木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

全体表示

[ リスト ]

記憶と無文字と児玉靖枝さんの絵                                 

先日も、楽しい時間をありがとうございました。「記憶」をめぐる『茶の本』の一節と、プルーストとの「コレスポンド」のお話が、〈無文字文化〉につながっていくような気がしたのですが、「あ、」と一瞬、本当にふっと頭をよぎった感触だったので、教室ではまとめきれず、またもメールで失礼いたします。

〈無文字文化〉から〈文字文化〉への移行は、「記憶」ではなく「記録」を重視する文化・社会への変化、とも言い替えられるように思いました。そう考えると、縄の結び目を繰りながら伝承をよみがえらせる、アイヌや南米(でしたでしょうか)の風習は、「記憶(無文字)」と「記録(文字)」が、境をあやふやにして重なっている、そんな文化の様態に位置づけられます。彼らにとっては、「記憶」と「記録」を分かつ必要などなかったのではないでしょうか。琵琶法師が歌う『平家物語』も、「記憶」と「記録」の双方で成り立っていたはずです。

口承や謠は、語られ、歌われるたびごとに、歌い手の感情と聴き手の感情が響き合い、ゆらいでいきます。つまり、口承や謠は、さまざまな「記憶」が重ねられ、それゆえに生じる変化を、身の内に抱きしめていることになる。そういう文化の様態に生きる人びとは、確固として動かし難い「記録」ではなく、「記憶」の厚い堆積に支えられ、ゆらぎをもった認識こそを、「史実」あるいは「リアルなもの」と考えていたのかもしれません。

日常の小さなものに目を向ける『茶の本』と、紅茶とマドレーヌというふとしたものから、とめどなく記憶がほどかれていくプルーストの小説のコレスポンドは、人間にとって「リアルである」とはどういうことかを問い、ささやかで儚い「リアルなもの」にもとづく芸術や美の在り方を、私たち考えさせてくれるように思います。どちらも「文字」で書かれた書物だけれども、人間の文化の古層にある〈無文字〉の精神は、「文字」を使っているか否かで測れるものではない、そのことを示す一例として、先生のコレスポンドのお話がさらに広がっていくようでした。

あの日は児玉靖枝さんが参加されていたグループ展「伊庭靖子 児玉靖枝 袴田京太朗 ― 悪魔的な」(MA2 Gallery)の最終日で、駆け足でしたが、そちらを拝見してから〈土曜の午後のABC〉に伺わせていただきました。3人の制作の共通の傾向というより、展示されていた作品たちの、それこそコレスポンダンスだったのかもしれませんが、「絵画(あるいは彫刻)は “見えなくする”ことができるものなのだ」という想いが、会場を回っているあいだに、私のなかでどんどん強まっていきました。

視覚(のみ)で享受すると思われがちな絵画の魅力は、「見えるようにしている」点で評価されることが圧倒的に多いように思います。「見えるようにする」対象が、眼には見えないもの(たとえば「精神性」といった言葉で片づけられるもの)であれば、なお凄いとされます。でも、絵画は、「見えないようにする」ことにも、みずからの可能性を賭けてきたのではないか。

昨年から、児玉さんは「Asyl」と題したシリーズを展開していて、紫や黄や青のみ(厳密には単色とは言えませんが)で木を描いたり、梢の下が蔭に沈んで茫洋としているような風景を描いています。その、蔭に沈んだ部分をもつ新作の前を横切っていったとき、私の歩みに合わせて、真っ暗に思えた蔭のなかに、ふっと枝葉が浮かんで、そして消えていきました。絵具の質感の違いや、塗り重ねのテクスチュアがもたらす、本当にかすかな視覚。その絵を横から眺めると、窓からの光の反射で絵柄がほとんど見えなくなり、部分的な輪郭だけが浮き上がってきます。真夏の強烈な陽光にさらされて眼が狂わされてしまう、そんな視覚の記憶がよみがえりました。

私たちが現実に前にしている世界は、本当は、「見えるもの」よりずっと多くの「見えないもの」でできています。見えないようにされた何かが、ここに潜んでいる――。そういう予感あるいは疑念は、見たい、触れたいという欲望へと私たちを導くと同時に、「見えていた」と思っていたものに対して、一気に不安を催させもします。それこそ、悪魔のように。

あとで読んだ3人の往復書簡における袴田氏の説明では、「悪魔的な」という展覧会のテーマはまったく別の意識から持ち上がったようですが、あの会場をめぐりながら、私は、「見えなくされた」ものを秘める絵画や彫刻のリアリティが、どれほど悪魔的か(児玉さんのタイトルを引けば、それは「Asyl(聖域)」にも変わるわけですが)、そういう畏れに似た感覚にとり憑かれていました。一度描いた画面を塗りつぶして、そこから掘り起こすようにしてイメージを結んでいく児玉さんの制作の方法(その痕跡を示すキャンバスの側面)が、どれほど「見えないもの」の魔的な力を湛えていたのか、そのことに、あらためて気づかされる時間でもありました。

ギャラリーの上階から降ってきて、1階の入口のほぼ正面に掛けられていた児玉さんの紫の「Asyl」をもう一度みつめたとき、ガラス越しに外光がうっすらと射し込んで、絵が光に満たされました。絵そのものが発光していると思えるくらい、まばゆい姿でした。パール材がふんだんに使われていたことだけが原因ではないと思います。色を極端に削いだ樹木の絵、まさに「見えなくさせる」ことを孕んだ絵は、絵具でもっとも定着しがたく、人の視覚がもっとも捉えにくいはずの、実体のない光のきらめきを、絵画という物体として顕現させているようでした。その光に目をくらませたまま、恵比寿駅までの道を急ぎ、〈ABC〉で先生のお話をうかがったあの日は、〈無文字文化〉の片鱗と、「見えなくする」ことを抱えた作品たちの記憶が、どこかで共鳴・照応しているのを感じつづけている、そんな一日でした。

追記.
「それは幾度となく螺旋的に訪れる、感覚が未分化なまま揺籠に揺られているような心地の良い場所、何度となくそこに近づきながら留まることは許されない場所なのです。/裏返せばそこは断崖絶壁のような険しい場所で、まだ見ぬ向こうへ踏み出さねばならない場所でもあります。」と、昨年刊行された作品集に児玉さんは記しています。ひとつの制作の極点は、作家にとって、ぬくもりに包まれた安全地帯であると同時に、これ以上の展開を阻む崖ともなる。その表裏一体の危険を見落とさない厳しい感性と、見えない先に踏み出すことを自身に課しつづける、作家たる者の強い意志。それらが読み手をも貫いてくるようで、私はこの一節がとても好きです。児玉さんがふたたび「まだ見ぬ向こうへ踏み出」した「Asyl」の手触りが消えてしまわぬうちに、群馬のグループ展* も訪れなければ!と思っています。                                     坂本恭子  
                                                
*「みつめる 見ることの不思議と向き合う作家たち」(9月16日まで、群馬県立館林美術館)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事