木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

全体表示

[ リスト ]

エロシェンコ(その4)

<6>

エロシェンコの汎生命共同体主義は、個体の外形の相違を超えて共通するなにかを探ろうとして出てくる思想です。こういう考えかたは、彼が盲目であったことと関係があったのかどうか。
<盲目であること>と<文学/芸術>との関係について、盲目でないボクが考えられることをこのさい考えておきたいと思います。
<盲目である>人の文学、それはいいかえれば<読む>こととしての視覚を奪われた人の文学ということですが、それは、文字の系列が生み出すイメージの積層[ページからページへと繰り展げ繰り戻すイメージやストーリーのカットバック効果]を喪失しています。ストーリーを辿り直したり、イメージを再確認するために、すばやくページを戻るということをしない/できない文学として<読む>ということです。点字を指でなぞって文字を追い、意味とイメージをつなげていくのですが、そのイメージとストーリーの積層を崩して戻ることはしないのです。
その代り、おそらく[視覚を奪われていないボクは「おそらく」としかいえない]視覚を奪われていない者、いいかえれば非盲目者が、絵を<見る>ように、文字[点字]で造られ積み上げられた/あるいは耳から紡ぎ上げた朗読されていく作品を<見ている>のではないか、一枚のキャンヴァスをみるように。キャンヴァス[タブロー]をみるように聴くあるいは触れて追う。触覚による[指で読みとる]方法は、時系列的想起によるイメージの作りかただが、触覚を通して残るのはつねにタブロー的なのではないか。その意味で<盲目の人の文学>は<触覚的タブロー>をつくっているといえないか、ということなのです。エロシェンコの見えない眼の奧、網膜の彼方には、キャンヴァス/タブローのように作品が開いている――そういう能力を彼は持っていた。それは文学を現代よりははるかに絵画的に読んでいたにちがいない近代以前の人びとの絵画=絵巻とか壁画とかのありかたと共存するところの多い能力のような気がします。[これは、非盲目者の推測以上のことでしかありませんが、そう考えることによって、日頃はだれでも見えているつもりの非盲目者の驕りを少しでも戒めることができるかと考えました。非盲目者の論理と方法を正しいと思いなすことと近代合理主義とはどこかで手をとり合っているような気がしてなりません。]
以前、「三遠」の解釈のところでも申しましたが、10世紀の郭煕の「深遠」解釈は「山の前から山の後を臨む」ことでした。ここには「山の後」という現実では見えないところを見ようという姿勢があります。ところが中国でも17世紀になると「芥子園画伝」では「深遠」は山を見下す図法だというふうに解釈されます。時代が新しくなるほど<見えること>と<見えないこと>の区別はきびしくなり、その狭い<見える>能力で<見えるもの>だけを信じるようになっていくことがこんな解釈の変遷からも立証されます。
そんな近代のなかではエロシェンコの<視覚>は例外者のものとなっていくのでしょう。エロシェンコの文学の創りかた/味わいかたは、やはり近代の方法・概念を逸脱しており、そのことによって汎生命共同体思想[近代人はそれを「類型的」「陳腐」と批難する]を安々と手中にしたのかもしれません。しかし世間はそれを理解しませんでした。魯迅と周作人が、エロシェンコが北京を去っていつまで経っても戻ってこないし音沙汰もないのを、「エスペランチストのさびしさ」のせいにしていますが、その寂しさは、彼ワシリィ・エロシェンコという存在の寂しさだったような気がしてなりません。
こんなふうに彼は、魯迅のところへも、日本の社会主義者[とそのシンパたち]のところへも、風の又三郎のように現われ去って行きました。日本では竹橋に雨の滴をしたたらせた身体で現われ、竹橋に思い出の肖像を遺して消え去ったのです。



今回の「言葉」は、「革命だとか叛逆だとかいう最上級の言葉さえ使えばそれでいいというような考えは一種の革命の遊戯にすぎない」というのを選ぼうかとも思ったのですが、これはエロシェンコがそういったと和田軌一郎が回想録『ロシア放浪記』の中で書いていることばで、エロシェンコの書き遺した言葉を選びたいという思いもあって、止めます。それに、次の言葉のほうがはるかに示唆的でもあると思われました。

「坊ちゃん、そんなに不審がらなくてもいいよ。犬や牛や鳥や、また魚だって、内容はちっとも人間とちがやしないやね。ただ、ちがうのは着ものだけさ。」
「何千年かまえには、僕たちの着ものは魚の着ものとちっともちがってやしなかったんだ。そして、僕たちの先祖が狼の着ものを着ていたのは、つい近ごろの話だからね。坊ちゃん、何千年後のことだかしらないが、僕たちも君たちのように洋服をきて、いばって歩いて見せるよ。」
(「人類のために」)

坊ちゃんの愛犬エルちゃんの台詞です。犬も牛や魚だって人間とちっともちがわない、ちがうのは着物だけだというところに、エロシェンコの汎生命共同体思想が見事に現われていると思います。

閉じる コメント(1)

顔アイコン

エロシェンコの要約を読んで、「汎生命共同体思想」が面白いと思いました。 私の好きな詩人の山之口獏ヒト社会的な上下関係を取り払おうとするところがありますが、動物と同じ地点に立とうとはしていないように感じます〈山之口獏の場合、放浪生活で得た感覚に基づいて、人と動物を意識的に分けたようにも思えますが)。 でも、だからといって、エロシェンコの汎生命共同体思想的「擬人化」は「擬動物化」にはならないのかな、と思いました。種の違いを乗り越えて人間らしく書かれるから「擬なんとか化」なわけですが、エロシェンコの書くお話では、命があって生活していることを出発点にして、その出発点が有効な限りでいろんなものが交流しているんですよね。エロシェンコのお話では「擬なんとか化」が成り立たないんですね。

2005/8/2(火) 午後 1:10 [ 遠藤知恵子 ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事