいと思っても、書かれた文章は思いの通りの言葉になってくれているとは限りません。そこで著者は、さらにいい言い方はないかと言葉を探します。そのとき、もう一つの「隠れた主題」が忍び込んでくるのです。その「隠れた主題」こそ、きょうのテーマでもあります。その主題とは、人間性humanityの追究と芸術artとは何か――この二つを考えることです。「主題」追究は、書くことの「目標」でもあります。今までの岡倉の研究者はこのhumanityに注目しませんでした。なぜかというと、やはり岡倉が亡くなった後「天心」に祀り上げられたことに関連してきます。戦中の「大アジア主義者」の像と戦後、その延長線で「美の使者」に変えていこうという思惑が、戦後も現代も支配しています。評論家の竹内好さんは「岡倉は危険な思想家だ」と言いましたが、それは、岡倉は「大アジア主義者」というのを虚像だと見抜けなかったからそう言った、「アジアは一つ」という発言が「天心」の中心思想でというのを疑いもしなかったからで、1906年代では、まだそこまで見抜く人は出てこなかったのですね。それで岡倉に興味を持つ人は、これまで誰もが、ボクもその一人だったのですが、岡倉がアジアのことをどう考えているか、とてもやっかいな問題として扱ってきた。解ったような解らないような解釈をして済ましてきた。「アジア主義者岡倉天心」の像が無意識の裡に脳裏に棲み着いてしまっていたからなのですね。「アジア主義者」に重点が行くと、アメリカへ行って学んだことが岡倉の中でどれだけ重要であったか、アメリカ・ボストンで岡倉がすごく勉強したことということについてはあまり関心を持たなくなってしまいます。その結果、『茶の本』の中におけるhumanityの意義の大きさに注目しないで済ましてきたことにもなったのだろうと思います。それが、これまでの「岡倉研究」の実情と言っていいでしょう。
岡倉がアメリカに行ってからの仕事を見ますと、『茶の本』を書く前、セントルイスの万国博覧会で「絵画の近代性について」という講演をしています。これなどを読みますと、岡倉はアメリカに行って、humanityという言葉の重要さに気づき、セントルイスの講演ではhumanityという言葉を頻繁に使っております。おそらくアメリカに行って、humanity「人間主義」、「人間を生かすこと」の大事さを岡倉は知るのです。岡倉は、ボストンで働くようになって、視座(世界を視る基点)を「アジア=日本」から「人類=人間」へシフトし始めたのです。ボストンのような環境にいれば、それは当然で、岡倉にとっていいことだったと思います。humanityを生かし切ることこそ芸術の使命でもあるし、人間が生きていくことの使命でもあるし、歴史を考えることの使命でもある、というのがセントルイスの講演の底に流れているメッセージです。岡倉はボストンで暮らすようになってhumanityに目覚めた、と言い換えてもいい。それ以前はこの言葉をそんなには使ってはいません。”The Ideals of the East”と”The Book of Tea” の決定的な違いのキィワードは、humanityです。
そのhumanityはこの世界を生きていく限りとても大切なことだ、humanityを生かせなければ人間ではない、humanityという花を何とかして咲かせ、活かせる世界を作るにはどうしたらいいのだろうか、というのが、彼の10年間に及ぶアメリカの生活に隠された課題であったと思います。それと、彼がずっと携わってきた芸術artとは何かというテーマ、この両方を追究しようとしたのが、10年間のボストン生活であり、そのボストン生活に促されて生まれたのが『茶の本』です。humanityとtea、そういう意味ではThe Cup of Humanity〔人間主義茶の一碗〕は単なる駄洒落ではなく、高いところを見つめた洒落であったわけです。美術館で女性たちの前で、彼がThe Cup of Humanityと言った時、女性たちがくすくすと笑ったりしたら、“しめた成功だ”と思っただろうし、何よりhumanityの大切さをそんなふうに伝えたかったのだと思います。『茶の本』の中でもhumanityという言葉が何回も出てくるのです。  
どうも「大アジア主義者」の亡霊の影は今も大きいようです。偉そうに言ってますが、ボク自身もミネルヴァ書房の『岡倉天心』を書いた頃から、ようやく「大アジア主義者」の亡霊から距離を置くことができるようになりました。それが2005年ですから、ボクは1973年から岡倉をやっていますので30年間その亡霊から抜けられなかったということです。
humanityをどう生かすかということと、芸術とは何か、ということはどこかで一致させなければいけない、という岡倉の追究がこの本を作らせたという感じがしています。『茶の本』の隠された主題はここにあります。
(その2 に続く)


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